第一章

1-1

 ぱん、とどこかで銃がいた。

 空気で目一杯に満たしたビニール袋を思いきり叩き潰したような間の抜けた音で、けれど、たったそれだけで見知らぬ誰かの命が落ちたのだと悟るには充分だった。


 草花の芽吹かない枯れ痩せた地面を踏み締め、歩く男の足取りは軽い。歴戦の戦士を思わせる屈強な体躯に不似合いな、まるで向かう先で開催される祝い事を心待ちにする子供のようだ。


 男は視線の先に目的地の影を捉え、自然と口元に笑みが広がった。どこにでもあるテナントの一角、もともとは綺麗に塗装されていたのであろう灰色の外壁は風化してすっかり剥がれ落ち、ところどころ骨組みが露わになっているせいで余計に見窄みすぼらしい。

 ドアの上部には『換金屋』と書かれた看板がある。


 くだんの建物に到着した男が、ドアノブをへし折らんほどの勢いで手のひらを振り下ろし、爪先で蹴飛ばして開扉した。年季が入って限界を迎えつつある蝶番ちょうつがいが大きく軋んで甲高い悲鳴を上げる。


「よう、換金屋。邪魔するぜ」


 勝手知った様子でずかずかと真正面にあるカウンターへと歩み寄りながら声を投げかけるも、返る言葉はない。

 目的地まで到着した男は足を止め、机上に置かれている錆びついた金属製の呼び出しベルを容赦なく平手打ちした。幼い子供の悲鳴じみた甲高い音色に混じって、過剰にかけられた負荷により金属同士が強くぶつかり合う鈍い音がした。

 されども、やはり店主が姿を見せることはなかった。がらんどうの店内に殷々いんいんと残響が漂い、やがてふつりと消えて静寂が戻ってくる。


 ちっと男が舌打ちをこぼす。長い付き合いだからこそ知っている。店主不在のまま、この店の扉が開かれているはずがないことを。

 つまりは今、居留守を使われている。

 鍛え上げられた筋肉で武装した胸部がはち切れんばかりに膨らむほど大きく息を吸い込んで、一拍ののち、男は咆哮した。


「おい、換金屋! この店ぶち壊されたくなけりゃ、さっさと出てきやがれ!」


 ぶぉんとくうを切って振り下ろされた男の右手が、呼び出しベルにさらなる暴力を与えた。まるで眼前を飛び回る小蝿の鬱陶しさに耐えかねて叩き潰さんとするほどの勢いで何度も叩きつけ、そのたびに抵抗のすべを持たないベルが悲愴な叫声を上げる。


「ちょっとガクさん、あまり乱暴にしないでもらえます? うちの店がどれだけ古いか、ひと目見ればお分かりでしょう?」


 心底呆れたというふうな声色が割り入ったのは、十一回目を叩き鳴らそうとして腕を持ち上げた直後だった。


 見上げた先、奥の部屋に続く通路を暖簾のれんで隠した、ドア枠だけが残された場所に現れた人影がひとつ。歳の頃はだいぶ若い。ひとりで店を構えるには些か信憑性の足りない、十代後半ほどの青年である。

 陽に焼けていない肌は一度も使用されていない陶磁器のようにしろく、眼窩に収まる黒色の瞳は目尻が垂れて気が弱そうな印象を受ける。肉付きの少ない針金のような痩身は、成長期に育ち損ねてしまったのかと思わず憐憫をいだいてしまうほどだ。

 その類いの趣味なのか、はたまたなんらかの信条があるのか定かではないけれど、長く伸ばされた黒髪はろくに美容品が存在しないこの地で住まう者としては珍しく艶めきを纏い、左耳の下でひとつに結わえて肩口に流されている。


