第2部 牛乳

 先ほどまでシルエットの彼が座っていた席に、紳士は座った。椅子はいつの間にか再生している。まるで、一連の不祥事などなかったかのようだ。しかし、シルエットの彼に注文された私はそのまま残っているし、カップとソーサーに分かれたままだ。紳士は毛むくじゃらの口をソーサーの縁に当てがい、私を吸い込もうと試みたが、私の必死の抵抗のもと、何とか阻止することができた。


「なんだいなんだい。客人をもてなす気がないのかなあ?」紳士は言った。「喉が渇いて仕様がないんだ。何か頼むよ、マスター」


「私はマスターじゃない」私は話す。「そんな奴、はなからここにはいないんだ」


「では、君を飲ませていただこう」


 そう言って、紳士はまた私に口を近づける。今度は鼻息を思いきり吹きかけられ、ソーサーに滞留している私の体表面に細波が生じた。


「ややめめろろとと言言っっててるるんんだだ!!

 ややめめろろとと言言っっててるるんんだだ!!」


 私が大声を出すと、さすがに紳士も顔を顰め、ソーサーから顔を離した。想像以上に煩かったのか、彼の耳は餃子のように閉じられてしまった。頭蓋の中の脳みそが逆流し、具として耳たぶに包まれているかもしれない。


「飲み物なのに飲むなとは、一体どういうつもりなんだい?」


「たしかに私は飲み物だが、お高い飲み物なんだ。そう気安く飲まれては困る」


「どういう意味かさっぱり分からないねえ」


「分からなくて結構」私は言った。「第一、ほかの客が飲み零したものを飲もうなど、よくできるものだ」


「ほかの客とは?」紳士は小さく首を傾げる。僅かに十五度ほどだった。


「さっきまでいたのさ、変な奴がね」私は話した。「姿形があるのかないのか、どうにも奇妙な奴だった」


 私がそう言うと、紳士は興味深そうに目を細めた。カウンターの縁に引っかけてあったステッキを手に取り、それでもう片方の掌を打ち始める。


「ひょっとして、そいつはシルエットではなかったかな?」と紳士は言った。


「何? シルエット?」私は応じる。「ああ、そうだとも。不定形であるというのに、私の声に驚いて、一丁前に物音を立てながら転がっていったさ。もしかすると、質量を持っていたのかもしれないな」


「そうか……」紳士はどこか遠い目をする。「もしかすると、そいつは我々のターゲットかもしれないねえ」


「何? ターゲット?」


「シルエットも、ターゲットも、尻尾は同じだからね」紳士は話した。「その共通項をもって、我々のターゲットとしても良さそうだな」


「お前、何者だ?」私は尋ねた。


「さっきも言っていたねえ、それ」そう言って、紳士はにやりと笑う。「大した者じゃあないんだよ。そんなに警戒しなくても、大丈夫だからさ」


「名を名乗れ」


「名乗れ、だけでいいんじゃないかな」


「いいから」


「何が?」


「早く」


 私がそう言うと、仕様がないなと言って、紳士はカウンターの上で両手を組む。軽く喉を鳴らしてから、彼は口を開いた。


「私は、エキスパートだ」紳士は言った。


「何? エキスパート? 何の?」


「関係を見出すことの」


「関係?」


「つまり、発明家なんだ」


「だから、何の?」


「関係を見出すことの」


「関係?」


「すなわち、エキスパートだ」


「何の?」


 ふうう、と紳士はわざとらしく溜め息を漏らす。下を向いて頭をゆらゆらと揺らし、片方の手を上げて人差し指も同じように左右に振った。


 突然、喫茶店の店内が揺れ動き出す。天井から吊された照明器具が左右へ揺れた。私はソーサーから溢れてしまいそうになり、再び彼に向かってやめろと大声で叫ぶ。


「だから言っただろう?」片目だけ開けて、紳士は言った。「私はエキスパートなんだよ」


「何のだよ」


「関係を見出すことのだって」そう言って、紳士は自分の人差し指をこちらに突き出す。「今、私が指を振ったから、この部屋も揺れたんだ」


 何を言っているのか分からなかったが、とりあえず、危ない奴であることだけは分かった。今自分で言ったことを本当だと思っているのならもちろん危ないし、本当にこの部屋を揺らすだけの力を持っているのだとすれば、それも危ない。


「その、ついさっきまでこの喫茶店で紅茶を飲んでいたというシルエット君は、我々が探しているターゲットに違いない。奴は、すでに人を犠牲にしている。そして、奴は姿を眩ます力を持っている。好きなときに実体化し、好きなときに種体化する」


「種体化?」


「実体化の反対だよ」


「それで?」私は言ってやった。「本当にそいつで合ってるのか?」


「間違いないだろう」紳士は頷く。「何せ、この私が言っているのだからねえ」

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