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 来訪者が去ったことで再来した静寂が、きんと耳障りな音色を伴って店内に降り落ちる。ささやかな息遣いも、ともすれば心音すら聴こえてきそうなほどの無音。

 今しがた退店したばかりの彼が纏っていた濃い血の匂いが微かに漂う空気に溶かし込むように、ショウは細く息をついた。

 おとがいを僅かに持ち上げて虚空をぼうと見つめながら、おもむろに開口する。


「——よろしく言っといて、だってさ。ねえ、ソラ


 姿の見えない誰かに向けた言葉はけれど、受け止められることなく消えてゆく。


「だってさ、ってなんだよ。俺にどうしろってんだ」


 しかしその直後、やや離れた場所から上がった声が消えかけた言葉の端を掴んで手繰たぐり寄せた。ショウにとっては聞き慣れた、耳に馴染む中低音。

 声の出処でどころ、店奥に続く廊下のある右後方へと首を巡らせると、壁に凭れかかるようにして立つ青年がいた。彼は険しくしかめられた顔を少しばかり傾けて、先刻ガクが通ったばかりのドアをめつけている。


「あの野郎、なにがよろしく言っとけ、だ。よろしくされる筋合いなんかねぇよ」

「まあまあ、そう怒らないであげてよ。ガクさんだって別に他意はないんだろうし」

「どうだかな」


 預けた背をぐっと押し込むように反動をつけて壁から離れた青年は、その勢いのまま前進してショウの真正面で足を止めた。夜空のいっとう高いところの色を掬い取ったような黒い瞳が、全く同じ高さで見据えてくる。


 吊りがちのまなじりと声色、長く伸ばされた黒髪が後頭部の中心あたりでひとつにくくられているところを除けば、眼前に佇む彼はショウと瓜ふたつだ。あとは身に纏うワイシャツが黒か白かの違いだけ。


 ソラは絡んだ視線をふいにほどくと、カウンター上に置いたままにしていた認識票タグを乱雑に掴み上げた。親指と人差し指でつまむように掲げて室内灯に当ててまじまじと観察し、マジか、と驚いたような音調で呟く。


「マジで八九番じゃねぇか。あのおっさん、よくやれたな」

「ね。僕も驚いたよ。二桁の古株なんてもうほとんどいないのに、なにか執念みたいなものがあったのかな」

「いや、おっさんはただ楽しみたかっただけだろ、どうせ。これしか娯楽がねぇんだからとかなんだとか言ってさ」

「ああ……まあ、本音はそっちだろうね」


 だいぶ容赦のない酷評だけれど否定はできず、ショウは苦笑で誤魔化した。


 認識票タグに掘り込まれた番号が若ければ若いほど、長きに渡ってこの奈落で生き続けているということになる。両親から換金屋を引き継いでから数多もの認識票タグを手渡されてきたショウでも、一桁台は一度も目にしたことがない。


 奈落が何年前に創られた場所なのか定かではないけれど、寿命が尽きて逝去しているか、あるいは既にのどちらかだ。


 だからこそ、同じ歳月を生き抜いてきたソラが驚くのも無理はない。長く生き続けているということはつまり、この地獄で生き残るためのすべを充分に持ち合わせていることに他ならない。他者から向けられる殺意のかわしかたも、無作為に振るわれた暴力に対する自己防衛も、全ては年月が培わせてくれる。


 荒野に芽吹く植物の如き生命力と生存力を有する者をどう仕留めたかは、ショウ達の知るところではない。ただ、先ほどのガクの様子から察するに、返り血や砂埃などの汚れがどこにも見当たらなかったあたり、遠方から銃弾を放つなどして不意を突いたのだろう。


 狡猾だなぁ、と嘆息して、ショウは手元の書物をぱらぱらとめくる。手のひらの横幅ほどの厚みがあるそれは、ページを進めるごとに左上もしくは右上に記された数字が大きくなっていく。一見するとページ番号のように見えるものの、ところどころ不自然に数字が途切れていて読み物としては不合格だ。


 しばらく無心でめくり続けて、目的のページに辿り着くと手を止めた。左上に記された数字は『〇〇〇〇八九』——ソラの手元で仄明るい照明を受けて曇った銀色に光る認識票タグの、もとの持ち主に関するページ


 ひときわ目を引くのは、紙面の六分の一ほどを占領する色褪せた写真だ。いつ撮影されたものだろうか、薄い唇を真直ぐに引き結んで正面を見据えるりし日の八九番は、生真面目という言葉は彼のために生まれたのだと思わず納得してしまいそうなほど実直な顔貌をしていた。


 余白には、八九番の来歴とおぼしき文章が所狭しと書き連ねられてある。けれどそれは、あくまで簡略化されたものでしかなく、学歴や職歴が知れたとしてもその合間に彼が経験したであろう過去の出来事まで事細かに書き残されてはいない。


 たった一ページに、ひとりぶんの人生。ここに記された人々のことを、ショウはここに記されているぶんしか知り得ない。


 不意にさらりと、両手で掬い上げた砂礫が指の隙間からこぼれ落ちるような音が右耳のすぐそばで聴こえた。反射的に身を竦ませて振り返ると、いつの間に接近していたのか、肩越しに書物を覗き込む形でソラが立っていた。

