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 がりがりと、右手に携えたショベルが地面を削って薄らと線を引く音が足元に落ちる影のように並び歩く。地表に触れている先から伝わる振動は石や瓦礫に衝突するたびに大きく揺らいで、けれど取っ手をしかと握り締めている手のひらから滑り落ちることはない。


 かん、となにか硬いものにぶつかったような甲高い打音が鳴り、そのはずみでショベルの刃先がわずかに浮かび上がる。自宅をってから何度目かも知れない一瞬の飛行。担ぎ直すのが面倒だという理由で引き摺り続けていたけれどそろそろ鬱陶しく思えてきて、右手首をくるりと一周回してさらに高く上昇したショベルの柄を肩で受け止めて担ぎ直した。じんと痺れるような鈍痛が走る。


 迷いなく前進を続ける、履き潰してすっかり草臥くたびれたスニーカーの爪先が向かう場所は当のソラにもわからない。明確な目的地はなく、現在地を確認するための地図もなく、ただひとつ、目的だけを抱えて荒寥こうりょうの地をひた歩く。


 砂埃を巻き上げながら吹きすさぶ風音に紛れて、高い位置から物が落ちたような音が左の鼓膜を掠め、反射的に顔を向けた。視線の先にあるのは、長らく風雨にさらされ続けて外壁や屋根のほとんどが残壊された平屋建てで、ちょうど瓦がひと欠片だけ落下したのが見えた。どうやら限界を迎えた部分から崩落が始まっているようだ。


 念には念を、とその一軒家の周囲に警戒の眼差しを巡らせる。瓦礫の陰にひそむ姿はないか、ひび割れて欠けた窓硝子からこちらを窺う目はないか。足は止めないまま、残る隈なく凝視すること五秒足らず。なにも変化が起きないことを確認してから、ふいと顔を正面に向け直した。


 ショベルの取っ手を握る右手に、力を入れ直す。ひとまず人影はなかったけれど、ここで気を緩めてはならない。


 手練てだれは標的ターゲット気取けどられたと察すると即座に次の手に移る。ソラが顔を向けた時点で既に別地点に移動を始めていたかもしれないし、背後に回られて呼吸と殺気を押し殺しているさなかかもしれない。


 ナイフなどの近距離武器であれば接近の気配にさえ気づければ返り討ちにできるけれど、銃火器の照準を合わせられているならばそうもいかない。黒地のワイシャツの下に着込んだ防弾チョッキに護られた心臓以外の急所を狙われた場合、即死は免れられないだろう。


 幸運が微笑むか、はたまた兇弾が嘲笑うか。幾度となく経験してきた刹那の生殺の行く末は、数秒ののちにソラの身に降りかかった平穏が証明した。


 蝋燭の火が消えるように消失した危険から意識を逸らして歩を進める。右手側に見えた、一階だけを残して倒壊した高層ビル同士に生まれた細道を曲がり、そこから手当たり次第に道を右へ左へと無作為に曲がり続ける。遮蔽物は隠密に最適である同時に狙撃されやすくなるリスクも孕んでいるけれど、命を狙われる可能性は一旦懸念から除いておくことにした。


 そもそも、他者を恐れているようでは『奈落』では生きていけない。


 植物を育てるだけの栄養を失い干涸ひからびた土壌と、見渡す限りの廃墟と瓦礫と廃棄物の山。四方のどこを向いてもいっこうに変わらない、頽廃たいはいに染まった風景。

 賃金を得るための仕事も、健康的な生活の基盤を形成するための物品も存在しない。誰も彼もが生きていくために生きる、それがこの『奈落』の常だ。


 当てなく、気の向くままに歩き続けて十数分。ふと首を巡らせた先の、とある一点にソラの視線は吸い寄せられた。


 鉄パイプをそのまま捩じ曲げて形成したような背の低いフェンスに囲われた、その四隅を埋めるように遊具が設置されている公園だ。ブランコに滑り台、シーソーと砂場。あとは辺に沿って並んだベンチがふたつ。ソラ自身は公園で遊んだことがないから、あくまで名称と曖昧な遊びかたしか知らないけれど。


 爪先の向きを公園へと向け直して、颯爽と歩み寄る。無意識のうちに癖になっていた鳴らないはずの跫音きょうおんが、踵を接地したまま方向転換をしたことで砂利と靴底とが擦れ合い、ざらりと微かな音を立てた。


 フェンスをひとつぶん取り除いただけの適当な入口を跨ぎ、園内に足を踏み入れた。子供が遊ぶための施設はけれど、当の子供達が自由に外を出歩けないせいで野曝のざらしになっている。積み上がった瓦礫も、方々ほうぼうに鏤められた石塊も、本来ならばあってはならない危険物のはずだ。


 この公園で最後に子供が遊んだのは、果たしていつなのだろう。子供達が無邪気な笑声を響かせて園内を駆け回り、それをベンチに腰かけて眺める母親達が世間話に花を咲かせる、そんな平和が当たり前に存在していたのはいつまでだったのだろう。


 なにが原因で、なにを契機として、なぜ平和が失われてしまったのか。物心ついた時には既に奈落で暮らしていたソラにはわからない。知っているのは、幼い頃にショウから聞かされた御伽話おとぎばなしじみた世界の諸説だけ。


 そんなことを考えつつ障害物を踏み越えて辿り着いた、公園のちょうど中心となる場所で足を止める。風に運ばれてきた鼻腔を突き刺すような腐臭に堪らず顔をしかめ、右の二の腕を鼻に押しつけて防いだ。


 世界とは美しいものなんだよ、と諭されても、この奈落でしか生きたことのないソラには理解できない。

 だって。


 見下ろす、足元に散らばった残骸。鳥についばまれたのだろう土塊色つちくれいろの皮膚と崩れた肉の合間から覗く、くすんだ乳白色の棒きれはところどころが枯朽して大小様々に欠け落ちている。歪な円状に広がる濁った朱殷しゅあんが供花のように哀切を滲ませて咲き誇る。

 せめてもの配慮か、それとも単に死に際の形相を記憶に残したくなかっただけか。薄汚れた襤褸ぼろで頭部を包み込まれていて、顔貌から年齢を推察することは叶わない。


 唯一わかるのは絶命していること、ただそれだけだ。


 名も知らぬ誰かの遺体を見下ろして、ソラは薄く開いた唇から細く息を吐く。初めてその惨状を目の当たりにした時に襲われた恐怖や震慴は、とうに枯れ果てている。


 ——こんな残酷な世界だけど。大勢の人が死んでしまう世界だけど。それでも、誰もが懸命に生きているからこそ、美しいと思うんだよ。


 ふと脳裏を掠めた言葉に、そんなわけがないだろと胸中で吐き捨てた。声色を失った、懐かしいという感情だけが残った去りし日の記憶。


 だって。

 弔われることもなく、嘆き悼む者もいないまま、無惨に捨て去られた死体で埋め尽くされた世界が、美しいはずがないのだから。

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