宇宙と円周率

あべせい

宇宙と円周率



「チーズカツカレーにミニトマトオムレツ、シーザーツナサラダ、それに、半トロチーズハンバーグ新ジャガバター添え、エビタマスープに、ふわとろティラミス、生シューモンブラン、あとはドリンクバー2つ、お願いします」

「はい」

 ウエイトレスはそう言うと、会釈して立ち去る。

「本当だわ。あのウエイトレス、復唱もしないで行った。雄太、こんな情報、どこで仕入れてきたの?」

「このファミレス、いま彼女で話題になっているンだ。我々の場合は2人だけど、お客が何人きても、オーダーはすべて暗記して、1つも間違えずに料理を提供する、って」

「でも、雄太。いまはその場で端末にオーダーを入力していけばいいンだから、覚える必要ないでしょう」

「そうなンだけれど、その端末が故障したことがあったらしい。そのとき、他のウエイトレスはペンで紙に書きとっていたンだけれど、彼女だけは全部覚えてキッチンに正確にオーダーして店長をうならせた。以来、彼女は客席で端末を操作しないで、お客から見えないところで端末に入力して注文しているそうだ」

「記憶力がいいのね。わたしは、ダメ。いまだにクラスの人たちの名前すら覚えられない」

「彼女のすごいのは、それだけじゃない。一度来店したお客の顔と時刻、注文内容を全部覚えていて、2度目に来ると『またのご来店、ありがとうございます』と言ってくれるそうだ」

「へエー、そんな人がいるんだ。そんなに記憶力がいいンだったら、お客のこと、もっといろいろ覚えているでしょうね」

「そりゃ、そうだろうけれど……。百合さん、何考えているの?」

「わたし、彼女に、前に会ったことがあるの」

「彼女って、いまのウエイトレス?」

「そう。だけど、思い出せなくて」

「キャンパスか、自宅周辺か。それとも、外出先、例えば……役所、銀行、デパート、スーパー、コンビニ……」

「そうか。タクシーよ!」

「どうしたの。急に大声出して」

「1週間ほど前、父に急なお使いを頼まれ、キャンパスに呼んだタクシーの運転手が、彼女だったわ。あのときもすごいと思ったけれど……」

「間違いない? タクシー運転手なら、いまと服装が違うじゃない。よく見て」

「名前が同じ。タクシーのネームプレートには、いま彼女の胸についている『街矢拓子』と、同じ名前があったもの」

「彼女、仕事を掛け持ちしているンだな。どうして、そんなに働くンだろう」

「そのタクシーの中で、おもしろいことがあったの」

「?」

「彼女、運転しながら、口の中でぶつぶつ独り言を言っていたの」

「なに?」

「耳をすませて聞いていると、数字なの。一見、意味不明の数字……」

「一見ということは、本当は意味があった?」

「そう。円周率なの。彼女、円周率の小数点以下、1万ケタまで暗記しようとしているですって」

「聞いたことがある。円周率は現在、小数点以下、10兆ケタまでわかっている」

「彼女もそう言っていた。いままでのギネス記録は、小数点以下、10万ケタまで記憶したのが最高なンですって。信じられない話だけれど、3点1415、9265、3589、…………」

「待って、百合さん。キミまで円周率にとりつかれたみたいだよ」

「彼女にどうして円周率を覚えようという気持ちになったのか、聞いてみたの」

「そうしたら?」

「円周率を暗唱していると、不思議な気持ちになるンですって」

「不思議な気持ちって?」

「わたしも、それを聞いたンだけれど、『わたしには、いざというとき、役に立つ数字なンです』と言うだけで、あとははぐらかされちゃった」

「いざというときか。ぼくには信じられない。あんな数字の羅列をそらんじると、何かの役に立つって」

「雄太。円周率って不思議よ。タクシーに乗っている間、彼女とも話したのだけれど、円や球体は、円周率に支配されている」

「支配って、大げさじゃないか」

「でも、円の面積は、半径rの2乗に円周率、すなわちπ(パイ)をかけるでしょう。円周は2πr、球の表面積はrの2乗に4πをかけ、球の体積はrの3乗に3分の4πを掛けて求めることができる。これって、広大な宇宙の法則が根本にあるからでしょう」

