1-6

ショウ、今帰ったぞ」


 ぎぃ、と年季の入った蝶番ちょうつがいが軋む音に続いて、ソラは店内にいるはずの片割れへと帰宅をしらせた。返事が返る前に勝手知ったる様子で足を踏み入れていくソラの後ろを、恐る恐るといった速さで男がついてくる。


 ——そんなにビビるほどの場所でもねぇのにな。


 胸中では嘲笑を浮かべるものの、口には出さない。無闇やたらと不安を煽る必要もなければ、努めて穏やかな声調で彼の心をなだめてやる必要もない。むしろ、今後この奈落で生きていくうえで危機感は切っても切り離せない存在となるのだから、危機察知能力は正しく機能させておいたほうがいい。


 ソラの呼声とドアの開閉音で帰宅に気づいたらしいショウが、店の奥から姿を見せた。その右手には、普段はカウンター奥の鍵つきの戸棚に保管している認識票タグを入れる麻袋が握られている。

 奈落では金銭の価値と等号で結ばれているそれを、意味もなく彼が持ち出すことはあり得ない。その必要性が生じるとするならば、の人間がこの場所を訪れた時のみだ。


 縦に細長い布が二枚並んだ暖簾のれんの間を掻き分けて店内に目を向けたショウは、ソラと視線が絡むなり柔らかな微笑を浮かべた。


「ああ、おかえりソラ。随分と早かったね?」

「ちょっと面倒な奴に絡まれてな。おいおっさん、こいつが換金屋コムタティオの店主だ。奈落について詳しい話が聞きたいなら自分で話しな」


 右手の親指を立ててショウを指し示しながら、背後を振り返る。男はなぜか、ぽかんと口を半開きにしてソラショウとの間で忙しなく往復させていた。


「……あ、え? き、きみが、ふたり?」

ちげぇよよく見ろ、どっからどう見たって別人だろうが」

「まあ、一卵性の双子なので見た目はそっくりだとは思いますけど」

「どうでもいいだろそんな話は」


 呑気な発言をしたショウソラの叱責などまるで聞こえなかったかのように綺麗に無視をして、にっこりを笑みを深めた。


「ようこそ、換金屋コムタティオへ。奈落については、僕が説明させていただきますね」


 どうぞこちらへ、とカウンターのほうへと移動しながら、ショウが手のひらを差し出して男に近寄るよう勧める。

 ここから先にソラの出る幕はない。男に道を譲るように左方向へ後退すると、ソラの背を隠れ蓑に使っていたらしい男が突然拓けた視界に驚いたような短い悲鳴を上げた。強張った肩は怯えの表れのようだ。

 ややして、ゆっくりと床を踏み締めて男が前進する。仮にソラが現在のショウと同じ状況に置かれていたならば、誘導したにもかかわらず即座に動かなかった時点で声を荒げていただろうな、とそのさまを眺めて思う。


「もうご存知かと思いますが、ここは奈落と呼ばれています。あなたがもともと暮らしていた場所——ここが奈落と呼ばれているなら、天国または楽園、とでも呼ぶべきでしょうかね」


 書物を音読するかのようになめらかに語り出したショウが、右手の人差し指を立てて天井を指し示す。正確には、奈落の上に存在しているとされる、大空に隔たれた別の世界を。


「『最高審判官の判決は絶対である。楽園を追放された罪人は完全なる悪、すなわち人ならざる者であり、ゆえに我々が与える慈悲は存在しない』」


 一度咳払いを挟んでから、滔々とそらんじる。なにかの文献の一節のような堅苦しい文章に、男は聞き覚えがあったらしい。びくりと大袈裟に肩を跳ね上げた。


「奈落に墜とされる人間はみな、楽園で制定されている法律に触れた罪人達です。僕も彼も、そしてあなたも。人ならざる者と見做みなされた僕達は楽園における生存権を剥奪されて奈落に墜とされますが、刑の執行はされません。なぜだかおわかりですか?」

「……罪人を裁く行為そのものが、法律に反するから……?」

「ええ、そのとおり」


 さすがです、とショウが笑みを深める。

 一連のやりとりだけを抜粋すれば、学校で授業中に解答した生徒と彼を褒める教師の会話とも捉えられるけれど、ふたりの間には微笑ましさの欠片もない。特に男のほうは、説明が進んでいくにつれてもともと蒼白だった顔色がさらにあおめていく次第だ。

 それに気づいているのかいないのか、男の様子は気にも留めずにショウが言葉の端を繋ぐ。


「楽園では、一般に犯罪と分類される行為のほかに、他者に危害を加える行為の全てが禁じられています。肉体的暴行はもちろん、目には見えない精神的・心理的な危害までもが刑罰の対象となります。だから、楽園では罪人を刑罰に処すことができない。法律によって他者へ危害を加える行為の全てが禁じられているがために、刑罰の実行者さえも裁かれる始末となってしまうからです。したがって、元来の刑罰を全て廃止し、唯一無二のそれを新たに導入することとなった。それが——」


 とん、と。ソラが天井に向けていた人差し指をカウンター上へ真直ぐ振り下ろした音が、静寂に包まれた店内にやけに大きく響き渡った。


「『楽園追放』——またの名を、奈落とし。それこそが、今まさにあなたが置かれている状況の始まりです」


 ソラにとってはただ指先で机上を叩いただけの軽い音でしかない。しかし、真実を告げられた男にとっては、罪人を断罪せよと落とされた断頭台ギロチンの刃が、己の首をね飛ばす無慈悲の音に聴こえたことだろう。


