3-1

 ソラの一日は、カレンダーにばつ印を書き込むところから始まる。いつから始めたかも覚えていない、長い朝の習慣だ。

 とはいっても、起床するのは朝と呼べるような時間帯ではない。店主であるショウが朝六時から夜の一二時までの一八時間店頭に立ち、眠りについている六時間をソラが店番を代わっている。だから必然的に、ソラの就寝時間は太陽が昇ったあとの時間となる。


 うなじの位置で結わえたまま寝ているため寝癖のついていない髪を普段の高さで結び直し、手の甲で寝惚ねぼまなこをこすりながらぺたぺたと歩く。カーテンを閉めたままの室内は足元すら見通せないほどに暗く、時折爪先がなにかを蹴飛ばしているのも気にせず進む。

 あらかじめ整理箪笥チェストの天板に畳んで用意していた衣服に着替えてから、脱いだほうをプラスチック製のかごに投げ込む。洗濯を待つ服の山に積まれていた靴下がその拍子にころりと転がり落下するも、顔を背けてなにも見なかったことにした。

 カウンター裏に続く短い廊下の途中に無造作に置かれた段ボールのなかから固形の携帯食料を一箱取り上げ、右手側の壁を見遣る。真白い長方形の白紙に線と数字だけを書き連ねたカレンダー上、ひときわ大きく記された月を表す数字は十。一年の始まりから数えて十個目の月だから、という敢えてわかりやすい数字表記にしているだけで、その下に小さく書かれた『落葉月アポフィロスィ』のほうが正式名称である。


 ——今年が終わるまで、もう三ヶ月きったのか。


 若干の感慨深さを味わいながら、昨日の日付の上にばつ印を書き込む。正直なところ、日時と曜日の感覚がまるで存在しない奈落で、こうしてカレンダーに印をつけることで日付を把握する必要はないのではとソラは思う。全ては換金屋店主たる兄が、月に一度の来客の日を忘れるわけにはいかないからと主張したからに尽きる。

 それについても、どうせお前は店の外に一歩も出ようとしないんだから必要ないだろ、と言い返したいところだけれど、いまだに口にしたことはない。無益な口論は避けるが吉だ。

 カレンダーを束ねるリング型の金具にくくりつけているマーカーペンを宙に放る。ペンは重力に従って真直ぐに落ち、ふたつを繋ぐ紐がぴんと張り詰めて左右に揺れる。


 歩きながら携帯食料の箱を開け、ふたつ並んだ個包装のうちひとつをつまみ出して開け口に沿って袋を破る。特に味を見ずに箱を取り上げたから味を把握していなかったけれど、一度目の咀嚼でチョコレート風味だと気づいた。口内に広がる、菓子類特有の人工物的な甘さ。

 基本的に奈落に支給される食料は味に重きが置かれておらず、栄養補給を主としているせいで味はほぼないに等しい。あったとしても過剰な場合がほとんどだ。奈落の人間達はあくまで食事は娯楽ではなく、生命維持活動のひとつとしか見做みなしていないのだろう。あるいは、罪人に食らわせる食料に手をかける意味などないとでも言うかのような。


「——あ、おはようソラ

「はよ」


 暖簾のれんを掻き分けて店内に出ると、すぐ左横から声が投げかけられた。反射的に挨拶を返して目を向ける先、カウンター奥で椅子に腰掛け、悠然と足を組んでいるショウと視線が交差した。彼の膝上には厚みのある書籍が開かれている。


「今日も暇そうだな。朝から読書なんて有意義なお時間を過ごされていらっしゃるようで」

ソラこそ、寝起きなのに随分と口が回っていらっしゃる」

「皮肉に皮肉で返すなよ……んで、なに読んでんだ?」

「世界階層説についての論文」

「…………なんて?」


 聞き覚えのない単語を飲み込めず、危うくつられて携帯食料を喉に詰まらせてしまいそうになった。ごくり、とかろうじて嚥下してから会話を繋ぐ。


「聞いたことない? 世界階層説」

「ない。なんだそれ」

「世界はいくつもの国が縦に積み重なって創られている、っていう説だよ。僕達に一番関わりが深いのは、楽園と奈落だね。楽園から人を堕としてるのに、奈落から空を見上げても雲しかない。雲の上で人間が暮らせるはずがないから、こう……奈落の上に楽園が積み重なっているんじゃないかっていう考えかただよ」


 霎が両手で拳を作り、縦に積み上げてみせる。

 記憶を辿ってみても、確かに奈落から頭上を見上げたところで広がっているのは広大な天空だけだ。幼少期に楽園から奈落に越してきてはいるものの、当時はふたつの国の繋ぎ目がどうなっているかを確認するすべを持っていなかった。そも、そのような論説があること自体を知らなかったから確認もしなかったのだろうけれど。


「仮にそれが真実だとして、楽園の人間はどうやって奈落に降りてくるんだよ?」

「それぞれの国を繋ぐ螺旋階段みたいなのがあって、それを使って移動するって話らしいよ。あくまでこの本のなかだけの仮説にすぎないけどね」

「へえ」

「まあ、こんな論説なんて定期的に楽園から降りてくる人達に訊けば、簡単に解明されるんだろうけどね。ウルハさんとか」

「訊いて簡単に答えが返ってくるなら、そもそも論説なんか存在しないんじゃねぇの?」

「そうかもしれないけどさ。ウルハさんだったら、なんとなくさらっと教えてくれそうじゃない?」

「いくらあの人でもそれは……いや、あり得るか……」


 毎月顔を合わせているショウとは違い、年に三回あるかどうかという頻度でしか会わない女性の面影を脳裏に蘇らせる。最高審判官という堅苦しい職名とは真逆の飄々とした性格で、法に従い人を裁く断罪者でありながら情にあつい。