「難しいなァ。でも、どうして、記憶力のよさが、宇宙に飛び火するンだ」

「彼女、街矢拓子さんは、円周率を覚えていくうちに、宇宙の神秘に気付かされた、って」

「円周率の数字は、無理数といって、なんの法則性もなく、アトランダムにどこまでも続いていく。確かに、どこまでも、果てしなく広がる宇宙に似ている……」

「そうでしょう。雄太、宇宙のこと詳しい?」

「いや。宇宙が誕生して、150億年になるってことぐらい」

「宇宙って、わたしたちはその中にいるのに、ふだん意識することがほとんどないでしょう」

「まァ、そうだけれど。百合さん、きょうはちょっとヘンだよ」

「地球って、宇宙の一部でしょう」

「そうだけど……」

「ということは、人間も宇宙の一部といえるじゃない。とすると、人間の法則は宇宙の法則に通じる……」

「人間の法則って、例えば……」

「人間社会にはいろいろ、常識とされる原理原則があるでしょう。例えば、他人の物を盗ンではいけないといった五戒や、欲得抜きでかわされる親子の情愛……」

「愛する女性に猛烈に奉仕したくなる感情もだよ。いまのぼくがそれ」

 百合は無視して続ける。

「反対に、他人を支配したくなる感情。権力者が国民を働かせ、富をほしいままにしたり、女性が言い寄る男性を自分の好きなように操作するのも支配欲。わたし、いまこの支配欲にはまっているの」

「支配欲って、他人を支配する欲望だろう。だれにだってあるとは限らない……」

「そォ? 支配欲は人間の第4の本能でもあるわ」

「人間の本能って、食欲、物欲と性欲……、それに支配欲、があるっていうの?」

「人はだれでも他人を支配したがり、また人に支配されたがるものなの。そう、思わない」

「それが宇宙の法則からきている、って?」

「地球が太陽の周りを回っているのは、太陽に支配されているからといえない? 地球と月の関係も同じ。もし雄太がわたしに、あれを取ってと頼んでわたしが断らなかったら、その瞬間、雄太はわたしを支配し、わたしは雄太に支配されたといえる。指示や命令は、支配欲が現れる最もわかりやすい形ね。映画や本に感動したとすれば、それは一時的にせよ、人は映画や本に感情を支配されたといえるでしょう」

