1-5

 地面に放ったままのショベルを緩慢な速度で身を屈めて持ち上げ、公園へ足を踏み入れた時と同様に右肩にを乗せて担ぐ。それからようやく、声がした方角へと顔を向けた。逃げ出すには充分な時間は既に経過していたけれど、声の主がその場から動いていないことは風音に紛れて耳に届く、忙しない衣擦れと乱れた呼吸から瞭然だった。


 出処でどころを探す視線は、思いのほか地表に近い位置で定まった。かっちりと着込んだ黒のスーツに、整髪料でセットされた洒落っ気の滲む男性にしては長めの髪。雲切れから薄らと降り注ぐ陽光をね返す丹念に磨き抜かれた革靴は、今は砂埃にまみれて大半が薄茶色に染め上げられている。

 年齢は三〇代前半といったあたりだろうか。短く切り揃えられた眉の端をまなじりに触れ合いそうなくらいに垂れ下げている形相には、人ならざる化物を目撃してしまったような、あるいは触れてはならない現実を目の当たりにしてしまったような恐慌と畏怖がありありと浮かんでいる。


「ひ……っ!」


 ソラと視線が絡んだと同時に、男が引き攣れたような悲鳴を上げた。腰が抜けたのだろう、足を交互に曲げ伸ばして必死に後退あとずさろうとしているようだけれど、そもそも力が入っていないせいで靴裏が砂利と擦れ合う無意味な音が鳴るばかりだ。

 足が折れた蜘蛛のようにもがく男の胸中など知るよしもなく、ソラは彼のほうへと一歩ずつ近づいていく。普段の歩速よりもだいぶ遅くしていることにさして意味はないけれど、強いて言うならば、逃げおおせるだけの力もない者に急ぎ足で接近する必要はないから、だろう。


「あっ、や、やめろ! こっちに来るな!」


 ソラの歩幅にして約三歩ぶんまで距離が縮まったところで、男が悲鳴に近い抵抗の声を上げた。相当気が動転しているのか音調は不自然に上擦っていて、ただ近寄っているだけなのにえも言われぬ罪悪感が一抹ばかり胸中に生まれる。


「頼むから殺さないでくれぇ……!」

「は? なんで俺があんたを殺す必要があんだよ」


 いまだにその場で這いずる男を冷ややかに見下して吐き捨てる。ショベルを脳天に振り下ろされるとでも思っているのか、両手で頭部を抱え込むようにしてうずくまる姿は酷く滑稽だ。


 手を伸ばせば触れられる距離まで到達したところで、ふとソラの鼻腔に聞き慣れない植物の香りが触れた。ひと息に吸い込むと鼻の奥まですっと通り抜けるような清涼感のあるそれが、なにから抽出されたものかはわからないけれど。少なくともここで入手できるような代物ではないことだけは確かだ。

 改めてよく見てみれば、砂礫にこすりつけすぎてもとの色合いを失いかけている衣服も革靴も新品同然だった。定期的に必要最低限の物資が補充されるとはいえ、仕立てられたばかりの洋服が送られたことはソラが知る限り一度もない。着古されてれたものか、皮脂や汚れで変色しているものばかりだ。


 だからこそ、眼前の男が見舞われている現状がどういったものか、尋ねずとも推察できる。


「あんた、ばっかだろ」


 唐突に告げたひと言に、びくりと男が肩を跳ねさせた。おそるおそる頭を包む両腕を退けて顔を上げ、なにかを言いたそうにはくはくと口を開閉させているけれど言葉は出てこない。なんで、だとか、どうして、だとか、そういった唇の動きをしている。


「なんでって、あんたを見りゃわかんだろ。そんなお綺麗な恰好してる人間はここにはいねぇからな」


 無知を嘲るでもなく、ただ淡々と無音の問いに答える。これまでの反応を見るに、男が奈落で目覚めて真っ先に遭遇したのがソラだったのだろう。そうであればこの異様な怯えようにも説明がつく。もしくは、先刻死体を埋葬している姿を目撃されていて、こちらを殺人犯だと勘違いしているかのどちらかだ。


 墜ちてきたばかりの、奈落で生きていくすべもルールも知らない人間。まるで生まれたばかりの赤子のような無知な存在。仮にソラが男の立場だとしたら、善人でも悪人でも構わないからとにかく助けを乞いたくなるに違いない。次に男が口にするであろう台詞が薄々想像できてしまい、ソラは本能的に体の重心を後ろに移して退避の姿勢を取ろうとする。

