奈落より、あいを込めて

代縋燈人

序章

 ふつり、と。底から立ち上ったあぶくが水面に触れて弾けるように、意識を取り戻した。


 一度固く両瞼を閉じ合わせてから持ち上げて、数回まばたきを繰り返す。朝靄がかかっているかのように朧げな視界は、その動作で明瞭を取り戻すはずだった。

 しきりにまばたいても、早めたり遅めたりと速度を変えても、景色はいっこうに変わらない。先も見通せないほどに深く、色濃く塗り潰された一面の黒が果てなく広がっているばかりだ。電灯や蝋燭のような光源もないから、今自分がどの方位を向いているのかすらも判然としない。


 視覚から得られる情報がないのならばせめてと、聴覚に意識を集中させる。たとえ窓硝子ガラスの隙間から吹き込む微風そよかぜ程度の微かな音だとしても、それをしるべに一歩を踏み出すことができる。

 開いたばかりの両目を固く瞑り、周囲の音を聴き逃さぬよう神経を尖らせる。湿度の変化によって建物が軋む音、屋根上を小鳥が駆ける音、警察がサイレンを鳴らす音——なんだっていい。この閉塞的な狂気のおりから脱出する手がかりさえ手に入れば、あとはがむしゃらに足掻けばいいだけなのだから。

 しかしいくら待てど、希望は手を差し伸べてはくれなかった。鼓膜をつんざくほどの静寂だけが暗黒の空間に反響している。


 なにも見えなければ、なにも聴こえない。一縷の望みさえも打ち砕かれて、全身がまたたく間に重くなっていくのを感じる。足元から胴体へ、胴体から頭頂へ、まるで底のない泥沼に呑まれていくように重量を増した体を支えきれず、とうとうその場にくずおれた。

 ひゅう、ひゅう、という喘鳴が、きんと甲高い耳鳴りと不協和音を奏でる。それでも懸命に平静を取り戻そうと努めて深呼吸を繰り返すも、狂ったメトロノームのように不規則に拍動する心臓が邪魔をしてくる。いよいよ酸素が足りなくなったのか、両手と両膝を地面につく形で這いつくばっているにもかかわらず、脳をじかに鷲掴まれて揺さぶられているような眩暈がする。


 己の身になにが起きているのか、いっこうに理解ができない。こんな狂気的な空間に放置されるいわれもなければ、心当たりだってない。

 何者かの手によってこの場所に拉致されたか、あるいは——眼球を、潰されたか。

 そうでもなければ、この異常極まりない状況に説明がつかない。


 突如、腹の奥から生温かいなにかが込み上げ、荒れた呼吸を続ける口からこぼれ出そうになったところをすんでのところで飲み下した。往復した喉に不快な酸っぱさが残り、堪らず顔をしかめる。


「——やあ、おはよう。気分はどうだい?」


 どこからともなく差し向けられた声が、静寂しじまを切り裂いた。男か女か判別のつかない、中性的なハスキーボイス。

 声の先を辿ろうと髪を振り乱しながら上げた顔は、けれど方々ほうぼうを見回さずにただ真直ぐを見つめたまま固定された。正確には、いつからそこにったのか知れない、虚空に浮かぶ深紅の双眸を。


 瞳以外の体の部位は見当たらない。まるで闇と同化しているかのように体の輪郭を持たない人間らしきものが、数歩先に存在している。


「はは、なにが起きているのか理解できない、って顔だね。まあ無理もないさ。なんたってきみは、つい先ほどまで審判所ユーディキウムにいたはずなんだからね」


 愉快だと言わんばかりに、深紅の瞳が細まって弧をえがく。

 審判所ユーディキウム——そうだ、間違いない。確かにそこにいた。そこで、審判者と対話をしていた最中だったはずだ。

 それなのに、なぜ。なぜ、こんなわけのわからない場所にいるというのか。


 ここはいったいどこなんだ、お前はいったい何者なんだ、と。不可解な現状に対する苛立ちを込めて問いただそうと震わせた喉は、その意に反して音を成さない気息だけを吐き出した。そんな馬鹿なと再び発声を試みるも、唇からは血を吐くような掠れた音しか転がり落ちずにはくはくとくうを食む。


 どうやら、深紅の目にはこちらの姿が見えているらしい。無意味な足掻きが滑稽でたまらないというふうな、微風そよかぜに吹かれて鳴る葉擦れのような笑声が嫌味ったらしく鼓膜を刺してくる。