 裏を返せば、情に訴えれば揺らがせるのは案外容易い。旧知の仲であればなおさらだろう。問題は、果たしてその真実は相手の良心を悪用してまで知りたいものか否かだ。


「……つーかそれ、なにが面白いんだ?」


 少なくともソラは、全く興味がそそられない。だから心に浮かんだままの疑問を投げかけただけだったのだけれど、ショウに心底呆れられているような半眼で見られてしまった。


ソラはもうちょっとロマンってものを知ったほうがいいと思うよ」

「知ったところで得するもんでもないんだろ、どうせ」

「それはその人次第じゃない? みんながみんな、ソラみたいに損得勘定で生きてるわけじゃないからね」


 そこでショウソラに顔を背けて、店内へと目を向けた。


アマネさんはどう思う?」


 一拍遅れてショウの双眸から伸びる軌跡を辿ると、カウンターから見て右手側の隅でちょこんと椅子に腰掛けるアマネの姿があった。会話に引き入れられると思っていなかったようで、不意を突かれたように数度睫毛を羽搏はばたかせる。

 そうね、とひと言置いてから、彼女はショウへと目を向けた。


「あまりにも現実的すぎる人は面白みがないと思うわ」

「悪かったな、面白い人間じゃなくてよ。つーか、なんで当然のように居座ってんだよあんたは」

「私を監視するって言ったのはあなたじゃない」

「その提案を出したのはそっちだけどな」


 ソラは携帯食料の最後のひと口を荒く噛み砕いて飲み込み、机上に置かれている飲みかけの飲料水のボトルを掴み上げて喉を潤す。それからカウンター下のゴミ箱に空になった箱と袋を放り込むと、一直線にドアへと向かった。


「また『散歩』?」

「ああ」

「寝起きなんだから、もっとゆっくりしてから行けばいいのに」

「ちんたらしてっとすぐ陽が暮れんだろ」

「はいはい。気をつけていってらっしゃい」


 ややおざなりな節のあるショウの見送りの言葉を背に受けて、ソラはノブに手をかける。護身具は小型ナイフ一本と、いざという時武器にもなるショベルがあれば事足りる。

 ドアをくぐる直前、抽象的な単語のみでも成立する双子の会話についていけなかったのであろうアマネが、視界の端で小さく首を傾げるのが見えた。



   ❄︎



「……で、なんであんたは当たり前のようについてくんだよ?」


 相も変わらず砂塵の吹きすさぶ荒寥の地を進みながら、振り返らずにソラは問いかける。父親の真似事をしているうちに自然と身についた無音の歩行の、すぐ後ろを追う微かな跫音きょうおんがひとつ。その相手は身を翻して確認せずともわかる。


「私を屍肉漁りスカベンジャーだと疑っているのはあなたなのに、随分な言い草ね」


 間髪容れずに返る、風音のあわいを縫ってなおよく透る清廉な声。


「だからって、俺はついて来いなんてひと言も言ってない。今からでもいいから店戻れよ。ショウと一緒にいりゃ監視になんだろ」

「それでもし、私が本当に屍肉漁りスカベンジャーで、彼を殺してしまったら?」


 瞬間、どくりと心臓がひときわ大きな鼓動を打ち鳴らした。全身に巡る血管の全てがはち切れんばかりに強く、激しく。

 足を止めると、あとに続く彼女の足音も同時に止んだ。顧みた先、風に弄ばれる横髪に顔半分を隠されている彼女の表情に揶揄や嘲弄の歪みはない。


「……殺せるもんなら、殺してみろよ。そしたら俺がお前を殺してやる」

「無理よ。彼を殺したら、私は逃げるもの」

「関係ねぇな。どこまで逃げても必ず見つけ出して殺してやる。爪を剥いで、歯を抜いて、指を折って、目ん玉をり抜いて、体の末端から少しずつ斬り落として殺してやる」

「……それは恐ろしいわね、とても」


 ふう、と彼女は溜め息を落とした。音吐よりも微かなそれは、風に攫われてソラの耳には届かない。


「嫌な話をした私が悪かったわ。……安心して。私が屍肉漁りスカベンジャーでもそうでなくとも、彼を殺すつもりはないから。それを証明するために、あなたに同行してるんだもの」


 ——口ではなんとでも言えんだろうが。


 吐き捨てようとして、けれどすんでのところで飲み下した。

 結局のところ、彼女の行動は全てそこに直結するのだ。己が身の潔白の証明。なぜこれほどまでに執着しているのかはわからないけれど、ソラが彼女の安全性を認めるまで迂闊な行動には及ぶことはないはず。

 それならば。


 ——いったい、どの時点で俺達の脅威にはならないと判断すればいいんだ?


 牙を剥かれてからでは遅いし、かといって襤褸ぼろが出るまでそばに置いておくのも面倒だ。今さらながら、昨日の自分がいかにいっときの感情に支配されていたかを思い知らされた。

 苛立ちについこぼした舌打ちは、どうやら彼女には聞こえなかったようだ。射貫くように真直ぐ見つめてくる白茶の双眸から視線を逸らしてきびすを返し、『散歩』の続きを再開する。一呼吸分の間を空けて、やはり足音は後ろをついてきた。


「……ねえ、どこへ向かっているの?」


 しばし訪れた静寂を破って、今度は彼女に問われた。


「着けばわかる」

「今気になっているから訊いているのに……」


 優しくない人、と少し拗ねたような口調で詰られたけれど、ちょうど吹きつけた強風で聞こえなかったことにして強制的に会話を閉じた。

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