1-6
「
ぎぃ、と年季の入った
——そんなにビビるほどの場所でもねぇのにな。
胸中では嘲笑を浮かべるものの、口には出さない。無闇やたらと不安を煽る必要もなければ、努めて穏やかな声調で彼の心を
奈落では金銭の価値と等号で結ばれているそれを、意味もなく彼が持ち出すことはあり得ない。その必要性が生じるとするならば、
縦に細長い布が二枚並んだ
「ああ、おかえり
「ちょっと面倒な奴に絡まれてな。おいおっさん、こいつが
右手の親指を立てて
「……あ、え? き、きみが、ふたり?」
「
「まあ、一卵性の双子なので見た目はそっくりだとは思いますけど」
「どうでもいいだろそんな話は」
呑気な発言をした
「ようこそ、
どうぞこちらへ、とカウンターのほうへと移動しながら、
ここから先に
ややして、ゆっくりと床を踏み締めて男が前進する。仮に
「もうご存知かと思いますが、ここは奈落と呼ばれています。あなたがもともと暮らしていた場所——ここが奈落と呼ばれているなら、天国または楽園、とでも呼ぶべきでしょうかね」
書物を音読するかのようになめらかに語り出した
「『最高審判官の判決は絶対である。楽園を追放された罪人は完全なる悪、すなわち人ならざる者であり、ゆえに我々が与える慈悲は存在しない』」
一度咳払いを挟んでから、滔々と
「奈落に墜とされる人間はみな、楽園で制定されている法律に触れた罪人達です。僕も彼も、そしてあなたも。人ならざる者と
「……罪人を裁く行為そのものが、法律に反するから……?」
「ええ、そのとおり」
さすがです、と
一連のやりとりだけを抜粋すれば、学校で授業中に解答した生徒と彼を褒める教師の会話とも捉えられるけれど、ふたりの間には微笑ましさの欠片もない。特に男のほうは、説明が進んでいくにつれてもともと蒼白だった顔色がさらに
それに気づいているのかいないのか、男の様子は気にも留めずに
「楽園では、一般に犯罪と分類される行為のほかに、他者に危害を加える行為の全てが禁じられています。肉体的暴行はもちろん、目には見えない精神的・心理的な危害までもが刑罰の対象となります。だから、楽園では罪人を刑罰に処すことができない。法律によって他者へ危害を加える行為の全てが禁じられているがために、刑罰の実行者さえも裁かれる始末となってしまうからです。したがって、元来の刑罰を全て廃止し、唯一無二のそれを新たに導入することとなった。それが——」
とん、と。
「『楽園追放』——またの名を、奈落
はくはくと男の口が開閉し、けれど言葉ひとつ出てこない。餌を待つ魚のように無意味に同じ動作を繰り返している姿は、彼の事情を知らない第三者から見れば酷く滑稽に映るはずだ。
——可哀想にな。
現実はいつだって残酷だ。本人の意に反した事実でも決してねじ曲げることはできない。受け入れることこそが是なのだと、否が応にも眼前に立ちはだかって目を逸らすことを許してはくれない。
「……ま、待ってくれ……わた、私が、ざ、罪人?」
「ええ。そのように、楽園の最高審判官が判決を下しました」
弱々しく震える声を絞り出して問うた男に、返されたのは血が通っていないかのような冷徹で平坦な
同情も憐憫もなく、ただ淡々と突きつけられた現実に、男は髪を掻きむしって我慢ならないと
「なぜ、なぜだっ!? 断じて私は罪など犯していない! 無実だ! 無罪だっ!」
「僕に身の潔白を訴えられましても、あなたの無罪を証明することはできませんよ」
あまりに温度差のある応酬に、
悲しいかな、いくら彼が牙を剥いて反抗したところで、ひとつとして
「僕達は、ただ与えられた役目を果たすだけの存在です。現実に耐えかねた人に救いの手を差し伸べるのは、
そこに爪を一枚ずつ剥がすような
「今はまだ現実を受け入れられないかもしれませんが、時間が解決してくれますのでご安心ください。……それまで生き延びることができたら、の話ですが」
とうとう耐えられなくなった男が、その場に膝をついて身を屈めた。狭まった気道を繰り返し空気が通り抜ける、ひゅうひゅうという喘鳴が微かに洩れ聴こえる。
まだ希望を捨てていない心を切り裂いて、叩き壊して、擦り潰して、二度ともとに戻らないように千切り捨てる。
ただそばで聞いているだけの
生まれ落ちた瞬間から人生を共にしてきた彼の性格を熟知しているからこそ、時折、心の底から彼が恐ろしいと思う時がある。
たとえそれが、自分に向けられた言葉ではないとしても。
——俺が死体を埋める理由を、
いかな一卵性双生児とはいえ、所詮は別の人間。彼にも彼の思考があって、束縛する権利も
突として、男の体から放たれる絶望感が漂う空気を払うように、ぱん、と
「さて、話の続きをしましょう。奈落では、金銭の取得方法が特殊で——」
「あ、
「そうなの? じゃあ、まずは
「……お前、いつまで経ってもそこは投げやりなのな」
「仕方ないでしょ、ショックで聞こえてないんだから。他にどうしろって言うの?」
「はいはい、わかったわかった」
不満そうに目を眇める
「以上で、奈落についての説明は終了です。
「はいよ。……おら、さっさと行くぞ、おっさん」
「あ……うぁ、あぁ…………」
降り落ちる雷鳴に怯える幼子のように両手で頭を抱えて呻く男を見下ろし、長い溜め息をひとつ。
息を吐ききってから、だらりと力なく垂れ下がった男の後ろ襟首を右手で掴み、そのままドアに向かって歩き出す。衣服に首を絞められた男の引き攣れた悲鳴が聞こえたような気がしたが、
またひとり、新たな『人ならざる者』の烙印を押された人間を連れて、
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