第59話 稽古

「あぁっ、全然駄目だわ!」

美園はしっくりこない表情を浮かべながら言った


ここはグレイスビルの稽古場だ。

フロアを専有した広い空間で、壁を覆うほどの鏡が備え付けられている。


神代と美園は映画『ユニコーン』の稽古に取り組んでいる。

作中では登場人物が徐々に増えていくが、二人が演じる的場役と沢木役は最初から登場しているため、二人が出演している場面が最も多い。


稽古場には、オフィスのシーンに合わせて、簡易な机やラップトップPCを持ち込んでいる。

現在は、的場と沢木がサービスのプロトタイプを作り上げるシーンを演じている。

美園は神代と比べて自分の演技が劣っていることを自覚しているようだった。


「どこが悪いかわかるかしら?」

美園は柊に助言を求めた。


「えっと、演技については素人ですが、エンジニアはキーボードをタイプするときに手元を見ることはないです。

神代さんを見ていただければわかると思いますが、タッチタイピングをしながらモニターを見るようにすると、それっぽくなると思います」


翔太は演技で使うためのモック(アプリケーションを模擬したもの)を用意していた。

このモックにコマンドを入力したり、操作すると、サービスが稼働しているように見える。

臨場感を出すために、ただの振りではなく、実際に入力した内容がモックに反映される仕組みだ。


神代はCMの場面や、オーディションの経験からPCを使いこなしているが、タッチタイピングをできる俳優は稀だろう。


「私が神代さんと出会ったときには、すでにタッチタイピングを習得していたので、これからやろうとするとお時間がかかるかもしれません」

「やるわ!」


翔太の助言に美園は即座に答えた。


翔太は、美園にタッチタイピングを習得するためのアプリケーションや練習方法を伝授した。

神代が学んだ方法も気になったため、神代にも聞いてみた。


「私の場合は――」

「ふむふむ」


神代が美園にアドバイスをしている。

二人の仲は良いようで安心した。

演技に関しては素人なので、このまま神代に任せておいてよさそうだ。


***


「改めて、神代さんってすごいですね」

翔太は乏しい語彙力ながらも、神代を称賛した。


原作の的場は男性であるが、セリフを女性語にはせずに、このまま使っていた。

これにより、起業家としては若すぎる年齢の神代だが、演技では貫禄が漂っていた。


「梨花は柊さんの前だとポンコツになりがちですが、演技に関しては誰にも劣らないと思いますよ」


翔太は「そうですね」と頷いた。

比較対象がいると、素人の翔太にも神代が際立っているのがわかる。


「原作を読んだとき、沢木役で真っ先に浮かんだのが橘さんなんですよ」

「あら? そうですか」


橘は意外そうな反応をしていたが、原作の沢木は仕事ができる女性だったので、イメージにぴったりだった。


「こんな仕事のできる若者はフィクションだけだろ……と思っていたら、ここにいたわけなんですよ」

「ふふふ、おだてても何も出ませんよ?それに柊さんだって」

「俺は中身おっさんですから」


翔太と橘は、二人から離れた距離にいたため、込み入った会話をしていた。


「美園さんはどんな方なんですか?」

「運動神経がいい子なので、アクション物が多いですが演技力は問題ないですよ。

梨花と同じく努力を惜しまないので、先程のタッチタイピングも次に来るときにはできているかと」

「それは期待できそうですね」


橘が言うのであれば、そうなのだろうと思った。

役作りのために、わざわざ翔太のところまで助力を乞うくらいだ。熱意は十分にありそうだ。


「お二人は随分仲が良さそうですね。役柄上、息が合っている方が好ましいと思っていましたが」

「そうですね、女優としてのキャリアは梨花の方が長いですが、芸歴としては同じくらいです。

初めて共演したときから、意気投合したみたいです」

「あの二人がそろうと、すごく人気が出そうですね」


神代の人気はここ最近で実感させられたが、美園も人を惹きつける魅力があり、多くのファンがいるだろうと想像できた。


***


「柊さーん! この場面なんだけど」

美園と役作りをしていた神代に呼び止められた。

「――あぁ、これは的場が考えているマーケティング戦略と、沢木が実装しているシステムをすり合わせる場面なので――」

「――なるほど、じゃあこうしたらどう?――」


「あなたたち、本当に仲がいいのね」

美園は、翔太と神代の会話をぽかんと眺めながら言った。


「私は、お二人の方が仲がいいなと思ってましたけど」

翔太は神代と美園を指して言った。


「それは私が女性だからよ。知ってるでしょ? 梨々花が男性を苦手にしていること」

「はい、それは聞いていますが、普通の会話でしたよね?」


翔太はピンと来ていないようだが、神代はうろたえていた。


「私、梨々花が男性に気を許しているのを初めて見たわ。

ごめんなさい、柊さんのことを『普通』って言ってしまったけど、訂正するわ」


それを聞いた神代は、今度は美園を「むぅー」と睨みつけた。

さっきから表情が山の天気のようにコロコロ変わっている。


「梨々花にこんな表情をさせる男性は、柊さんだけってことよ」


美園は指で銃を作って、翔太の心臓を撃ち抜くように言った。

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