珈琲

彼方灯火

第1部 紅茶

 正体不明のシルエットが、喫茶店のカウンターに座って紅茶を啜っている。そのシルエットは明らかに人の形をしていたが、本当に人であるのか不明だった。自分が人ではないことを証明するかのように、つまりは、紅茶の飲み方など知らないかのように、彼はカップの縁に口をつけてぶくぶくとやるだけで、要するに、啜る動きの始めのところをやるだけで、液体を喉に通すことはしなかった。


 喫茶店の中にはほかに誰の姿も見当たらない。天井の隅に巣を作る蜘蛛、あるいは、床の端に穴を掘る鼠くらいはいるかもしれない。しかし、人もいなければ、彼と同じようなシルエットも存在しなかった。誰が彼に紅茶を提供したのかも分からない。


 彼は、カップを持って紅茶をぶくぶくとやり、カップをソーサーに戻す、その動作をこれでもかというほどに繰り返している。繰り返す動作を繰り返しているとも思えるほどだった。傍から見たら、壊れたロボットか何かと思われるに違いない。それとも、ほかの者には彼の姿など見えないのだろうか。


 ところで、私の正体についていえば、私は彼が啜っている、その紅茶だ。シルエットの彼以外に誰もいないという状況から、容易に想像のつくことと思われるが。


 私は液体だから、自身の全体量が頻繁に変わる。また、形も変わる。シルエットの彼は、たしかにぶくぶくとやっているだけだが、それでも飛沫は確実に宙に舞う。それで、量は変わるし形も変わる。まったく、困っちゃうなあという感じではあるが、困ったところでどうにもならない。そんな自分に困ってしまうことがあるのは確かだが。


 そこで私は、思いきって彼に声をかけてみることにした。


「おい、そこのお前」私は言った。


 カップをソーサーから持ち上げ、またソーサーに戻して、を繰り返していた彼は、私の言葉に驚いたようで、そこで初めて白い目を開いた。黒い体に真っ白な目が光る。光るというよりは、顔に穴が空いているみたいで、その先は異次元に繋がっていること間違いないものと思われた。


 彼はカップをソーサーに落ち着け、辺りをきょろきょろと見回す。


「こっちだ、こっち」私は声を張り上げて言った。「お前のすぐ目の前にいる、この私だ」


 シルエットの彼は声の発信源にようやく気がついたようで、たった今開花したばかりの目を一層大きく開き、カップの中を覗き込んだ。そこで、私も目を開いてやった。彼のものとは対照的な、ぱっちり眉毛の瞳の大きな綺麗な目だ。


 目が合うなり、彼はびっくり仰天したようで、本来傾くはずのないカウンターの椅子を盛大にひっくり返しながら後ろに倒れ込んだ。


 ぐわしゃんと音がする。


 何をしているんだ、と私が言うと、彼はカウンターの縁を掴んで立ち上がった。倒れた椅子をもとに戻し、私に視線を固定したまま、椅子の上に静かに座り直す。


「随分と派手なことをする奴だ」私は構わず言ってやった。「衝撃で、私の量がまた減ってしまったではないか」


 私の言葉を聞いて、彼は右に一度首を傾ける。と、腕を伸ばしてカップの持ち手に指を通し、そのままカップを傾け、ソーサーの上に私の中身を流し始めたではないか。


「何何ををすするる!!

 何何ををすするる!!」私は大声を出した。


 声に驚き、彼は再び後ろへと転げ落ちる。今度は椅子の脚がカウンターの裏に接触し、反発力が格段に大きくなって、椅子は後方の壁に向かって回転しながら飛んでいってしまった。彼の方はというと、幾度か床の上でバウンドしながら、椅子と同じように後方へと転がっていく。仕舞いには、中空に舞い上がった椅子がそのまま彼の顔面に落下し、衝撃を受けて、シルエットの彼は像ごと空間から消えてしまった。


「まったく」私はソーサーの上で呟いた。


 カップに残っている分と、ソーサーに流された分とで、私は二つに分かれてしまった。なんということだろう。信じられないとしか言いようがない。こんなことになるなんて、まったく想像もしなかった。以前、ミルクを注がれたことで濃度が二分の一になってしまった友人を笑ったことがあるが、こちらの方が洒落にならないのではないか。


 店の扉が開く音がする。


 鐘の音色。


 私と、もう半分の私は、同時にそちらに視線を向ける。


 扉が開いて、一人の紳士が入ってくるところだった。


「やあやあ、これはこれは」二度で一度の挨拶を言って、紳士が店内に入ってきた。扉はちょっとした階段の上にある。彼は杖をつきながらステップを下りてきた。「どうもどうも」


「何だ、お前は」私は尋ねる。


「何だとは、またまた」紳士は歩いてこちらにやって来た。「随分と粗末なもてなしだねえ」


「名を名乗れ」


「名乗れ、だけでいいんじゃないのかい?」


「誰だ」


 私がそう言うと、紳士は被っていたシルクハットを丁寧な仕草で外し、それを胸もとに持ってきて、軽く頭を下げた。


 そのまま十三秒ほど静止。


「待て」私は言った。「まさか、その年で白髪の一つも生えていやしないというのか?」


「そのとおり」そう言って紳士は顔を上げる。「これで分かっただろう?」


「何がだ?」


「私のポリシーがだよ」紳士は笑った。「それでは、美味しい紅茶でもいただこうかな」

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