第5話 眼鏡

本番が始まる直前に、神代は思わぬ行動に出た。

おもむろに眼鏡を取り出して、それをかけた。

神代が眼鏡をかけたことで、彼女の知性的な雰囲気が一層際立ったように感じられた。

翔太は気づいた、彼女の狙いはそこではない―――


『言わないで!』

声に出してはいないが、そう言われたような気がした。神代は懇願しているような目で翔太を見ている。

翔太は次に橘の反応を伺った。橘は一瞬眉をひそめたが、すぐに表情を元に戻した。どうやら静観するつもりらしい。

このまま本番の撮影が始まった。


***


撮影が終わり、翔太と水口は録画した映像をチェックしていた。

この場の責任者は水口なので、彼女がOKを出せばクライアントであるアクシススタッフ側では問題がないことになる。

「すごいわね、彼女。うちに来てくれないかしら」

「この業界は全く知りませんが、社長と同じくらいの報酬を用意しないとダメなんじゃないですかね」

「はぁー、優秀な人材を確保するのは大変なのよね。柊くんも取られちゃったし」

「いゃいゃ、最初から私の配属はバンテージじゃないですよ?」

水口は採用面接も担当している。相当苦労しているようだ。


「しかし、よく演技内容の難易度を上げる決断をしたわね。柊くんはこういうリスクは取らない性格だと思っていた」

「神代さん、事前に相当練習されていたように見えたんですよね。

相当お金をかけているように見えたので、相応の働きをしてもらおうかなと」

もちろん、冗談だ。翔太は今の会社に忠誠心は持ち合わせていない。

本音としては、神代がリハーサルの段階では物足りないように見えたので、ダメ元で提案してみたという感じだ。


「でも、おかげで最高のビデオができたわ、花まるあげちゃう」

普段は厳格な態度をとっている水口にとっては珍しい口調だ。大きな任務が終わって肩の荷が下りたのかもしれない。


***


翔太と水口は関係者と合流した。

スタジオの施設内にある会議室にはディレクターの澤井、マネージャーの橘、神代が待っていた。

水口が切り出した。

「弊社としてはこれでお願いしたいと思っています。

講師としての神代さんはすばらしく、弊社の講師陣の中でもエースと言ってもおかしくない出来でした。

まさに最高の演技でした。ありがとうございます」


会議室が安堵に包まれた。この後編集作業などはあるだろうが、今日の仕事は問題なく終わったということでよいだろう。

澤井が翔太に水を向けた。

「柊さんはいかがでしょうか」


神代が固唾をのんで翔太を見ている。責任者の水口のOKが出ているため、状況としては緊張する場面ではない筈だが。

「このビデオをみたお客様は100人中100人が神代さんの講義を受けたいと思うでしょう。

弊社としては神代さんにお願いできたことを大変幸運に思っています。

付け加えると、水口はこのような場でお世辞や社交辞令は申しません。

これは、私も例外ではありません」


(―――っ!)

神代が両手の指先で口元を覆った。目元が少し潤んでいるように見える。

「ありがとうございます」

神代は深々とお辞儀をした。


***


「アレは良かったのでしょうか」

会議が終わった後、翔太は橘をつかまえて切り出した。

「ご心配ありがとうございます、本件は霧島から私に一任されているので問題ないですよ」

お互いに主語を明示せずにぼやかしたのは、神代の責任にならないための配慮だ。

神代はその様子を遠くから見守っていた。

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