「映画の製作者や出演者が観客を支配、本の作者が読者を支配した、ということか」

「そうなのよ。ある人が、人前で目立ちたいというのは、支配欲の表れなのよ」

「だとすると、犯罪は支配欲の誤ったはけ口だな」

「犯罪は、他人を支配する意味で、最も困った事象ね」

「でも、百合さん。支配欲と彼女の円周率とどう、結びつくの?」

「彼女はいま円周率に支配されているわ。無限に続く宇宙神秘の数字に……」

「どういうこと?」

「人はあるものに支配されると、それと同じ程度にそのものを支配したくなるものよ。そうでないと、人は心のバランスが保てない」

「ぼくの心はいま百合さんに支配されているけれど。支配されているものと同じ程度に、そのものを支配したくなる、って、どういうこと?」

「何言ってるの。あなたは、わたしをここに誘って、いまこうしてわたしの時間を支配しているじゃない」

「そォか。ぼくも百合さんを支配しているのか。ということは、彼女、街矢さんも、宇宙に支配されているいま、同じ程度に宇宙を支配したがっている……」

「そォ……危険だわ」

「でも、宇宙なんか、支配できるわけがない……」

「彼女、宇宙に関係するものなら、迷わず受け入れる……」

「彼女、料理を持ってきたよ」

 百合は時計を見て、

「すごいッ!」

「どうしたの?」

「13分、ぴったり」

「?」

「このファミレスチェーンでは、料理は注文を受けてから13分以内に出すのが決まりになっている。ファミレスの経営者が従業員を支配している例の1つね」

「詳しいンだ」

「前にバイトしていたことがあるから」

「百合さんでも、バイトをするンだ」

 ウエイトレスの街矢拓子が来て、

「お待たせしました」

 拓子、テーブルに料理を並び終え、

「どうぞ、ごゆっくりお過ごしください」

「ありがとう」

 拓子が、行きかけると、

「街矢さん、ちょっと、待ってくださらない」

「はい、何か?」

「わたし、カレといまあなたのことで議論していたの」

「はァ?」

「あなたの記憶力がいいのは、遺伝なのか、努力なのか、って」

「失礼ですが、お客さまは、3日前、わたしのタクシーにお乗りになられた方でしょう?」

「エッ!? はッ、はい」

「知多教授のお嬢さんですね」

「どうして、そのことを?」

「わたし、あと10分でこの仕事が終わります。できましたら、ここでしばらく、お待ちいただけませんか。お食事を終えられた頃、お迎えにあがります」

「雄太、どう?」

「おもしろそう。百合さんさえよければ」

「それじゃ、待たせていただきます」

「では、のちほど……」

 30分後、百合たちのいるテーブルの窓越しに、車のクラクションが鳴った。

「アッ、百合さん」

 雄太、窓の外を促す。

 ファミレスの駐車場にタクシーがハザードランプを点けて待機している。

「雄太、行きましょう」


 2人、勘定をすませて外へ。

 タクシーは2人を乗せ、出発する。

「お嬢さん、これ……」

 拓子が運転しながら肩越しに小さな紙切れを示す。

 百合、受け取って、

「これ、父の名刺です」

 雄太、横から覗き、

「見せて。東都大学文学部仏文科教授知多香震……」

「それ、先日、このタクシーをご利用になったとき、シートに落ちていました」

「そうだったンですか。ありがとうございます」

「お届けしようか迷ったンですが、ファミレスによく来られるし、そのときお渡ししようかと……」

「父に頼まれて書類を届けに行ったのですが、その封筒に入れてあった名刺を落としたらしいです。すいません、ご迷惑をおかけして……」

「街矢さん、百合さんが知多教授のお嬢さんだとご存知だったンですか?」

「はっきり存じ上げていたわけではありません。ファミレスに来られたとき、待ち順リストに、『チタ』とお書きになっておられたことを覚えていたものですから」

「街矢さんは、ふだんのチェックもすごいンだ」

「お父さまが東都大学でフランス文学の教授をなさっていたことは存じませんでした」

「それで、これからどこへ?」

「わたし、宇宙のことが好きで、それでフランスの小説家、ジュール・ベルヌの作品を何点か読んだとき、宇宙にロケットを飛ばす話に釘付けになったことがあって……」

「ジュール・ベルヌは、名前は知っているけれど、どんな作家か、知らない。ぼくは、バルザックのほうが……」

「雄太、なに言ってンの。仏文をやっていて、ジュール・ベルヌを知らないなんて、恥ずかしい。19世紀を代表するフランスの有名なSF冒険作家よ。SF小説の父ともいわれているわ。こんど全集を貸してあげる。彼の作品を原作に、ハリウッドでは「80日間世界一周」や「海底2万哩」が映画化されている。街矢さんのおっしゃっているロケットの話は、確か……」

「邦題は『月世界へ行く』です。砲弾の中に人が入って、大砲を月に向けてその砲弾を発射するというストーリーです」

「すごい、発想だ。砲弾をいまのロケットに置きかえると、アメリカのアポロ計画と似ている」

「その通りよ。ベルヌは、アポロ11号のアームストロング船長が月面に着陸した、そのちょうど百年前に、それを予言するような小説を書いていたの」

「そうだったのか。こんど読んでみるよ。それで、街矢さんは宇宙旅行でも考えているンですか?」

「ハイッ!」

「エッ!?」

「冗談でしょう?」

 タクシーが急停止する。

「いいえ、本気です。民間会社の宇宙旅行では数分で5千万円以上はかかるといいますから、わたしの収入では出来ません。しかし、疑似体験なら……」

「疑似体験!? 街矢さん、どんな疑似体験ですか?」

「ぼくも仲間に加えて欲しくなった」

「無重力体験なら、肉体的な訓練が必要だけれど、簡単にできると聞いたことがあるわ」

「わたしは、肉体的にはこれ以上、体を痛めつけたくないンです。ダブルワークで、クタクタですから」

「そりゃそうだ」

「わたしが考えたのは、宇宙と一体化すること……」

「宇宙と一体化する、って。百合さん、わかる?」

「ううン」

「お2人に、お願いがあります。しばらくこれをつけていただけませんか」

 拓子、百合と雄太にアイマスクを差し出す。

「目隠し、ですか」

「見てはいけないものが、これから始まる?」

「準備はもうできています。これから、わたしと一緒に、宇宙の疑似体験をしていただきます。それには、少し目を閉じていただいたほうが、より効果的だと思うものですから」

「わかったわ。雄太、宇宙体験しようじゃないの!」

「百合さんがそういうのなら……」

 2人はアイマスクをつけ、シートベルトを締めて深く座りなおす。

 タクシーは急発進すると、スピードをあげた。

 百合と雄太は不安げに押し黙っている。

「まもなくです。少し、揺れますよ。5、4、3、2……」

 タクシーは大きくジャンプして、地上から離れた。

「マスクを外して、窓の外を見てください」

 2人は、アイマスクを外す。

「アッー、飛んでいる。空を飛んでいる。百合さん!」

「これって、なに!? 車が空を飛ぶなんて。映画みたい!」

「これ、映画の撮影です」

「エッ!?」

「まさかッ!」

「映画といっても、わたしを含めて5人で作っているビデオ作品です」

 窓の外では、若いスタッフが走り回っている。

「ここはオープンセットのなかです。空を飛んでいるといっても、いまは台の上に乗っているだけです。あとで空のシーンと合成します。すいません。騙すようなことをして……」

