1-2
来訪者が去ったことで再来した静寂が、きんと耳障りな音色を伴って店内に降り落ちる。ささやかな息遣いも、ともすれば心音すら聴こえてきそうなほどの無音。
今しがた退店したばかりの彼が纏っていた濃い血の匂いが微かに漂う空気に溶かし込むように、
「——よろしく言っといて、だってさ。ねえ、
姿の見えない誰かに向けた言葉はけれど、受け止められることなく消えてゆく。
「だってさ、ってなんだよ。俺にどうしろってんだ」
しかしその直後、やや離れた場所から上がった声が消えかけた言葉の端を掴んで
声の
「あの野郎、なにがよろしく言っとけ、だ。よろしくされる筋合いなんかねぇよ」
「まあまあ、そう怒らないであげてよ。
「どうだかな」
預けた背をぐっと押し込むように反動をつけて壁から離れた青年は、その勢いのまま前進して
吊りがちの
「マジで八九番じゃねぇか。あのおっさん、よくやれたな」
「ね。僕も驚いたよ。二桁の古株なんてもうほとんどいないのに、なにか執念みたいなものがあったのかな」
「いや、おっさんはただ楽しみたかっただけだろ、どうせ。これしか娯楽がねぇんだからとかなんだとか言ってさ」
「ああ……まあ、本音はそっちだろうね」
だいぶ容赦のない酷評だけれど否定はできず、
奈落が何年前に創られた場所なのか定かではないけれど、寿命が尽きて逝去しているか、あるいは既に
だからこそ、同じ歳月を生き抜いてきた
荒野に芽吹く植物の如き生命力と生存力を有する者をどう仕留めたかは、
狡猾だなぁ、と嘆息して、
しばらく無心でめくり続けて、目的の
ひときわ目を引くのは、紙面の六分の一ほどを占領する色褪せた写真だ。いつ撮影されたものだろうか、薄い唇を真直ぐに引き結んで正面を見据える
余白には、八九番の来歴と
たった一
不意にさらりと、両手で掬い上げた砂礫が指の隙間からこぼれ落ちるような音が右耳のすぐそばで聴こえた。反射的に身を竦ませて振り返ると、いつの間に接近していたのか、肩越しに書物を覗き込む形で
自らと同じ色の双眸をまばたかせて、どうかしたのかと
なんでもない、と首を振って応じると、
「こいつ、結局何年ここで生きてたんだ?」
「さあ、何年だろうね。番号が若いから古株ってことはわかるけど、正確な期間はこの書物には書かれてないから」
ふーん、と興味がなさそうな声音で
そのままカウンターに右手を置くと、助走もなしに軽々と飛び越えて向こう側へと着地した。やはり
「どこに行くの?」
無音を引き連れて出入口に向かって歩を進めるその背に、問いを投げかけた。
「散歩」
「ああ。いつもの、ね」
「散歩だって言ってんだろ」
「はいはい」
適当にいなすと、
ふん、と鼻を鳴らしてから顔を背け、ドアが開け放たれた。ちょうど強く吹きつけたらしい風は肌膚に触れただけで
手のひらの
「いってらっしゃい。気をつけて」
外界へ踏み出そうと持ち上げた右足を中空で止めて、またもとの位置に戻されたのがかろうじて見えた。次いで爪先が左に九〇度回転して、再びびこちらを振り向いたのだと悟る。
彼が立ち止まった理由がわからず、
どうしたものかと思考を巡らせても良案は浮かばず、歯痒さに小さく唸る。
「……気をつけろってのは、どっちかと言えば俺がお前に言う台詞だろ」
「え? ごめん
風音に掻き消されながらも僅かに聞こえた
ふたりの間を風の声が埋める。なにかを逡巡しているような間が空いたのち、彼は声を張り上げた。
「なんでもない。いってきます」
店内に残されたのは廂代わりに目の上に添えていた右手をそのまま体の前に突き出した恰好で立ち尽くす
まるでこの場から逃げ出すような仕草に瞬息、呆気に取られていた
「
口にしてからどちらも似たような意味だなと気づいて、ひとつ溜め息をこぼす。
いかな一卵性の双子と言えど、四六時中行動を共にするわけではない。
気を取り直すように首を横に振って、
カウンター奥の戸棚から薄汚れた麻袋を掴み取って口を緩めると、今しがた換金されたばかりの真新しい亡骸を放り込む。一枚一枚が足の爪ほどに薄く軽い素材で作られている
枚数を数えていないことも、覚えていないことも、与えられた仕事を淡々とこなすだけの
硝子の破片が触れ合うような
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます