2-1
建てつけの悪いドアに鍵をかけ、店内の照明を落とす。貨幣を収めた金庫にも鍵をかけ、さらに錠つきの戸棚にしまい込む。
奈落に設けられている換金屋を含む店舗は、年中無休で開店することを義務づけられている。理由は
その仕組みを知ってか知らずか、店主の不在を狙って押し入ろうとする輩が少数ではあるが存在する。奈落で唯一の資金源である換金屋はとりわけ標的となりやすいため、厳重に鍵をかける癖が
戸棚の施錠をする前に、物で隠すようにして棚奥で保管していた麻袋を掴み取った。容量の半分以上は満たされていると
鍵をかけてスラックスのポケットにしまい、麻袋を右手に携えてカウンターをあとにする。向かう先は
もとは住宅街だったのだろう、真っ先に視界に飛び込んだ狭い道路と、その向こう側に並ぶ倒壊した家屋の残骸。見慣れた
舞い上がる砂塵に
ぼうと佇むこと三分少々。こつり、こつり、と石畳の歩道を叩く軽やかな
「——やあ、
首を巡らせた先、ひとりの女性が両腕で体を掻き抱くようにしてこちらへ歩いてくる姿があった。
爪先を彼女のほうへと向け、
「ジャケットを着ているなら充分では?」
「いいや、それでも寒い。
「秋の始まりの月だとはいえもう月末なんですから、寒いのは当然でしょう」
「正論を言ってくれるなよ。むしろ、よくお前はそんな薄着で生きていけるなぁ」
「気候の変化なんて慣れですよ」
黒のパンツスーツに黒のネクタイ、踵の低い黒のパンプスという見事な全身黒ずくめの正装ですらりと細い体を包み、束ねずにひとまとめにして左肩に流れる艶のある黒髪。月に一度だけ来訪する彼女はいつも同じ身なりをしている。
微笑みに緩やかな弧を描く、
「こんにちは、
「随分と酷いことを言ってくれるじゃないか。それじゃあ女の子にモテないよ?」
「ご心配なく。生涯独り身を貫くことは確定事項なので」
「はは、お得意の奈落
洗練された麗人と呼ぶにふさわしい彼女は、しばしば男性らしい口調で語る。それが職業柄ゆえか否か、直接問い
よほど寒いのか、二の腕をさすって摩擦熱で暖をとろうとする
「どうぞ。今月分の
「ありがたく頂戴するよ。では、私からはこれを」
彼女は受け取った麻袋をジャケットのポケットに入れ、流れるような動作で内ポケットから四つ折りの紙を取り出した。陽に焼けた古本の
紙の束を受け取った
「……いつもより多くないですか?」
「今月はな。まあ、色々とあったんだよ。理由は訊いてくれるな」
「ご心配なく。余計な詮索はしませんから」
興味もないですしね、と明け透けな悪意を混ぜて言い足すと、彼女の笑みが僅かに曇ったのが見てとれた。付き合いが長いからこそ交わせる軽口は、相手が彼女ではない楽園の住人ならば、即座に射殺されていてもおかしくない。
かさりと乾いた音を立てて開いた古紙は、細やかな文字の羅列に一面埋め尽くされていた。紙面の左上に貼付されている色褪せた顔写真は、果たしていつ撮影されたものだろうか。裏を見れば、また別の顔写真と文字列が並んでいる。
たった一
ぱらぱらとめくって流し見をしつつ、ふと脳内に浮かんだ疑問を口にする。
「ずっと前から気になっていたんですけど」
「ん?」
「
「ああ、そうだな」
「なのに、どうして人名だけ明らかに別の言語が使われているんですか?」
問いを投げると同時に手元から顔を上げると、彼女は意表を突かれたように目をしばたたいていた。
「それは確かあれだ、もともと使われていた言語は人名のほうだが、時代が進んで外国との交流が増えていくにつれて外来語が至るところで使われるようになったからだ」
「ああ、ちゃんと理由があったんですね。奈落ではそのまま換金屋と呼んでいるのに、上ではコムタティオと呼んでいるのも似たような理由ですか?」
「それは知らないな。店主が代替わりするうちに変わっていったんじゃないか?」
「若干こじつけじみた感じはしますけど。まあ、所詮はそんなものですよね」
ひとつ頷いて納得を示し、再び視線を手元に落とす。紙面で最も大きく目立つように記載された名前は、全員が一文字で記されている。その上に小さく添えられた読みは音にすれば特段違和感はないのに、このように文字で表されると途端に異質を纏うから不思議だ。
——今度、
初等学校に入学する前に楽園を離れた
それでも、店主として換金屋を離れられない
「……なあ
紙束を折り畳みながら今度はどんな本にしようかと思案を巡らせていると、しばらく口を閉ざしていた
「え、ただの雑談ですよ。気に障ったなら謝罪しますが」
「い、いや、そんなことはないさ。ただ調子が狂うなと思っただけで……」
そう告げる彼女と目を合わせようとして、けれど忌避するように逸らされた視線が交差せずに宙を漂う。
威圧すらも感じられる振る舞いから一転、居心地の悪さに耐えかねているかのように佇まいが洗練から遠ざかっている。
「……なあ、
沈黙の代わりに、ふたりの間を吹き抜ける風が砂埃を巻き上げてさざめく。
「お前は——お前達は、本当に私を恨んでいないのか?」
縋りつくような、あるいは赦しを乞うような、微かに震えた声が問う。
——ああ、
目の前のにいる、十は歳が離れている大人の女性は睫毛を伏せて、
——この人は、本当に。
先ほどの彼女の発言がなにを意味しているのか、語られずとも
交わす必要のない会話を、気を許すべきではない相手との雑談を、奈落に堕とされた
奈落に住まう者にとって楽園に暮らす者とは、怨恨と憎悪を
実のところ、彼女がこうして尋ねてくるのは今回が初めてではない。先月も、先々月も、そのまた前も、幾度となく問い
そのたびに
「……もう気にしなくていいのに、そんなもの。罪人を奈落に堕とすことこそが、最高審判官である
でも、と。声にならない吐息のような彼女の反駁を上書きするように、
「恨んでいません。……だって、恨んだところでなにも変わりませんから」
負の感情が具現化される世界だったならば、世界の全てを呪い続けていただろう。たとえ相手が両親の知人で、幼時から親しくしてくれた人であったとしても、よくもこんな目に遭わせてくれたなと罵詈雑言を吐き捨てられた。
けれど、現実はなにも変わらない。負の感情は心底に沈澱し、口にした恨み言で救われもしない。
——また、今日も伝わらなかった。
突如左手に鋭い痛みが走り、見下ろして確認すると無意識に強く拳を握り締めていたようだった。開いた手のひらにはくっきりと爪が食い込んだ跡が残っている。
痛みを紛らわせるように手を軽く振って、いまだ無言を貫く
「……今日はもうお帰りください。また来月、よろしくお願いします」
敢えて事務的な口調で突き放すと、彼女の瞼がのろのろと持ち上がって
数秒ののち、挨拶代わりの一礼をして去っていく彼女の姿が建物の陰に隠れるまで見守ってから、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます