第16話 橘スキーム
「IT企業の起業家役のオーディションですか」
うーん、と翔太は思案した。
ここは神代が所属する霧島プロダクションの施設、グレイスビルだ。
所属タレントが使うための設備を一棟まるごと所有している。
セキュリティは厳重に管理され、関係者は地下の駐車場から出入りするため、芸能人が出入りしていることがわからないようになっている。
登記上はマスコミやファン対策のためにグループ会社の名義になっている。
二階から上は稽古場などがあり、IDを持った関係者のみが入室でき、一階には来客用の会議室がある。
一階の会議室では、翔太、神代、橘が話している。
「はい、まだ企画段階の映画なのですが、プロデューサーがあのCMに感銘を受けたらしく、オーディションの打診がありました」
IT業界の知見がない神代が、役作りのための知識を得る方法についての相談だった。
映画の原作では、主役の起業家は30歳男性だが、映画の主役は性別や年齢を問わずにオーディションを行うらしい。
オーディションには監督推薦など、一定の条件を満たした俳優が参加できるようだ。
神代の年齢と性別を考慮すると、良く言えば挑戦的だが、悪く言えば無謀だ。
この時代において、女性経営者は非常に少ない。
年齢まで加味するとベンガルトラ並だ。
「俺が友人として相談を受けるとなると、いくつか問題がありますね」
「そうですね、まずはNDAですが」
「個人として受けるのは難しくなりそうです。就業規定もありますし」
「となると、アクシスさん経由で契約ができるかですね」
「そこは――」
「裁判長。原告の証言には具体性に欠けます。詳細な説明を要求します!」
二人の会話に神代が割り込んだ。彼女の言い分はもっともだ。
改めて現状を整理する。
「まず、お話を聞く限り、具体的な話を聞くためには守秘義務が生じると思いました」
「そのとおりです」
橘が頷いた。
「柊さんなら、信頼できるのではないでしょうか?」
「ここで問題になるのは、外部に情報が漏れることだけでなく、秘密保持契約――NDAと言いますが、これを交わさずに私が情報を得ることがキリプロさんにとって問題になります」
神代の問いに翔太が答える。
「キリプロ」とは霧島プロダクションの略称だ。業界人以外でもこれで通じる。
仕事モードになったので、翔太は一人称を私に切り替えて話している。
「なるほど……ではそのNDAを交わす必要があるということですね」
「その場合、仕事として柊さんにお願いすることになります。
ちなみに、当事務所から金銭的な報酬をお支払いすることは問題ありません」
即答していることから、橘は相当な権限を持っていることが窺える。
「個人で報酬を受け取ってしまうと、副業になり、会社の就業規則に引っかかってしまうんですよ」
「めんどくさいですねぇ……」
「まぁ、私はバレてクビになっても一向に構わないのですが、お二人は気にしてしまうかと」
「はい、気にします」
神代は正直に言った。
「梨花、心配しなくて大丈夫よ」
橘の中では解決できる範囲らしい。
「柊さん、現在の出向先との契約はどうなっていますか?」
「アストラル社とは1月当たり最低10人日、つまり80時間以上の業務をする契約です。常駐扱いなので、仕事内容に制約はありません」
「ということは、同様な契約を交わせば、柊さんに何をお願いしても問題なさそうですね。
もちろん、その場合は常識的な条件を提示します」
「契約上は問題ありません。金額については大野と交渉していただくことになります。
CMが好評でしたので、キリプロさんと懇意にしたいと言っていましたから、アストラル社の単価より多少安くても合意できる可能性は高そうです」
「となると、大野さんとの調整ですね。しかし、そうなると柊さんの取り分が減ってしまいますね」
「どういうことですか?」
なんとか会話についていってる神代の質問に翔太が答える。
「人材派遣会社は派遣先企業から得た収入のマージンを取るビジネスモデルなんです。
言葉が悪いですが、わかりやすく言えばうちの会社がピンハネしています。
私の実入りは気にしなくてもよいですよ?」
「うーん」と橘は長考した。
「柊さんは一人暮らしですか?」
「はい、そうですが?」
これまでは橘とは会話が噛み合っていたが、想定外の質問だった。
「では、柊さん、こうしませんか?」
前置きして橘は説明した。
「この『グレイスビル』は当事務所が一棟まるごと保有しており、主に所属しているタレントのために使われています」
翔太は送迎された車中で、施設についてある程度の説明は受けている。
「福利厚生として、休憩室では当事務所の関係者は自由にデリバリーをとって食事ができます。費用は全て事務所持ちです」
翔太はまだピンとこない表情をしているが、橘は構わず続ける。
「柊さんも同様に、休憩室のフロアに限り、同じ待遇を受けられるというのはいかがでしょうか。
報酬の差分として足りているかはわかりませんが」
とんでもない提案が飛んできた。ここに来るとタダ飯が食べられるということだ。
「いや……でも……芸能人の方がたくさんいらっしゃるんですよね?」
(気後れする……めっちゃ気後れする)
「私は賛成です! 当面は私か橘さんが常に柊さんと一緒にいるようにすれば、問題ないと思いますが?」
神代は乗り気のようだ。機嫌が良くなったように見える。
「霧島とは交渉しますが、おそらく問題ないと思います」
『橘さんは副社長くらいの権限があるんですよ。』
神代がこっそり教えてくれた。
(敏腕マネージャーだとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ・・・)
魅力的(?)な提案だが、流石に即答はできない。
「まだ契約できるかわからないので、返事はその後でも問題ないでしょうか?」
「前向きに考えてくださいね!」「はい。よろしくお願いします」
二人は朗らかに言った。
📄─────
唐突に始まった16話のあとがきです。
本話ではビジネスに関連した用語が多く、冗長に感じた方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、私は結果に至るまでの過程を端折ってご都合主義になるよりも、それまでの議論や交渉が可視化されたほうが納得しやすく、そのやりとりも面白いのではないかと思います。
みなさんのお考えはいかがでしょうか?
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