第三章

幕間Ⅲ

 あれは、肌に纏わりつくような湿気が鬱陶しい夏の夜だった。

 高い場所からなにかを落としたような落下音が激しく鼓膜を震わせて、驚きにそれまで閉ざしていた瞼を勢いよく持ち上げて開眼した。眼前に広がった光景は見慣れた自宅兼換金屋の店内で、けれどなぜか、どの家具も横向きに倒れている。

 置く物がなくてがらんどうな棚の空洞は縦に伸び、四つ足のどれも長さが揃っていない椅子は真横に傾いて座面が床に垂直になっている。とても人が座れる状態ではない。

 目覚めたばかりでぼんやりとしたままの頭でまばたきを繰り返して、ようやく自分が床に寝転がっているのだと気づいた。


 ——なんで、僕、床に寝てるんだろう……?


 奈落は基本的に土足のまま室内に上がり込むため、じかで床に座ることはおろか、寝そべりでもしようものなら母親の叱責が飛んでくる。質の良い日用品が物資に回された試しのない劣悪な環境下でも最大限の清潔感と美を絶やさない母親はあらゆる汚れに口うるさく、父親が泥まみれの姿で帰宅した時はドアをくぐる一歩目を踏み入れたところでものすごい剣幕で追い出されていたものだ。

 間もなく飛ばされるであろう怒声に身構え、体を丸めてぎゅっと固く目をつむる。しかしいくら待てど、恐れていたものがショウに降りかかることはなかった。

 今は店にいないのだろうか、と考えていると、ふと遠くから物音が聴こえてくることに気づいた。なにかをこすり合わせる音に、木床を踏む靴音。そして時折混ざり込む、はなを啜る音。まるで、ひとしきり泣いたあとのような。

 誰かがいる、とまではわかっても、ショウの目にの者の姿は見えていない。視界に収まっている光景はドア付近のもので、物音はカウンターのほうから届いている。体を起こさなければ確認できない位置関係にある。


 ひとまず起き上がろうと身をよじると、上体の下敷きになっていた右腕に違和感があった。力を入れようにも全く込められず、指先一寸も動かせない。自分のものではない誰かの腕がくっつけられているような、あるいは、右腕だけ感覚が切断されているかのような。

 動かせないものはどうしようもない。仕方なく左腕だけで起き上がり、自分の体を見下ろして状態を確認する。多少の衣服の乱れはあるものの、室内灯にさらされた白肌に汚れや傷はない。家族の誰かが敷いてくれたのか、大判のタオルの上に寝転がっていたようだ。


 ——やっぱり、なんで?


 わざわざタオルを敷いてまで床に寝かせる必要があったのだろうか。仮にどこかでショウが居眠りをしてしまったとしても、両親ならば奥の寝室まで運んでくれるはずだから、なんらかの事情があった可能性は高い。ショウの疑問は全て、いまだなにかを続けている人物に尋ねれば判明するはずだ。

 意識を覚醒させるためにふるふると首を振ってから、カウンターのほうへと視線を向け——真っ先に飛び込んできた光景に、ひゅ、とショウは息を呑んだ。


 赤に、塗り潰されている。


 カウンターも、その奥にある戸棚も、壁も床も一面全部、全部。赤い絵の具を撒き散らしたかのように。

 夥しいほどに店内を埋め尽くす赤はけれど、ショウの記憶にある色調とは若干異なっていた。以前ショウが絵を描くために用いた赤色の絵の具はもっと鮮やかで、目に染みるような眩しい色をしていた。眼前に広がる赤は黒を混ぜ込んだみたいにくすんでいる。

