第3部 砂糖
紳士は椅子から立ち上がり、一度大きく伸びをした。掌を組んで腕を伸ばしたまま身体を左右に揺する。そうすると、やはり喫茶店ごと空間も左右に揺れた。私はというと、すでに彼に半分ほど飲まれてしまっていたので、ソーサーから溢れそうな気配はもうなかった。
「飲むなと言ったじゃないか」私は愚痴を零した。
「そうだったかなあ」紳士は上着のしわを直す。「しかし、私は金銭の代わりに情報を提供したからねえ。そこのところ、もう少し考えてくれてもいいのではないかな」
「お前が勝手に話したんだろう」
体操が終わると、紳士はステッキを地面につきながら、店の出入り口へ向かっていく。階段を上り、ドアの把手に手をかけようとした。
「どこに行くつもりだ」
彼が把手に触れる前に私は言った。ついでに、魔法を使って、ドアに鍵をかけておいた。
紳士はこちらを振り向く。
「決まっているじゃないか」紳士はいつにも増して鋭い目でこちらを見る。「我々のターゲットを捕えに行くんだよ」
「なぜ?」
「ターゲットだからだよ」
彼の言葉を聞いて、私はやれやれという体で首を振る。実際には首などないから、やれやれと口で言っただけだ。
「それなら、私も連れていけ」
紳士は振り向きかけていた身体を完全にこちらに向ける。片方の眉を持ち上げて、訝しそうな顔をした。
「なぜだい?」
「私の店を滅茶苦茶にした張本人だからな」
「君の店? マスターの店だろう?」
「マスターなど、最初からいないのだ」
「いない? どういう意味だ?」
「ドクターしかいない」
沈黙。
同じ表情のまま固まっていた紳士だったが、突然、口をすぼめたかと思うと、飛沫を飛ばしながら声を上げて笑い始めた。笑い声が室内に木霊する。それと同時に、店そのものが上下に浮き沈みした。
「面白い冗談だなあ」腹を抱えながら姿勢を戻し、紳士は言った。目の端に涙を浮かべている。
「だろう?」
「それで? 連れていけと言ったって、どう連れていかれるつもりだ? まさか、お前さんが入ったそのソーサーごと、持っていけと言うわけではあるまいなあ」
「まさか」私は言ってやった。「そんなわけがない」
「では、どうやって?」
私は再びやれやれという態度で首を振る、いや、その素振りはできないから、口で言う。
「簡単なことさ」私は答えた。「残りの私もお前に飲んでもらうんだよ」
*
紳士の胃の中を暫くの間住処とすることにし、私は彼と旅に出た。喫茶店の外に出たのは初めてだった。そして、人様の胃の中に滞在することも。
いや、そうだっただろうか? 私は今は紅茶だが、その前はもっと別の存在だったようにも思う。そうだ。紅茶になる前、私は茶葉であり、水だった。そのもっとずっと前は、また別の何かだったのではないか。そうなると、姿形は違えど、やはりもとは喫茶店の外にいたはずだ。
「何を感傷に浸っているんだい?」
胃の中にいるせいで、空気ではなく彼の身体が直に振動して生じた声が、なんとも奇妙な具合に聞こえた。なるほど、どこから見るか、どこから聞くかによって、見え方も聞こえ方も変わるようだ。きっと、私自身の姿が変わることでも、見え方というのは変わるだろう。
「感傷になど浸ってはいない」
胃の中、頭上に見える食道に向かって、私は答える。そうすると、私の声が彼の口から出ていくようで、傍から見れば、彼が一人で話しているように見えるだろうと私は想像した。
「外に出たのはいつ振りなのかな?」紳士が尋ねた。
「私が考えていることが分かるのか?」
「君は今や私の一部だからね」紳士は愉快そうに笑う。「君にだって、同じことがいえるんだよ。つまり、君は今私の一部だ。そんな暗いところで面白くもない胃壁など見ていないで、もっと周りに目を向けてみるといいんじゃないかな」
なるほど、たしかにそのとおりだと思い、私は彼の視点を拝借することにした。
最初に見えたのは、光ではなく、闇だった。
闇という名の無を何よりも最初に認識する。
それは認識できるものなのだ。
次いで、光が。
そして、音が。
外の世界はちょうど夜のようで、空気の中に点々とした光が浮遊していた。それは星によるものではない。もっと明確で、的確で、正確だった。要するに、人工的に作られたものだ。
「ネオンか」私は言った。いや、声は完全に彼のものになっていたから、私が言ったのではないかもしれない。「久し振りに見たものだ。見たことがあるのか? 以前、あの喫茶店にもあったんだ。店内にも、店外にも、ピンクや、黄緑や、水色のそれが飾られていた。そうやって存在を主張していたんだ。では、なぜ今はあんなに寂れているんだい? マスターが死んだからさ。そうか。それで、ドクターしかいないんだな。本当はドクターもいやしない。いるのは君だけかい? 可哀相に。いや、今はお前がいる」
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