1-4

 栄養と水分が不足した瘠土せきどは、掘り起こす以前にショベルの先を差し込むことすら容易ではない。コンクリートとほとんど変わらないほどの硬度の地面目がけてショベルを振り下ろせば、鈍い音を立てて同じだけの力でね返される。勢いに流されて尻餅をつく時もあれば、最悪の場合だと肩や腕が引き抜かれたかのような激痛が迸るのだ。いつのことだったか、肩からごきりと異音が鳴るほどの強烈な拒絶を食らい痛みに号泣しながら帰宅して、泣き疲れて眠りにつくまでショウにひたすら慰められていた幼少期の、あの苦々しい記憶を思い出すだけで己の惨めさに眉根が寄る。


 幾重にも積み上げてきた失態から学習しているソラは、右肩に乗せるようにして担いでいたショベルを再び半回転させて刃先を地面に触れさせると、足掛けを右の靴底でぐっと押し込んだ。からからに干涸ひからびた土はそう易々と異物の侵入を許してはくれず、掘り起こしては差し込んで、また掘り起こしてを繰り返していく。


 掘り進めた穴がやや離れた場所に捨て去られた白黒のボールほどの大きさまで広がったあたりで、ソラは一度屈めていた体を起こして息をひとつ吐いた。細く長い吐息に、ついこぼしかけた舌打ちを混ぜ込む。長きに渡り幾度となく繰り返している作業だけれど、ショベルの扱いや体の使いかたに慣れることはできても疲労を感じない体質には変われない。既に静電気が走るようなぴりぴりとした痛みが滲み始めている両腕をそれぞれ手で揉みほぐしてから再開する。


 どれだけの時間がかかろうと、決して力任せにショベルを操ってはならないことを、ソラは長年の経験から嫌というほど熟知している。無理やり地面に突き差そうとして足掛けに乗せた右足に全体重を乗せてしまうと、下手をすればショベルがあらぬ方向に折れ曲がって使い物にならなくなるのだ。上向き直角に折れたり、不規則に波打ったり。丹念に叩き延ばされた金属らしい直線を失ってしまった道具はもとの形を取り戻せず、道具としての存在意義すらも失われる。これまで何本のショベルを駄目にして、そのたびにショウの小言を聞いてきたことか。


 ざくり、ざくりと金属の刃先が土を穿つ音だけが、一定の間隔で鳴り続ける。他に聴こえる物音といえば、時折思い出したかのように吹き抜ける風音と、俯くソラ顳顬こめかみから伝った汗が頬を撫でて顎先からしたたり落ちる微かな水音だけ。静寂と屍臭ばかりが立ち込める公園でひたすら穴を掘り続ける珍妙な姿を見留めて、声をかけてくるような者はいない。


 ソラにとってはむしろ、それが最も望ましい状態だ。誰にも邪魔をされず、ひたすら無心で土塊つちくれと対峙する。命ある限り誰しも平等に訪れる死を弔うための行為に、雑音ノイズも雑念もふさわしくない。焼香もなければ供花もないこの地では、この静寂こそが唯一の手向たむけだと、ソラは思う。


 そうして掘り続けて、ようやく大人ひとりが収まるほどの大きさの穴ができあがった。長らく丸めていた背をけ反らせて伸ばせば、ぽきぽきと小気味のいい音と指先で押し込まれたような弱い痛みが広がる。秋の半ばに差しかかった時季だというのに、長時間に及ぶ力作業によって噴き出した汗はまるで俄雨にわかあめにでも降られたかのようにワイシャツを濡らし、着古されてすっかり痛んだ布地を肌に張りつかせている。鬱陶しさと気持ち悪さに、先ほどはすんでのところでこらえた舌打ちをこぼした。


 汗で湿った額をワイシャツの袖でぬぐい、背後を振り返る。視線を向けた先には頭部に襤褸ぼろかぶせられた物言わぬ死体。そしてこれから埋葬される、死を悼む人と帰る場所を失くした孤独な亡骸だ。


 疲労の蓄積された全身を引き摺るように動かして、ソラは死体へと歩み寄る。ろくに勉強をしてこなかったから頭が悪い自覚はあるけれど、これまでの経験から死体の腐蝕具合で死後どれくらい経過しているのかはなんとなく読み取れる。褒められるような能力ではないことも、もちろん知っている。