 はくはくと男の口が開閉し、けれど言葉ひとつ出てこない。餌を待つ魚のように無意味に同じ動作を繰り返している姿は、彼の事情を知らない第三者から見れば酷く滑稽に映るはずだ。


 ——可哀想にな。


 現実はいつだって残酷だ。本人の意に反した事実でも決してねじ曲げることはできない。受け入れることこそが是なのだと、否が応にも眼前に立ちはだかって目を逸らすことを許してはくれない。


「……ま、待ってくれ……わた、私が、ざ、罪人?」

「ええ。そのように、楽園の最高審判官が判決を下しました」


 弱々しく震える声を絞り出して問うた男に、返されたのは血が通っていないかのような冷徹で平坦なショウの声。

 同情も憐憫もなく、ただ淡々と突きつけられた現実に、男は髪を掻きむしって我慢ならないとえ立てる。


「なぜ、なぜだっ!? 断じて私は罪など犯していない! 無実だ! 無罪だっ!」

「僕に身の潔白を訴えられましても、あなたの無罪を証明することはできませんよ」


 あまりに温度差のある応酬に、ソラは瞼を僅かに伏せて男に同情を寄せた。

 悲しいかな、いくら彼が牙を剥いて反抗したところで、ひとつとしてショウに響くことはない。


「僕達は、ただ与えられた役目を果たすだけの存在です。現実に耐えかねた人に救いの手を差し伸べるのは、換金屋コムタティオの業務には含まれていません」


 そこに爪を一枚ずつ剥がすようないたりはない。

 ショウの紡ぐ言葉が鋭利な刃物と化して、ひと息で心臓を刺し貫かんとする無慈悲だけが込められている。


「今はまだ現実を受け入れられないかもしれませんが、時間が解決してくれますのでご安心ください。……それまで生き延びることができたら、の話ですが」


 とうとう耐えられなくなった男が、その場に膝をついて身を屈めた。狭まった気道を繰り返し空気が通り抜ける、ひゅうひゅうという喘鳴が微かに洩れ聴こえる。


 まだ希望を捨てていない心を切り裂いて、叩き壊して、擦り潰して、二度ともとに戻らないように千切り捨てる。

 ただそばで聞いているだけのソラには、実の兄がなにを思ってこのような言いかたをしているのかはわからない。普段は温厚で、怒ることもなければ声を荒げることもない穏やかな彼が、なぜこんなにも心ない言葉を放つのかも。

 生まれ落ちた瞬間から人生を共にしてきた彼の性格を熟知しているからこそ、時折、心の底から彼が恐ろしいと思う時がある。

 たとえそれが、自分に向けられた言葉ではないとしても。


 ——俺が死体を埋める理由を、ショウに教えていないように。


 いかな一卵性双生児とはいえ、所詮は別の人間。彼にも彼の思考があって、束縛する権利もつまびらかにさせる権利もソラにはない。


 突として、男の体から放たれる絶望感が漂う空気を払うように、ぱん、とショウが大きく手を打った。


「さて、話の続きをしましょう。奈落では、金銭の取得方法が特殊で——」

「あ、ショウストップ。その話は帰り道で俺がざっくり説明しといたから、あとは習うより慣れろでどうにかなる」

「そうなの? じゃあ、まずは武器屋アルマリウムで武器を入手してください。本来は金銭の支払いが必要ですが初回は無料となっているので、使いやすそうな物を選ぶといいですよ。それから、食品は食糧屋アリメントゥム、日用品などは雑貨屋エンプティオで……と言いたいところですが、今はいくら説明しても覚えられないと思うので、冷静になってから武器屋アルマリウムの店主にでも尋ねてください」

「……お前、いつまで経ってもそこは投げやりなのな」

「仕方ないでしょ、ショックで聞こえてないんだから。他にどうしろって言うの?」

「はいはい、わかったわかった」


 不満そうに目を眇めるショウ他所よそに、ソラはいまだうずくまったままの男のもとへと歩み寄る。男が顔を上げる気配はない。


「以上で、奈落についての説明は終了です。武器屋アルマリウムまではそこにいるソラが同行します。——それじゃあソラ、あとはよろしくね」

「はいよ。……おら、さっさと行くぞ、おっさん」

「あ……うぁ、あぁ…………」


 降り落ちる雷鳴に怯える幼子のように両手で頭を抱えて呻く男を見下ろし、長い溜め息をひとつ。

 ショウに容赦なく現実を告げられて動けなくなった前例は無数にある。そのたびに武器屋アルマリウムまで同行する役目を持つソラが相手の体の一部を掴んで引っ張り出さなければならなくなるから、そろそろ控えてほしいのだけれど。


 息を吐ききってから、だらりと力なく垂れ下がった男の後ろ襟首を右手で掴み、そのままドアに向かって歩き出す。衣服に首を絞められた男の引き攣れた悲鳴が聞こえたような気がしたが、ソラは足を止めずにドアノブを押し下げて外に出た。相も変わらず、空は分厚い雲に覆われた曇天のまま。


 またひとり、新たな『人ならざる者』の烙印を押された人間を連れて、ソラは荒寥の地を歩き出した。

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