3-1
とはいっても、起床するのは朝と呼べるような時間帯ではない。店主である
あらかじめ
カウンター裏に続く短い廊下の途中に無造作に置かれた段ボールのなかから固形の携帯食料を一箱取り上げ、右手側の壁を見遣る。真白い長方形の白紙に線と数字だけを書き連ねたカレンダー上、ひときわ大きく記された月を表す数字は十。一年の始まりから数えて十個目の月だから、という敢えてわかりやすい数字表記にしているだけで、その下に小さく書かれた『
——今年が終わるまで、もう三ヶ月きったのか。
若干の感慨深さを味わいながら、昨日の日付の上にばつ印を書き込む。正直なところ、日時と曜日の感覚がまるで存在しない奈落で、こうしてカレンダーに印をつけることで日付を把握する必要はないのではと
それについても、どうせお前は店の外に一歩も出ようとしないんだから必要ないだろ、と言い返したいところだけれど、いまだに口にしたことはない。無益な口論は避けるが吉だ。
カレンダーを束ねるリング型の金具にくくりつけているマーカーペンを宙に放る。ペンは重力に従って真直ぐに落ち、ふたつを繋ぐ紐がぴんと張り詰めて左右に揺れる。
歩きながら携帯食料の箱を開け、ふたつ並んだ個包装のうちひとつをつまみ出して開け口に沿って袋を破る。特に味を見ずに箱を取り上げたから味を把握していなかったけれど、一度目の咀嚼でチョコレート風味だと気づいた。口内に広がる、菓子類特有の人工物的な甘さ。
基本的に奈落に支給される食料は味に重きが置かれておらず、栄養補給を主としているせいで味はほぼないに等しい。あったとしても過剰な場合がほとんどだ。奈落の人間達はあくまで食事は娯楽ではなく、生命維持活動のひとつとしか
「——あ、おはよう
「はよ」
「今日も暇そうだな。朝から読書なんて有意義なお時間を過ごされていらっしゃるようで」
「
「皮肉に皮肉で返すなよ……んで、なに読んでんだ?」
「世界階層説についての論文」
「…………なんて?」
聞き覚えのない単語を飲み込めず、危うくつられて携帯食料を喉に詰まらせてしまいそうになった。ごくり、とかろうじて嚥下してから会話を繋ぐ。
「聞いたことない? 世界階層説」
「ない。なんだそれ」
「世界はいくつもの国が縦に積み重なって創られている、っていう説だよ。僕達に一番関わりが深いのは、楽園と奈落だね。楽園から人を堕としてるのに、奈落から空を見上げても雲しかない。雲の上で人間が暮らせるはずがないから、こう……奈落の上に楽園が積み重なっているんじゃないかっていう考えかただよ」
霎が両手で拳を作り、縦に積み上げてみせる。
記憶を辿ってみても、確かに奈落から頭上を見上げたところで広がっているのは広大な天空だけだ。幼少期に楽園から奈落に越してきてはいるものの、当時はふたつの国の繋ぎ目がどうなっているかを確認する
「仮にそれが真実だとして、楽園の人間はどうやって奈落に降りてくるんだよ?」
「それぞれの国を繋ぐ螺旋階段みたいなのがあって、それを使って移動するって話らしいよ。あくまでこの本のなかだけの仮説にすぎないけどね」
「へえ」
「まあ、こんな論説なんて定期的に楽園から降りてくる人達に訊けば、簡単に解明されるんだろうけどね。
「訊いて簡単に答えが返ってくるなら、そもそも論説なんか存在しないんじゃねぇの?」
「そうかもしれないけどさ。
「いくらあの人でもそれは……いや、あり得るか……」
毎月顔を合わせている
裏を返せば、情に訴えれば揺らがせるのは案外容易い。旧知の仲であればなおさらだろう。問題は、果たしてその真実は相手の良心を悪用してまで知りたいものか否かだ。
「……つーかそれ、なにが面白いんだ?」
少なくとも
「
「知ったところで得するもんでもないんだろ、どうせ」
「それはその人次第じゃない? みんながみんな、
そこで
「
一拍遅れて
そうね、とひと言置いてから、彼女は
「あまりにも現実的すぎる人は面白みがないと思うわ」
「悪かったな、面白い人間じゃなくてよ。つーか、なんで当然のように居座ってんだよあんたは」
「私を監視するって言ったのはあなたじゃない」
「その提案を出したのはそっちだけどな」
「また『散歩』?」
「ああ」
「寝起きなんだから、もっとゆっくりしてから行けばいいのに」
「ちんたらしてっとすぐ陽が暮れんだろ」
「はいはい。気をつけていってらっしゃい」
ややおざなりな節のある
ドアをくぐる直前、抽象的な単語のみでも成立する双子の会話についていけなかったのであろう
❄︎
「……で、なんであんたは当たり前のようについてくんだよ?」
相も変わらず砂塵の吹き
「私を
間髪容れずに返る、風音のあわいを縫ってなおよく透る清廉な声。
「だからって、俺はついて来いなんてひと言も言ってない。今からでもいいから店戻れよ。
「それでもし、私が本当に
瞬間、どくりと心臓がひときわ大きな鼓動を打ち鳴らした。全身に巡る血管の全てがはち切れんばかりに強く、激しく。
足を止めると、あとに続く彼女の足音も同時に止んだ。顧みた先、風に弄ばれる横髪に顔半分を隠されている彼女の表情に揶揄や嘲弄の歪みはない。
「……殺せるもんなら、殺してみろよ。そしたら俺がお前を殺してやる」
「無理よ。彼を殺したら、私は逃げるもの」
「関係ねぇな。どこまで逃げても必ず見つけ出して殺してやる。爪を剥いで、歯を抜いて、指を折って、目ん玉を
「……それは恐ろしいわね、とても」
ふう、と彼女は溜め息を落とした。音吐よりも微かなそれは、風に攫われて
「嫌な話をした私が悪かったわ。……安心して。私が
——口ではなんとでも言えんだろうが。
吐き捨てようとして、けれど
結局のところ、彼女の行動は全てそこに直結するのだ。己が身の潔白の証明。なぜこれほどまでに執着しているのかはわからないけれど、
それならば。
——いったい、どの時点で俺達の脅威にはならないと判断すればいいんだ?
牙を剥かれてからでは遅いし、かといって
苛立ちについこぼした舌打ちは、どうやら彼女には聞こえなかったようだ。射貫くように真直ぐ見つめてくる白茶の双眸から視線を逸らして
「……ねえ、どこへ向かっているの?」
しばし訪れた静寂を破って、今度は彼女に問われた。
「着けばわかる」
「今気になっているから訊いているのに……」
優しくない人、と少し拗ねたような口調で詰られたけれど、ちょうど吹きつけた強風で聞こえなかったことにして強制的に会話を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます