第三章
幕間Ⅲ
あれは、肌に纏わりつくような湿気が鬱陶しい夏の夜だった。
高い場所からなにかを落としたような落下音が激しく鼓膜を震わせて、驚きにそれまで閉ざしていた瞼を勢いよく持ち上げて開眼した。眼前に広がった光景は見慣れた自宅兼換金屋の店内で、けれどなぜか、どの家具も横向きに倒れている。
置く物がなくてがらんどうな棚の空洞は縦に伸び、四つ足のどれも長さが揃っていない椅子は真横に傾いて座面が床に垂直になっている。とても人が座れる状態ではない。
目覚めたばかりでぼんやりとしたままの頭でまばたきを繰り返して、ようやく自分が床に寝転がっているのだと気づいた。
——なんで、僕、床に寝てるんだろう……?
奈落は基本的に土足のまま室内に上がり込むため、
間もなく飛ばされるであろう怒声に身構え、体を丸めてぎゅっと固く目を
今は店にいないのだろうか、と考えていると、ふと遠くから物音が聴こえてくることに気づいた。なにかをこすり合わせる音に、木床を踏む靴音。そして時折混ざり込む、
誰かがいる、とまではわかっても、
ひとまず起き上がろうと身を
動かせないものはどうしようもない。仕方なく左腕だけで起き上がり、自分の体を見下ろして状態を確認する。多少の衣服の乱れはあるものの、室内灯に
——やっぱり、なんで?
わざわざタオルを敷いてまで床に寝かせる必要があったのだろうか。仮にどこかで
意識を覚醒させるためにふるふると首を振ってから、カウンターのほうへと視線を向け——真っ先に飛び込んできた光景に、ひゅ、と
赤に、塗り潰されている。
カウンターも、その奥にある戸棚も、壁も床も一面全部、全部。赤い絵の具を撒き散らしたかのように。
夥しいほどに店内を埋め尽くす赤はけれど、
そして、正気を疑うほどの凄絶のなかに身を置く、ひとつの小さな影。己と瓜二つのその後ろ姿を、見紛うことなどあり得ない。
「………………
唇から呆然とこぼれ落ちた声は、自分のものではないように聞こえた。
小さな影、もとい
「なに、してるの……?」
言葉を継ぐも、やはり返事はない。
よく見れば、
「ねえ
呼吸のたびに、強烈な臭いが鼻腔を襲う。劣化した画材特有のつんとした臭いではなく、鉄錆を振り撒いたような異臭。
濁った赤色と、鼻を覆いたくなるほどの臭気。そのふたつから連想されるものはあまりにも現実味がないから、
しばしの間、店内に静寂が降り落ちる。
「…………汚されたから」
ぽつり、と。カウンターの
「ちょっとでも汚したら、母さん怒るだろ。だから、綺麗に戻す」
「戻す……? 片づけるじゃなくて……?」
「うん、戻す。前みたいに——父さんと母さんが、そうやってたみたいに」
意識して抑え込んでいるような、不自然に抑揚の乏しい声調。
——
確証はない。けれど、直感が告げている。
明らかに良くないことが起こっている、と。
「ね、ねえ、
膝を床にこすりつけながら体の向きを変え、
目覚めたばかりで乾燥している喉を震わせて、確実に相手に届くようにと声を張り上げる。
「父さんと母さんは、どこにいるの?」
店内には
「ほ、ほら、
ね? とこちらに背を向けたままの弟に向けて、意味もなく小首を傾げて提案する。
無音が
「…………家の裏」
「え?」
「ふたり共、家の裏にいる」
「そ、そっか。じゃあ僕、呼んでくるね!」
立ち上がりながら駆け出す。案の定、足が
——父さん、母さん。
ひとつ目の角を曲がって、隣の家との間の細道を走る。一階にテナントが入っているだけの、さほど面積が広いわけでもないどこにでもある住宅なのに、次の角までの距離がやけに遠く感じた。
——父さん、母さん。
目が覚めたら店のなかが大変なことになっていて、それを
言いたい言葉を脳内で並べていると、いつの間にか次の角が目前まで迫っていた。ここを曲がれば、ふたりがいる。わざわざ家の裏でなにをしているのかは、きっと触れないほうがいい。
最後の一歩を踏み出して、爪先を軸に方向転換をして角の先を覗き込む体勢になる。既に向こう側は少しばかり見えているけれど、まだふたりの髪先や服の裾は現れない。話し声も、多分風の音に掻き消されて聞こえていないだけだ。
——
まるで、自分自身を洗脳するように。まだ望みはあると信じ込ませるように。そうでもしなければ、到底正気を保ってなどいられなかった。
「父さん、母さん」
されども声は、返らない。
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