 自らと同じ色の双眸をまばたかせて、どうかしたのかとソラが言外に問う。普段は特別気に留める必要がないから頻繁に忘れてしまうのだけれど、彼は足音を立てずに歩く癖がある。いつの間に染みついた癖なのかは尋ねたことがないからわからない。

 なんでもない、と首を振って応じると、ソラは顎先が肩に触れるほどまでさらに身を寄せた。


「こいつ、結局何年ここで生きてたんだ?」

「さあ、何年だろうね。番号が若いから古株ってことはわかるけど、正確な期間はこの書物には書かれてないから」


 ふーん、と興味がなさそうな声音でソラが相槌を打つ。自分から訊いたくせに、と呆れを滲ませて茶化すと、彼は気が逸れた猫のようについと顔を背けて認識票タグを机上に置いた。


 そのままカウンターに右手を置くと、助走もなしに軽々と飛び越えて向こう側へと着地した。やはり跫音きょうおんは少しも鳴らず、動作に伴って翻った長髪がぱさりと背に落ちる微かな音が耳の縁を掠めただけだった。


「どこに行くの?」


 無音を引き連れて出入口に向かって歩を進めるその背に、問いを投げかけた。


「散歩」

「ああ。いつもの、ね」

「散歩だって言ってんだろ」

「はいはい」


 適当にいなすと、ソラは半身だけ振り返って露骨に不満そうな顔をした。無造作に切られた前髪の奥、眉間にくっきりと皺が寄せられているのが遠目からでも見てとれる。


 ふん、と鼻を鳴らしてから顔を背け、ドアが開け放たれた。ちょうど強く吹きつけたらしい風は肌膚に触れただけでひび割れてしまいそうなほど乾燥し、ごうと唸るような風声と共に砂塵を店内に招き入れる。微細なつぶてに顔を打たれて、思わず目元を手で覆った。

 手のひらのひさしに上半分だけ隠された視界の向こう、逆風もいとわず進んでいく黒ずくめの後ろ姿に言う。


「いってらっしゃい。気をつけて」


 外界へ踏み出そうと持ち上げた右足を中空で止めて、またもとの位置に戻されたのがかろうじて見えた。次いで爪先が左に九〇度回転して、再びびこちらを振り向いたのだと悟る。

 彼が立ち止まった理由がわからず、ショウは困惑する。いまだ細かい砂の群れは降り落ちる雨粒のように肌を叩き続けている。手を退かせば彼の表情が窺えるけれど、そうすると目を守る術がなくなって眼球が危険にさらされてしまう。

 どうしたものかと思考を巡らせても良案は浮かばず、歯痒さに小さく唸る。


「……気をつけろってのは、どっちかと言えば俺がお前に言う台詞だろ」

「え? ごめんソラ、もう一回言ってくれる?」


 風音に掻き消されながらも僅かに聞こえたソラの声を辿って聞き返す。

 ふたりの間を風の声が埋める。なにかを逡巡しているような間が空いたのち、彼は声を張り上げた。


「なんでもない。いってきます」


 ショウに二の句を継がせる間も与えず、さっソラは身を翻して歩き出した。年季の入った蝶番ちょうつがいが鈍い悲鳴を上げながら、やがてドアが閉まる。


 店内に残されたのは廂代わりに目の上に添えていた右手をそのまま体の前に突き出した恰好で立ち尽くすショウと、方々ほうぼうに撒き散らされた大量の砂塵だけだった。

 まるでこの場から逃げ出すような仕草に瞬息、呆気に取られていたショウは二、三度まばたきをしてからのろのろと腕を下ろした。


ソラって本当、せっかちというか短気というか……」


 口にしてからどちらも似たような意味だなと気づいて、ひとつ溜め息をこぼす。

 いかな一卵性の双子と言えど、四六時中行動を共にするわけではない。ショウが自らの意思で終日ひすがら換金屋の番をするように、ソラにだってやりたいことのひとつやふたつくらいある。そう理解してはいても、せめて行き先くらいは教えてくれたっていいだろうと苦言を呈したいと思ってしまうのは、果たして過保護だろうか。


 気を取り直すように首を横に振って、ショウは彼が置いていった認識票タグを持ち上げた。今日はが来る日で、到着予定時刻まで三〇分をきっている。特別なもてなしは不要だけれど、相応の準備はしておかなければならない。

 カウンター奥の戸棚から薄汚れた麻袋を掴み取って口を緩めると、今しがた換金されたばかりの真新しい亡骸を放り込む。一枚一枚が足の爪ほどに薄く軽い素材で作られている認識票タグは、だからその袋のなかにどれだけの亡骸が眠っているのかは掲げただけではわからない。


 枚数を数えていないことも、覚えていないことも、与えられた仕事を淡々とこなすだけのショウは悪だとは思わない。


 硝子の破片が触れ合うような果敢はかない音色を聴き届けて、ショウはあまりに粗末な棺の口を閉ざした。

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