 一瞥だけでは女と見紛うような風貌をしているその青年こそが、この換金屋の店主であった。

 はあ、とこれ見よがしに溜め息をつきながらカウンターへと踏み入る青年に、男はにっと唇の端を吊り上げて不敵に笑いかけた。


「なんだよ、店ンなかにいるなら返事くらいさっさとしやがれってんだ」


「そんなことを言われましても。うちはガクさんのためだけにある店ではありませんので」


「あ゙ぁ? このクソ餓鬼、舐めた口ききやがって」


 売り言葉に買い言葉。額に薄らと青筋を浮かび上がらせて男が凄む。

 けれど青年は臆する素振りは少しも覗かせず、対照的ににこやかに微笑んで真っ向から見返してきた。


ガクさんこそ、舐めた口をきいてしまっていいんですか? 換金屋このばしょが利用できなくなればどうなってしまうのか、想像できないほどの能無しではないでしょう?」


 ここは自分の領分なのだから、おとなしくしておいたほうが身のためだ、と。ほとんど脅迫に近い忠告を言外に含ませて、青年が言う。


 しばしの間ふたりは睨み合い、肌がひりつくような緊張感が一瞬空中に閃く。

 ややあって、弾けるような男の大爆笑が緊迫した空気をほどいた。


「がっはっはっは! そりゃあ違いねぇ! オレが悪かったからそんな怒ってくれるなよ、ショウ


「本当に悪いと思っているなら、嘘でももっと反省している素振りを見せてくださいよ」


 本当に調子がいいんだから、と青年、もといショウが肩を竦める。


 茶番じみたやりとりは、長年の付き合いが築いた信頼の表れだ。仮にこの場に第三者が居合わせて先ほどの攻防を目の当たりにしようものなら、見た目からして明らかに非力な青年が筋骨隆々の男に殴り殺されてしまうと顔面を蒼白にするだろう。

 弱肉強食が根底にある世の中だとしても、この店内では客は店主に牙を剥けない。喉笛に噛みついてしまえば最後、待ち受けるのは死のみ。


 霎がきびすを返してカウンター奥の棚からなにかを取り出した。こちらに向き直った彼の両手のなかに収まっているのは、色褪せた南京錠でとざされた金属製の箱。それをカウンター上に置く。

 少しばかり顎を引いて、すう、と深呼吸をひとつ。閉ざした瞼が持ち上がって露わになった闇色の瞳からは冗句の色は失せ、つらぬくほどに鋭利な眼差しが男を見据えた。


「それで、今回はどのようなご用件で?」


 この一瞬。ただの青年ではなく『換金屋』の店主に変貌したこの転瞬こそが、男が最も緊迫感を覚えるいっときであった。

 力ずくならば確実に抑え込める。明瞭な殺意さえ芽生えれば簡単に息の根を止められる相手に、畏怖をいだかずにはいられない。

 固唾を呑んだ喉が、ごくり、と鳴る。これが生を奪い合う殺し合いであれば兇弾きょうだんに撃ち抜かれているに違いないと、本能的に悟った。


「……そんなこたぁ、ひとつに決まってる。換金だ」


 じいとショウの瞳が男を見据え続ける。まばたきもなく、うろのように光の差さない昏い色を湛えて。


「かしこまりました。お持ちの認識票タグをお出しください」


「ああ。ほらよ」


 示されるがまま、ズボンのポケットに手を差し入れてなかにある物を取り出し、ショウに向けて突き出した。薄暗い照明に照らされたそれは黒い塗装がされているものの一部剥がれており、彼の手のひらに収められる直前の一瞬だけ銀色の目映まばゆい輝きを放った。


 そこらじゅうに転がっている鉄板の端を切り取ったかのような薄っぺらい金属片にしか見えないそれを受け取ったショウは、少しばかり眉をひそめた。その理由を、男は知っている。

 この青年は、血が嫌いなのだ。


 なぜ嫌いなのか、という点はわからない。初めてここを訪れた際に血まみれの認識票タグを手渡した時に今よりもずっと明確に渋面を広げた姿を目撃して以来、ちょっとした嫌がらせ程度に同様に仕打ちを繰り返している。

 黒い塗装に見える部分も実際には血痕で、既に乾ききっているから触れた肌膚に移りはしない。それでも、意地でも触れまいと汚れていないところをつまもうと四苦八苦しているさまを眺めるのはなかなか面白い。


 ショウ認識票タグを持ったまま身を屈め、カウンター下から硝子製のボトルを取り出した。よほど余裕がないのか、荒々しく置かれた衝撃でぽちゃりと軽い音を立てて内容物が波打つ。

 次いで再び上体を折り曲げて、今度は一枚の薄汚れた布を引っ張り出す。それにボトルの中身を垂らして湿らせ、丁寧に認識票タグを拭き取り始めた。赤黒いこびりつきは抵抗もせずあっさりと剥がされ、代わりに布を染め上げた。


