第二章
幕間Ⅰ
いつからここで暮らすことになったのか、正直あまりよく覚えていない。
なにも知らないうちに引越しが決まって、なにも準備することなく家族四人揃って家を出て、一時間とかからずに到着した新しい家は、前の家と比べ物にならないほどぼろぼろだった。
どうしてこんなぼろっちい家に引っ越すことになったのか全然わからなくて、しつこく尋ねても両親はちっとも教えてくれなかった。
そして引っ越しを終えたその日から、当たり前に存在していた日常が一変した。
学校に行く必要がなくなって、仲良くしていた友達とは会えなくなって、遊んでくれる人は家族以外に誰もいなくなった。
新しい家の周りには公園もなくて、それどころか、『ひとりで外に出ちゃだめ』と両親に厳しく言いつけられたせいで、自由に遊び回ることも許されなくなってしまった。
引っ越してすぐの頃は、もちろん文句を言った。
なんで、どうして、嫌だ、知らない。
もとの家に、帰りたい。
声が枯れるまで騒ぎ散らして、声が出せなくなったら無言で泣き続けて、声が復活したら全身も使って暴れ回って。
けれど、こんなことをしてもなにも変わらないんだと気づいてからは、空虚な日々を享受するようになった。
それが確か、7歳の誕生日を迎える少し前だった気がする。
それから月日が過ぎて、二年ほど経った頃。
母親が以前とは違う仕事をしている、と漠然とした興味を
「ねえ、母さん」
「なあに?
こちらに背を向けていた母が振り向く。夜空で染めたような綺麗な黒髪が緩やかに弧を
「母さんが持ってるそれ、なに?」
短い人差し指で示したのは、母の手のなかに収まった一枚の金属片。汚れか傷か、輝きを失った薄っぺらいそれは幼い子供の目にはただのごみにしか映らなかった。
母は一度視線を手元に落として金属片を見つめ、またすぐにこちらを向く。笑みを浮かべていた瞳は一変して、どこか悲しそうな色をしていると思った。
「……これはね、お墓の代わりよ」
「お墓?」
「ええ、お墓よ」
くすりと控えめな母の笑声が頭上に降る。
「ここで暮らしている人達はね、みんなお墓を準備してもらえないの。お墓がなければそこに誰が眠っているのかわからないし、眠っていることも覚えてもらえないでしょう?」
そう言って、母は空いた左の親指で金属片の表面を撫でた。まるで、眠れない夜に優しく頭を撫でてくれる手のひらと同じように。
「だから、私が代わりに覚えておくの。この人はちゃんと生きていたんだよ、って。立派に生きて眠りについたんだよ、って」
まだ年端もいかない
そもそも
だから、永遠の眠りについた人の姿を見たことがない。
死に傾いた命が、どこに向かうのかわからない。
——死は、こわいもの。
死んでしまったら、たくさんの花と一緒に棺に入れられて、土のなかに埋められる。
——死は、悲しいもの。
もう話しかけてくれない。笑いかけてくれない。呼びかけても届かない。
そんな漠然とした認識しかできない
「ふふ。
「……ううん、わかるよ。ちょっとだけだけど。ぼくもお墓があるから、おじいちゃんとおばあちゃんのことを忘れないでいられるんだもん」
一年のうちに数回だけ、祖父母の墓前に花を供えに行っていた記憶を脳裏に蘇らせつつ、
顔も声も覚えていない親類でも、名前が刻まれた墓石を見るたびにその存在を思い出せる。人の形を成していない、きんと冷えた石だけでも、記憶を呼び覚ます引き金となる。
裏を返せば、墓石がなければ明確な形を持たない記憶は輪郭を失ったまま、過ぎゆく時の流れに呑まれてなにも思い出せなくなってしまうということ。
「……ぼくも、覚えていてあげたいな。みんなから忘れられちゃうのはすごく悲しいから、ちょっとでも悲しくなくなるように」
ぱち、と驚いたように大きく一度まばたいて、母はいっそう優婉に笑みを咲かせた。
「あら、本当? 母さんにとっての大切を
「えへへ……」
そっと伸ばされた母の手のひらに頭を撫でられて、
昔から変わらない、あたたかな温もりと優しさだけを乗せて触れてくれる母の手が大好きだった。
——ぼくも母さんのような、優しい人になりたい。
今はまだ母の仕事の全てを理解できていなくとも。手のひらの上で鈍色に輝く金属片がなにを意味するのかを知らずとも。あり余るほど膨大な時間を費やして、少しずつでも母の、両親の力になっていきたい。
そしてゆくゆくは母の仕事を継いで、慈愛に満ちた母のように、たくさんの人々に愛を注げるようになれたなら。
そう、思っていた。
あの日を迎えてしまうまでは。
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