 そして、正気を疑うほどの凄絶のなかに身を置く、ひとつの小さな影。己と瓜二つのその後ろ姿を、見紛うことなどあり得ない。


「………………ソラ……?」


 唇から呆然とこぼれ落ちた声は、自分のものではないように聞こえた。

 小さな影、もといソラショウの声が届いていないのか、床にうずくまってなにかをしている。こちらを振り返る様子はない。


「なに、してるの……?」


 言葉を継ぐも、やはり返事はない。

 よく見れば、ソラも周囲に負けず劣らず真っ赤に染め上げられていた。着古されてすっかりよれた服も裾から覗く素肌も赤。


「ねえソラ……どうして、店を掃除してるの……?」


 呼吸のたびに、強烈な臭いが鼻腔を襲う。劣化した画材特有のつんとした臭いではなく、鉄錆を振り撒いたような異臭。

 濁った赤色と、鼻を覆いたくなるほどの臭気。そのふたつから連想されるものはあまりにも現実味がないから、ショウは自分の気のせいだと決め込んだ。

 しばしの間、店内に静寂が降り落ちる。ソラは今なお四つ這いのまま、床をこする動きを止めて硬直している。


「…………汚されたから」


 ぽつり、と。カウンターのふちからしたたり落ちた雫がねたような微かな声が、ショウの耳朶に触れた。


「ちょっとでも汚したら、母さん怒るだろ。だから、綺麗に戻す」

「戻す……? 片づけるじゃなくて……?」

「うん、戻す。前みたいに——父さんと母さんが、そうやってたみたいに」


 意識して抑え込んでいるような、不自然に抑揚の乏しい声調。


 ——ソラ、いつもと違う……?


 確証はない。けれど、直感が告げている。

 明らかに良くないことが起こっている、と。


「ね、ねえ、ソラ。あの……あの、さ、」


 膝を床にこすりつけながら体の向きを変え、ソラを向く。体の動作に巻き込まれたタオルが足元でぐちゃりとわだかまる。

 目覚めたばかりで乾燥している喉を震わせて、確実に相手に届くようにと声を張り上げる。


「父さんと母さんは、どこにいるの?」


 店内にはソラの姿しかない。絶対に店を留守にしない母親がいないのは妙ではあるけれど、きっと一時的に奥の部屋に引っ込んでいるのだろう。父親はそもそも外出している時間のほうが長いから、特段不自然ではない。


「ほ、ほら、ソラひとりじゃ大変でしょ? だから、僕が父さんと母さんを呼んでくるからみんなでやろう?」


 ね? とこちらに背を向けたままの弟に向けて、意味もなく小首を傾げて提案する。

 無音が犀利さいりな刃の形を成して鼓膜を劈く。ショウは耳を覆いたい衝動を腹の底に抑え込みながら、強く奥歯を噛み締めて返事を待った。あまりに会話が成り立たなすぎる。こちらが投げたボールを受け止めてくれてはいるものの、投げ返しはせずにぽとりと足元に落として強制的に終了させられているような、拒絶と無関心がソラを包んでいるような気がした。


「…………家の裏」

「え?」

「ふたり共、家の裏にいる」

「そ、そっか。じゃあ僕、呼んでくるね!」


 立ち上がりながら駆け出す。案の定、足がもつれて転倒し、膝を強か打ちつけた。骨にひびが入ったのではと恟々きょうきょうとしてしまうほどの鈍い音と疼痛を、けれど無視してショウはすぐさま起き上がって再び走り出す。縋りつくようにドアノブを下げて開け放ち、砂塵に髪を掻き乱されながら疾走する。


 ——父さん、母さん。


 ひとつ目の角を曲がって、隣の家との間の細道を走る。一階にテナントが入っているだけの、さほど面積が広いわけでもないどこにでもある住宅なのに、次の角までの距離がやけに遠く感じた。


 ——父さん、母さん。


 目が覚めたら店のなかが大変なことになっていて、それをソラがひとりで必死に綺麗にしていて、でもひとりじゃ大変だし絶対に終わらないから、僕達も手伝おう。みんなでやれば、ずっと早く終わるよ。


 言いたい言葉を脳内で並べていると、いつの間にか次の角が目前まで迫っていた。ここを曲がれば、ふたりがいる。わざわざ家の裏でなにをしているのかは、きっと触れないほうがいい。

 最後の一歩を踏み出して、爪先を軸に方向転換をして角の先を覗き込む体勢になる。既に向こう側は少しばかり見えているけれど、まだふたりの髪先や服の裾は現れない。話し声も、多分風の音に掻き消されて聞こえていないだけだ。


 ——ソラがいるって言ったんだから。ソラが僕に嘘をつくはずがないから。大丈夫……だいじょう、ぶ……だい、じょうぶ。


 まるで、自分自身を洗脳するように。まだ望みはあると信じ込ませるように。そうでもしなければ、到底正気を保ってなどいられなかった。

 ショウは、弟の吐いた下手くそな嘘にわざと騙されてあげるほどに愚かしく、同時に、眼前に塗り広げられた惨状から一瞬で現実を理解してしまうほどに聡明だった。




「父さん、母さん」







 されども声は、返らない。

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