 が、一拍遅かった。


 とうとう極限状態に追い込まれたか、はたまたなり振り構うことを諦めたのかはソラの知るところではない。地面に尻をついて曲げた膝と頭を抱え込むようにしてしゃがみ込んでいた男は、突如、背後から背を蹴られたかのような勢いで前のめりになってソラの足元に縋りついてきた。逃さんとばかりに伸びてきた男の腕を飛び退すさって回避する。


「た、頼む! 私を『コムタティオ』に連れて行ってくれないか!?」

「はぁ?」


 反射的に語調が荒くなり、けれど男は先ほどまでの意気地なさはどこへやら、食い下がって再び腕を伸ばして足首を掴もうとしてきた。ソラはその急襲を難なく躱し、勢い余った男がせきに熱烈な口づけをした。


「なんで俺があんたの世話なんかしてやらねぇといけねぇんだよ、他当たれ」

「そこをなんとか! このよくわからない場所で目覚めてから、まだきみにしか逢っていないんだ!」

「だからなんだよ、ひとりで歩いて探せ。あんたがどうなろうと俺の知ったことじゃねぇ」

「お願いします! なんでもしますから! どうか、どうか……!」


 とうとう額を地面につけるほどの低頭をされて、ソラは男にも聴こえるほどの舌打ちをする。誰彼構わず無償の施しをするほどの慈愛心は備えていないけれど、心の片隅にはほんの僅かな良心が残っている。ここまで懇願されていながら断固として拒否を繰り返すのは気分が悪いし、なにより断った翌日にこの男の死体を発見しようものなら最悪にも程がある。可能性がゼロだと断言できないからなおさらに。


 頭を下げたまま微動だにしなくなった男を見下ろして、苛立ち紛れにソラは喉元を右手で引っ掻く。がり、となにか硬いものに引っかかったような感触が指先に伝わる。遅れて広がる鈍い痛みに手を止めて見下ろせば、人差し指と中指がほんのりと赤く染まっていて、剥がしてしまった瘡蓋かさぶたの小さな破片もくっついていた。

 淡く昇る鉄錆の匂いに眉根を寄せ、右の手の甲で首元を乱雑にぬぐう。出血は微量だから、そのまま放置していれば勝手に止まるし新しい瘡蓋もできる。薄らと掻痒そうよう感が残る首から手を離して、改めて男と向き合う。


 男が口にした名称が『コムタティオ』でなければ、必死の懇願も素気すげなくあしらって早々に立ち去っていたというのに。どうしてこうも運が悪いのだろう。


「……死にたくない……私はまだ、死にたくないんだ……」


 風に巻き上がる砂粒のさざめきにすら掻き消されそうなほどか細い声が、ソラの耳朶に触れた。心底からのきゅうにそのまま音を乗せたような、呟きに近い願望。本人に深い思惑はないのだろうけれど、狼狽えている姿を長らく眺めてきたソラが思わず息を詰まらせるほど悲愴感に満ちている。

 今すぐにきびすを返したとて、男は諦め悪く引っついてくるのだろう。現状はまだ周囲に人影が見当たらないからさして影響はないけれど、自宅までの道中ではわからない。最悪の場合、大音声で拝み倒す男の声に引き寄せられて命を狙われかねない。

 はぁ、と肺に溜まった空気を全て吐ききるほど長いため息をつく。面倒なことこのうえないけれど、最善策はこれしかない。


「あんた、銃打ったことは?」

「は、え、銃? あるわけないだろうそんな兇器など……!」

「だろうな。なら、俺が守りきれなくても文句言うなよ」


 額と鼻の頭に砂を付着させた男が、ぽかんとほうけた顔で見上げてくる。その間抜けづらに思わず舌打ちをこぼしてしまいそうになり、すんでのところで飲み下した。


「あと、歩くのが速いだとか置いていくなとか、そういう苦情はいっさい受けつけない。それでもいいなら、さっさと立ち上がってついてこい」


 言いきるなりソラさっと身を翻し、すっかり風化して欠けた角砂糖のような形をしている公園の門へと一直線に向かう。男が後ろについてきているかどうかなど、一方的に頼み込まれたソラが気にすることではないと言わんばかりの早足で。

 当然と言えば当然か、硬直から立ち直った男が慌てて身を起こして歩き出す騒がしい足音が数秒遅れて背後から聴こえてきた。


「ちょ、ちょっと待ってくれ! 置いていかないでくれ!」

「苦情は受けつけないって言ったばっかだろ、話聞いてたか?」


 振り返りはせずに、声を僅かに張り上げて応じる。ややして隣に追いついた男の、ぜえはあと荒れている呼吸音に眉をひそめた。そこまで老いてもいないだろうに、たった数十メートルを走っただけでここまで息が上がるものだろうか。で生きる奴らは相当楽にまみれた生活をしてんだろうな、と内心だけで悪態を吐く。