「街矢さんは、ダブルワークのうえに、監督業までやっているンですか!」

「これは趣味。仕事ではありません。ジュール・ベルヌは砲弾に人を乗せて月に行かせましたが、わたしは、車に乗ったまま月に行けたら楽しいなと思って始めた映画です」

「車で月世界へ行くンだ!」

「車は編集段階でCG加工して、ロケットらしく変形させます」

「おもしろいわ。街矢さん、ダブルワークは宇宙に挑戦する資金稼ぎだったンですね」

 スタッフが窓の外に駆け寄ってくる。

「監督!」

「なに?」

「バッチリです」

「そう、じゃ、あとは吊り下げて……」

「吊り下げ!?」

「車を吊り下げ、車が月に向かって飛び、月面に軟着陸するまでのシーンに移ります」

「これも合成するのね。おもしろそう」

「そうかなァ。ぼくは怖い」

 オープンセットがばらされ、巨大なクレーンでタクシーが吊り下げられていく。

「オッケーよ。じゃ、カメラを回して!」

 助監督の声が、

「本番いきまーす!」

 そのとき、衝撃とともにクレーンが停止。

「街矢さん、どうしたンですか!」

「何かがぶつかったみたい」

 車はすでに地上30メートルまで持ち上げられている。

「わかった、あれよ!」

「百合さん、どうしたの」

「隕石、隕石がぶつかってきたのよ」

「お嬢さん、さすがです。察しが早い。この車はいま隕石群のなかを飛行しています」

「街矢さん、このあとぼくたちはどうなるンですか」

「来月には完成させますから、この映画をみてください」

「そんなァ」

「雄太、冗談に決まっているでしょ」

 そのとき、再び車が大きく揺れる。

「キャーッ!」

「百合さん、大丈夫? ぼくはもう、失神寸前だけれど……」

「これから車は、隕石群を通過して、月面に向かいます。これからもっともっと、揺れますよ」

「街矢さんは怖くないのですか。こんな思いまでして、どうして宇宙にこだわるのか、ぼくにはわからない」

「わたしたちは無限の宇宙のなかで生まれたのですよ。宇宙の一部として、母なる宇宙に興味を抱くのは至極当たり前のことでしょう」

「宇宙はぼくたちの母ですか。母が、こどもをこんなひどい目に遭わせるなんて」

「隕石群は、母からの試練です」

「街矢さんの宇宙へのとっかかりは、円周率だと聞きました」

「円周率は宇宙の神秘を解き明かす入口の1つです。円周率のナゾがわかれば、宇宙の成り立ちもわかります。わたしは、宇宙の神秘にチャレンジしたいのです」

 車が、ガクッと跳ねる。

「アッ!」

「百合さん、この車はゆっくりだけど、落ちているーッ!」

「車を吊り下げているワイヤーが1本、切れたみたいです……」

「そんなァ! 街矢さん、ぼくたち、どうなるンですか!」

「これは軟着陸よ。月面に降りるのよ。そうでしょう。街矢さん!」

「そォです。みなさん、落ち着いてください。車はゆっくりゆっくり下降しているだけです」

「そんなこといっても、街矢さんの声だって、うわずっている」

「わたしは、平気。これは予定通りのアクシデントですから。ワイヤーは1本づつ切れていくンです。けれど、予定より少し速いみたい……とにかく、月面までのカウントダウンをします。宇宙に支配されているわたしが、これくらいことで冷静さをなくすわけがないッ。平気、平気……20、19、18、17、

……」

「月面カウントダウンで、もし失敗したら?」

「下には、厚さ1メートルの最新の衝撃吸収マットが敷いてありますから、大丈夫の、はず……」

「はず、だなんて!……」

「10、9、8、7……」

「雄太、潔く覚悟しましょう」

「百合さん、そんな度胸、どこからくるンだよ。ぼくはもう、心臓が破裂しそうダ」

「5.4.3! 点……」

「どうしたの。街矢さん」

「大切なことを忘れていました。1415、9265、3589、7932、3846、2643、3832.7950、2884、1971、6939、……」

「街矢さん、それ円周率でしょう。こんなとき、どうして円周率の暗唱が必要なんですか」

「いまが、いざというとき……」

「いざというときって、円周率が役に立つ?」

「はい。これを言っていると、どんなときでも、気持ちが落ち着くンです」

               (了)

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宇宙と円周率 あべせい @abesei

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