 忙しなく開閉を繰り返していた口から、ぎり、と鈍い音がこぼれ落ちる。あまりの屈辱に噛み締めた奥歯が憤怒を押し留める代償に痛みを走らせた。


 ここがどこであろうが、眼前に佇む人間が誰であろうが、もうどうだっていい。今すぐにでも、四つ足で這いつくばっている恰好から両の足で強く地面を蹴りつけて、その喉首を噛み千切ってやりたい。酸素が欠乏して焦点が合わなくなったその憎々しい赤目を見下ろして、ざまあみろと高笑いしてやりたい。

 ごうと唸りを上げながら燃え上がる復讐心は、けれど意思に反して全身をろくに動かせないまま燃えかすだけを残して鎮火していくばかりだった。

 やがて、人影の笑い声はぴたりと止んだ。


「最高審判官の名に基づき、判決を告げる。……と言っても、こんなところにいる時点でお察しかとも思うけれど」


 嘲笑の色を帯びていた声音から一変、機械音声を連想とさせる抑揚の乏しい声で人影が切り出す。

 次の時、祝福を贈る言葉と共に下された裁きに断頭台ギロチンの如く首を刎ねられたような錯覚に陥った。


「おめでとう。きみは今日から奈落行きだ」


 奈落にとされる。それは、この国において最も重い刑罰である。

 死刑制度に代わる、死と同義の罰。銃殺、絞殺、毒殺、斬首——数多存在する死刑執行手段をも凌ぐ、極刑。


 生かされているだけまだ温情がある、などと考えてはならない。奈落の底で待ち受けている贖罪は自死か、もしくは他の罪人が生きながらえるためのにえとなるか、はたまたその逆か、いずれかを自分の意思で決定しなければならない。まさに地獄そのものだ。


 黒一色だった視界が、一瞬にして赤に塗り潰された。絶望よりも先に理性を支配した激しい怒りが喉から迸る。先ほどから長らく酷使を続けていた声帯はとうとう限界を迎え、呼吸もままならなくなるほどに咳き込んだ。


 それでもひたすらに、声にならない声を張り上げる。——なぜ! どうして! いったい私がなんの罪を犯したというのだ!


「なぜ、と訊かれてもね。私はただ、きみの罪状をもとに決定したにすぎない。判決に異議があるのなら、自分の犯した罪に非違がないか振り返ってみればいいんじゃないか。——奈落に堕ちたあとで、ね」


 突如、ぱちん! という軽快な短音が眼前で鳴らされたことを契機に、頭の中心から強烈な眠気が噴き出された。ベッドのなかで自然と眠りに落ちるのを待つ心地の良い眠気とは比較にもならない、強制的で抗いようのない睡眠へのいざない。


 ここで眠りについてしまえば、抵抗する間もなく奈落に落とされてしまう。着実に脳を侵蝕していく睡魔を振りほどこうと、首を前後左右に振り乱し、首筋を爪で引っ掻いて必死に抵抗する。三半規管に急激な負荷がかかったことで嘔気が胸底から押し寄せ、爪先に皮膚を引き裂く不快な感触が走ろうが、一心不乱に動き続ける。

 奈落に堕とされたくない——否、死にたくない。ただその一心だった。


 文字どおり死に物狂いで暴れ回るこちらの胸中を知るよしもない人影は、ああそうだ、とふと思い出したように開口した。


「奈落に堕ちたら、まずは換金屋コムタティオを目指すといいよ。あそこに行けば奈落で生き抜くためのすべを教えてくれる人間がいるから。……私の知人なんだ」


 僅かに聞き拾えた言葉の語尾だけが、かどが削げ落ちた柔らかな響きを伴っていた。我が子をかいなに抱く母親のような慈愛に満ちた声色は、冷酷無比に判決を下したこの人影の本質を体現していると、直感的にそう思った。しかしその性根が自分に向けられることはない。

 社会という名の巨大な機械に組み込まれたひとつの歯車のように、太陽が沈めば月が訪れる世界のことわりのように、極めて機械的に法に基づいて判決を下す。それが審判官という存在である。


 眠気がさらに強さを増す。まばたきの間隔は次第に遅くなり、あらゆる感覚が遠ざかっていく。力が入らなくなった腕が重力に従ってだらりと落下し、地面に触れた爪が小さな音を立てた。仰向けに倒れたのだと自覚したのは、背中と後頭部に走った衝撃が消える寸前だった。


「それじゃあ、いってらっしゃい。ついでに、あの子達にもよろしく言っておいてくれると嬉しいよ」


 依然として暗闇で、顔のパーツの位置も体の輪郭もわからないままだったけれど。その人影が満面の笑みを貼りつけて手を振りながら見送りをしていることだけは、実際に目の当たりにせずともいやに理解できた。


 ああ神よ、と。薄れゆく意識のなか、音を成せないままの喉を懸命に震わせて吐息を紡ぐ。




 奈落の底に辿り着いたその時は、真っ先にあなた様へ中指を立てて差し上げましょう。

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