 足元の死体は、おそらく絶命からさほど経っていない。最長でも三日といったところだろう。ところどころ皮膚が裂かれて肉が崩れていたり、その奥に守られた骨が顔を覗かせているのはあくまで損傷が激しいからにすぎない。遭遇した相手が運悪く弱者を甚振いたぶる行為を好む異常者だったか、はたまた必死に抵抗した挙句の反撃による死傷かは定かではないけれど。


 ソラは死体のふくはぎにショベルの面を添えると、刃先で弧をえがくように動かして死体の向きを変えた。力なく投げ出された両足を右に九〇度移動させると、ちょうど今しがたできあがったばかりの真新しい墓穴に対して平行になる。あとは地道に転がして穴に収め、上から土をかければ埋葬は終了する。手順としては至って単純だけれど、この動作が最も労力を必要とするのだ。


 少しでも力加減を誤ればあらぬ方向に進み、そのたびに向きを整えては動かして、目的地に到着する頃には死体の欠損箇所が増えているという有様。ソラとて、死者を冒涜する意図はこれっぽっちもない。にもかかわらずそのような悲惨な最期を生み出してしまうのは、死体に触れることによる悪病への感染を防ぐ代償だ。一応手袋を着用しているとはいえ、万が一の可能性は捨てきれない。ソラにこの『仕事』を教えた彼の人も事あるごとに忠告していた。


 教えに従い決して死体には触れずに、ショベルの面を駆使して墓穴までの直線を進める。体の前面、背面、一周して再び天を仰いだ前面は衣服に染み込んだ血潮の上から砂埃でさらにめかされていた。


 充分な栄養が摂れないこの地に生きる人々は総じて痩せ細った貧弱な体型をしているけれど、それでも意識がない大の人間ひとりをショベル一本で動かすのは相当な膂力りょりょくを要する。ひたすら動かすこと二回転と半分。墓穴の縁と死体の右半身が重なった矢先、高所から足を踏み外して滑落するように勢いよく転がり落ちた。そのはずみで千切れてしまった右肘から指先までの一部だけが地上に取り残され、すかさずショベルで掬い上げて体の上に置いてやる。


 急ごしらえにしては収まりのいい、けれどひとつの命を眠らせる場所としてはあまりに粗悪な寝台に、名も知らぬ誰かが横たわった。あとは、陽の光が届かないように、他者の悪意に踏みにじられないように、硬く冷たい蓋をするだけ。


 一度死体があった地点を振り返って残っているものがないか確認してから、墓穴の傍らに積み上げていた土の山を上から掬ってもとの形に戻していく。襤褸ぼろや衣服の上に落ちた土がぱらぱらと乾いた音を立てる。窓硝子を叩く雨粒の音色にも似ていて、けれどそれはなんの恵みも齎さない。雨は地中に眠る草木に生き抜くための力を与えるけれど、瘠土がなにかを与えることはない。死者が息を吹き返す感動的な御伽話おとぎばなしも、生者を襲う屍体ゾンビに生まれ変わる虚構フィクションも、所詮はただの作り物だ。


 最後のひと掬いをかけて、仕上げとばかりにショベルで地面を叩いてならす。凹凸のない平面にはなったけれど、一度掘り起こした土をかけ直しているから当然他の部分と色合いが異なっている。遠目から見ても不自然な変色具合だとしても、わざわざ労力と時間を消費してまで墓地荒らしをする者はいないだろう。そも、この地では死体ほど無価値なものは存在しないからなおさらに。


 その場から立ち去る前に、ソラは緩く睫毛を絡めて瞑目した。この所作も、ソラに埋葬方法を伝授した彼の人が併せて教えてくれた追悼の儀である。


 亡き人の生前をしのんで、安らかな眠りを祈るための時間だ、というのが彼の人の教えで、その言葉に違わず五分、一〇分と瞼を閉じ下ろしたままひざまずくことも平気でする人だった。初めて彼の姿を目の当たりにした時は所作の意味がわからなくて、加えてなぜどこの誰かも知らぬ他人のために祈るのかすら理解できなかった。——否、今もまだ。理解するまで真意を問いただす前に、彼の人はソラの前からいなくなってしまった。


 一呼吸ぶんの短い弔いから、瞼を押し上げて平常へと戻る。ふと強く吹きつけた風が高い位置で結わえた長髪を翻して、首筋に触れた毛先が肌膚をくすぐった。


 やるべきことが終わった今、この公園に居座る理由はなくなった。一瞬ののちに思考を巡らせ、もう少し遠くにでも行ってみるかと新たな目標を心の内に掲げて爪先の向きを傾けようとした、その時。


 ざり、と砂を踏み締める音が背後で鳴った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る