 帰路は公園を訪れるまでに通った道とは異なり、最短距離をく。往路で遠回りをしていたのはあくまで埋葬すべき死体はないかと探すためであって、明確な目的地があるならば、長年の奈落暮らしによって記憶の奥まで深く刻み込まれた地図から最適な道を選ぶに越したことはない。

 とはいえ、一般に歩道と呼ばれるような鋪装された道など、この奈落にはほとんど残っていない。立ち並ぶ廃屋の間をジグザグと曲がり、立ち塞がる瓦礫の小山を登って越え、ひたすらに歩き続ける。男はといえば、どうやらついてくるのがやっとというふうで、時折激しく咳き込みながらも必死にソラの隣に食らいついていた。


「な、なあきみ、ひとつ訊いても、いいかい?」


 忙しない呼吸の合間に、突として男が口を開いた。

 終始怯えきった様子から向こうからは絶対に話しかけられることはないだろうと踏んでいたソラは不意を突かれて、ぱち、とひとつまばたく。


「なんだよ」

「きみはさっき、死体を埋めていただろう? あの人はなぜ、あんな場所で死んでいたんだい?」

「ああ……」


 どこから説明するべきかと、ソラは無意味な長音をこぼした。特段明かせない話ではないけれど、語るにはやや尚早だ。

 先刻のソラの行為に含まれた意味と亡骸の死因を男に伝えるためには、まず奈落の全貌を説明する必要がある。その全てを理解した状態でなければ、顔も名も知らぬ他人の埋葬という常識から逸脱した行為にもまた理解は得られないだろう。もっとも、ソラ自身は他者からの理解など微塵も求めていないのだけれど。


 それでも、理解ができないからと、気味が悪いからといって頭ごなしに否定されるのは嫌だ。


 どうしたものかと思考を巡らせること数秒。流眄ながしめに男を見遣って、ソラは右手の人差し指で自身のうなじを指し示した。皮膚の柔らかさとも骨の硬さとも異なる、きんと冷えた感触が指先に触れる。


「このあたりに、なんか薄っぺらい金属が埋め込まれてんだろ。それが認識票タグ。この奈落じゃ、それは命と同じ価値を持つ」

「そ、それは、どういう……」

「その認識票タグは、あんたがこれまで生きてた場所で言うところの金だ。奈落に墜とされた人間はもれなく全員それを埋め込まれて、他の奴らと認識票タグの争奪戦を強いられる。……よ、っと」

「えぇ!? そこを登るのかい!?」

「ここが最短ルートだからな。あんたもさっさと来いよ、おっさん」

「おっさんじゃない! 私はまだ二八歳だ!」


 あ、意外と若いのか、と思いこそしたものの、なけなしの良心が働いて口にはしなかった。

 もとは路地を区切るために設置されていたのであろう、網目状のフェンスを難なく登りつめて向こう側に着地したソラとは打って変わって、男はがしゃがしゃとけたたましい音を立てながら四苦八苦している。改めて見てみると、男が纏うスーツは既に大半が砂色に変色しており、ところどころ破けて裏地が覗いていた。上等なものだろうに、もったいない。


 地面に這いつくばる恰好で無様に着地した男が立ち上がるのを待ってから、帰路を辿る足を再び動かす。目的地は目前だ。

 颯爽と歩くさなか、要するに、と会話の端を繋ぐ。直進して、左に曲がり、またしばらく直進する。


「奈落では、金と命の価値が同等。金が欲しけりゃ他人を殺して認識票タグを奪うしか方法はない」

「ということは、つまり、さっきの死体は……」

「お察しのとおり、誰かに殺されて認識票タグを奪われた、名前も知らねぇ誰かの死体だ」


 ひっ、と男の口から引き攣れた悲鳴がこぼれ落ちたとほぼ同時に、ソラは足を止めた。視線の先には見慣れた外装のテナント。風化して塗装が剥がれ落ちた外壁の、嵐が直撃すれば跡形もなく倒壊してしまいそうなほど見窄みすぼらしい有様の。

 息を切らしながら隣に並んだ男を、今度はしっかりと体を向けて見据える。


「まあ、詳しい話は店んなかで聞きな。そもそも、墜ちてきたばっかの奴に説明すんのは俺の仕事じゃねぇんだよ」


 男の視線がソラから眼前のテナントへと向けられ、また戻ってくる。その双眸に滲む、暗く濁った色をソラは知っている。

 永遠に続くかと思われた平和な楽園から、抗うすべもなく地獄の底に突き墜とされた人間が、現実をようやく受け入れた時に染まる色。

 人はそれを、絶望と呼ぶ。



「——ようこそ、換金屋コムタティオへ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る