 全体がもとの銀色を取り戻した認識票タグに目を凝らし、ショウは手元に置いていた一冊の書物をめくる。数度ページを進めて、手を止めた紙面に記された文字を確かめるように指先でなぞった。


「認識番号ゼロゼロゼロゼロハチキュウ、照合完了しました。……よくこんな、を仕留めましたね」


「だろ? 三日三晩追いかけ回して動きが鈍ったところを狙ってやったんだよ」


「なるほど、悪質がすぎますね」


「それぐらいやんねぇと仕留めらんねぇんだよ。特に無駄に長く生き残った奴はな」


「まあ、それは嶽さんもだと思いますけど」


「否定はしねぇな」


 男は素直に頷いた。実際のところ、自分もほとんど近い番号なのだから、しぶとく生き残っているのはお互いさまなのである。

 書物を閉じたショウは棚から取り出した鉄製の箱を開け、じゃらじゃらと耳障りな音を立てながらなにかを麻袋のなかに入れた。お待たせしました、とショウが告げる。


「金貨一五枚、銀貨一〇枚です」


「ん? なんか多くねぇか?」


 予想では金貨一〇枚が限度だと踏んでいたのだけれど、それを優に超えている。がない限り、この生真面目な店主が金額を誤ることはまず考えられない。

 ああ、と彼は頷いた。こともなげに、淡々と。


「このかたは最上位の犯罪を犯していますから、そのぶんの上乗せですね」


「あぁ、やっぱそうか。具体的な罪状は?」


「黙秘します。個人情報を漏洩することは禁じられていますので」


「ンだよ、つまんねぇな。いいだろうが、別にちっとばかし教えてくれてもよ」


「お断りします」


 穏やかな笑みを湛えたまま頑なに折れようとしない彼に、男は本日二度目の舌打ちをこぼす。繊弱ひわやかな見目のくせに、性格は極めて頑固で融通が利かない。

 とはいえ、目的は達成した。予想以上の重みを携えた麻袋を乱雑にポケットにしまい、別れの言葉を告げて立ち去ろうとした直前で、ふと思い至って口を開いた。


「なあ、ショウ


「なんですか?」


 ひとつ大きくまばたいて、青年の瞳がじっと見つめてくる。あまりに無垢でいとけなさの残る仕草だと、その姿に思う。


「前々から思ってたんだけどよ。お前、そうやって客の前で金出したら危ないんじゃねぇのか?」


「と、言いますと?」


「いや、普通に考えて、そういうのは裏でやるもんなんじゃねぇの? 真ん前で金庫開かれたら真っ当な奴はともかく、本物の気狂きちがいは暴力でじ伏せて盗っちまうかもしんねぇだろうが」


 餓鬼が大金抱えて生きていくには、この世界はあまりにも無慈悲だと。

 そう、心配も含めて告げたつもりの言葉は、けれど目の前の青年には些細な問題だったらしい。

 穏やかに——いっそ残酷なほどに朗らかに、青年は微笑んだ。


「そんなこと、今さら気にする必要もないのでは?」


 だって、と言葉の端を繋ぐ。


「僕に殺意を向けた人間がどうなるのか、知らない人はもうほとんどいないでしょうから」


 曖昧にぼかした返答ではあったけれど、男には彼の真意が理解できた。理解できてしまった。

 だから、その標的のひとりに含まれてしまう前に立ち去ろうと一歩左足を引いたのは、防衛本能にも似た無意識にほかならない。


「……あ、ああ、そうだったな。そんじゃ、そいつにもよろしく言っといてくれ。オレのことは噛むんじゃねぇよ、ってな」


「うーん、そればかりは僕に言われても仕方のない頼みですね」


「おいおい、そこは快く引き受けてくれよ。長年の付き合いじゃねぇか」


「あはは」


 あははじゃねぇんだよこの餓鬼、と心中だけで悪態を吐いた。どこで身をひそめているかも知れないの猟犬に万が一でも聞かれようものなら、骨の髄まで食らい尽くされてしまいだ。


 今度こそ踵を返す。またのお越しを、という定型文の挨拶にひらりと手を振って応え、男は換金屋をあとにした。

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