1-5
地面に放ったままのショベルを緩慢な速度で身を屈めて持ち上げ、公園へ足を踏み入れた時と同様に右肩に
年齢は三〇代前半といったあたりだろうか。短く切り揃えられた眉の端を
「ひ……っ!」
足が折れた蜘蛛のようにもがく男の胸中など知る
「あっ、や、やめろ! こっちに来るな!」
「頼むから殺さないでくれぇ……!」
「は? なんで俺があんたを殺す必要があんだよ」
いまだにその場で這いずる男を冷ややかに見下して吐き捨てる。ショベルを脳天に振り下ろされるとでも思っているのか、両手で頭部を抱え込むようにして
手を伸ばせば触れられる距離まで到達したところで、ふと
改めてよく見てみれば、砂礫にこすりつけすぎてもとの色合いを失いかけている衣服も革靴も新品同然だった。定期的に必要最低限の物資が補充されるとはいえ、仕立てられたばかりの洋服が送られたことは
だからこそ、眼前の男が見舞われている現状がどういったものか、尋ねずとも推察できる。
「あんた、
唐突に告げたひと言に、びくりと男が肩を跳ねさせた。おそるおそる頭を包む両腕を
「なんでって、あんたを見りゃわかんだろ。そんなお綺麗な恰好してる人間はここにはいねぇからな」
無知を嘲るでもなく、ただ淡々と無音の問いに答える。これまでの反応を見るに、男が奈落で目覚めて真っ先に遭遇したのが
墜ちてきたばかりの、奈落で生きていく
が、一拍遅かった。
とうとう極限状態に追い込まれたか、はたまた
「た、頼む! 私を『コムタティオ』に連れて行ってくれないか!?」
「はぁ?」
反射的に語調が荒くなり、けれど男は先ほどまでの意気地なさはどこへやら、食い下がって再び腕を伸ばして足首を掴もうとしてきた。
「なんで俺があんたの世話なんかしてやらねぇといけねぇんだよ、他当たれ」
「そこをなんとか! このよくわからない場所で目覚めてから、まだきみにしか逢っていないんだ!」
「だからなんだよ、ひとりで歩いて探せ。あんたがどうなろうと俺の知ったことじゃねぇ」
「お願いします! なんでもしますから! どうか、どうか……!」
とうとう額を地面につけるほどの低頭をされて、
頭を下げたまま微動だにしなくなった男を見下ろして、苛立ち紛れに
淡く昇る鉄錆の匂いに眉根を寄せ、右の手の甲で首元を乱雑にぬぐう。出血は微量だから、そのまま放置していれば勝手に止まるし新しい瘡蓋もできる。薄らと
男が口にした名称が『コムタティオ』でなければ、必死の懇願も
「……死にたくない……私はまだ、死にたくないんだ……」
風に巻き上がる砂粒のさざめきにすら掻き消されそうなほどか細い声が、
今すぐに
はぁ、と肺に溜まった空気を全て吐ききるほど長いため息をつく。面倒なことこのうえないけれど、最善策はこれしかない。
「あんた、銃打ったことは?」
「は、え、銃? あるわけないだろうそんな兇器など……!」
「だろうな。なら、俺が守りきれなくても文句言うなよ」
額と鼻の頭に砂を付着させた男が、ぽかんと
「あと、歩くのが速いだとか置いていくなとか、そういう苦情はいっさい受けつけない。それでもいいなら、さっさと立ち上がってついてこい」
言いきるなり
当然と言えば当然か、硬直から立ち直った男が慌てて身を起こして歩き出す騒がしい足音が数秒遅れて背後から聴こえてきた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 置いていかないでくれ!」
「苦情は受けつけないって言ったばっかだろ、話聞いてたか?」
振り返りはせずに、声を僅かに張り上げて応じる。ややして隣に追いついた男の、ぜえはあと荒れている呼吸音に眉をひそめた。そこまで老いてもいないだろうに、たった数十メートルを走っただけでここまで息が上がるものだろうか。
帰路は公園を訪れるまでに通った道とは異なり、最短距離を
とはいえ、一般に歩道と呼ばれるような鋪装された道など、この奈落にはほとんど残っていない。立ち並ぶ廃屋の間をジグザグと曲がり、立ち塞がる瓦礫の小山を登って越え、ひたすらに歩き続ける。男はといえば、どうやらついてくるのがやっとというふうで、時折激しく咳き込みながらも必死に
「な、なあきみ、ひとつ訊いても、いいかい?」
忙しない呼吸の合間に、突として男が口を開いた。
終始怯えきった様子から向こうからは絶対に話しかけられることはないだろうと踏んでいた
「なんだよ」
「きみはさっき、死体を埋めていただろう? あの人はなぜ、あんな場所で死んでいたんだい?」
「ああ……」
どこから説明するべきかと、
先刻の
それでも、理解ができないからと、気味が悪いからといって頭ごなしに否定されるのは嫌だ。
どうしたものかと思考を巡らせること数秒。
「このあたりに、なんか薄っぺらい金属が埋め込まれてんだろ。それが
「そ、それは、どういう……」
「その
「えぇ!? そこを登るのかい!?」
「ここが最短ルートだからな。あんたもさっさと来いよ、おっさん」
「おっさんじゃない! 私はまだ二八歳だ!」
あ、意外と若いのか、と思いこそしたものの、なけなしの良心が働いて口にはしなかった。
もとは路地を区切るために設置されていたのであろう、網目状のフェンスを難なく登りつめて向こう側に着地した
地面に這い
颯爽と歩くさなか、要するに、と会話の端を繋ぐ。直進して、左に曲がり、またしばらく直進する。
「奈落では、金と命の価値が同等。金が欲しけりゃ他人を殺して
「ということは、つまり、さっきの死体は……」
「お察しのとおり、誰かに殺されて
ひっ、と男の口から引き攣れた悲鳴がこぼれ落ちたとほぼ同時に、
息を切らしながら隣に並んだ男を、今度はしっかりと体を向けて見据える。
「まあ、詳しい話は店んなかで聞きな。そもそも、墜ちてきたばっかの奴に説明すんのは俺の仕事じゃねぇんだよ」
男の視線が
永遠に続くかと思われた平和な楽園から、抗う
人はそれを、絶望と呼ぶ。
「——ようこそ、
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