ペレじいさん

DA☆

ペレじいさん


 今日は立夏で、暦の上では夏ですとテレビが言っていた、ゴールデンウィーク明けの朝。


 ボクは学校に行きたくなくて、ランドセルを背負ったまま近所の児童公園のベンチに座り込んでいた。知ってる、これは五月病というヤツだ。イヤなことがたくさんあって、勉強も難しくなって、どうしても足が学校に向かなくて、とうとうサボってしまった。


 本当に夏になったみたいに蒸し暑い日だった。ぬるい空気を通して太陽がカンカン照りつけて、それがよけいに気分を落ち込ませた。何も、したくなかった。


 近くの公民館から音楽が聞こえてきた。サンバだ。この町は、ブラジルから出稼ぎに来た人が昔から多く住まっていて、ボクのおじいさんもブラジル人だ。夏祭りには、みんながサンバのリズムに乗って町を練り歩く。その練習か打ち合わせだと思う。でも、今はそんな気分じゃなくって、イラッとした。だけど脚を動かしたくもなくて、ボクは耳を塞いでうつむいていた。


 目の端で、なんかヘンなものが動いた。


 皺くちゃで、だけど腰はすっくと立ったお年寄りが、サンバに合わせて腰をクネクネして踊っているのだった。顔は日に焼けて浅黒く、代わりに髪はすっかり真っ白だ。日の光をテラッテラに反射するカナリーイエローの服を着ていて、すごくまぶしい。袖口が緑だから、あれ、サッカーブラジル代表のユニフォームだ。でも、町の人がブラジルを応援しているときに着ているのとは違って、ものすごく古いデザインに見える。


 その人は、腰を振って、手を大きく広げて、その場でグルグル回って踊り続けている。背中が見えた。背番号は10。その上に〝PELÉ〟と書かれていた。人の名前? スポンサーの名前? Eの上に点がついてるのって、なんて読むの? よくわかんないけど、その人を、ペレじいさんと呼ぶことにしよう。


 ……とか思っているうちに、ペレじいさんは踊りながら近づいてきた。手に何枚か写真を持っている。それとボクを見比べている。


 「オラ! ナギャケンターロクンカ?」


 もそもそと抑揚の少ない、イミフな言葉で話しかけられた。ヤバい変な人だ逃げよう───あれ? いま、けんたろうって言った? 健太郎はボクの名だ。


 「ワギャナノズッチャダハンデ。ガッゴノジガンダバッテコッダナドコデナーシテンベヤ」


 何言ってるのかわかんない。ブラジルの言葉……なのかな。ボクは目を白黒させるばかりで、不審な人に話しかけられたら逃げなきゃいけないといつも教わっているのに、やっぱり脚は動かなかった。


 そして、いつもでない場所で知らない人に話しかけられている状況が、すごくみっともなく感じて、無性に寂しくなって、涙が出そうになった。───それが顔に出て、ペレじいさんは何かを察したらしい。


 公園の入り口に、やたらデカくてアレコレ詰め込んだ古ぼけた布の鞄が置いてあった。じいさんはずだだだだとそこまで走って行き、中からサッカーボールを取り出した。そしてサンバのリズムに合わせて、リフティングを始めた。そのまま、こっちに歩いて戻ってくる。


 ボクはサッカーは詳しくないけれど、見惚れるほどきれいで柔らかい動きだった。足首でポンと跳ね上げると、ボールは吸いつくように肩に乗り、首の後ろをつーっと渡って、逆の肩でまたポンと跳ね上げる。するとまた吸いつくようにボールが頭の上に乗り、ぐるぐる頭を回してもボールの位置が動かなかった。


 ふっと頭を引くと、体に添ってボールが落ちてくる。足下でまたピタリと止め、勢いを殺してインサイドキックで転がしたボールは、ちょうどボクのつま先で止まった。蹴り返してこい、とボクに身振りで示す。


 サッカーなんてほとんどやったことがない。言われるままに蹴り返すと、じいさんからてんで離れたところに飛んでいってしまった。でもじいさんは、軽やかなステップでボールに跳びつき、足先できっちりと止め、易々とまたボクの方へボールを転がした。


 ボクはまた蹴る。ペレじいさんが蹴り返す。しばらくパス練習のようなことを繰り返した。ボクのボールの行き先はてんで定まらないのに、じいさんからのボールは全部きちんとボクの足下でピタリと止まるのだった。


 そのさなか、ペレじいさんは、ふっと表情を和らげてこんなことを言った。


 「マンズ、メスラットスデネ。ケヤグサイネバワギャケヤグサナンベシ」


 そこそこ大きな声で、ボクに何かを伝えようとしたみたいだったけど、抑揚がないしゃべり方だから、まるで自分に言い聞かせているようにも聞こえた。


 どっちにせよ意味がわからないんじゃ、返事のしようもない。ボクは黙ってパスを続けた。無心でボールを蹴るのは、ちょっと楽しい。憂鬱が晴れてきた。


 ───しばらく経って、ボクのお父さんが公園に駆け込んできた。


 「健太郎、ここにいたのか!」


 ボクのことを探していたらしい。学校に来ていないと、先生から連絡があったのだそうだ。強い力で頭をぐりぐりと撫でられた。怒るのと安心したのとがない交ぜになったみたいだった。それから、ぎゅっと抱きしめられた。「困ってることがあるなら、お父さんに言え。な? 力になるから。家族なんだから」


 お父さんは、すぐにペレじいさんの存在にも気づいた。「どうも、ウチの子がお世話になったみたいで……」と頭を下げかけて、───そこで大きく首をひねった。「おじい……さん?」


 「シンターロケー?」慎太郎はお父さんの名前だ。「デゲクナッタノー」


 「えーっと、帰国するかもって話、こないだ父さんに手紙を送ってきただけですよね」お父さんは何やら慌て始めた。「父さんからは検討の参考にって、こっちの現状をいろいろ知らせて、家族の写真もつけて返送して───他は何も決まってないと思ってたから、まだこの子にも説明してないんですよ。返事受け取って、すぐに来ちゃったってことですか?」


 「ダレモムゲヌコネガッタハンデ、キシャサノッデキダサ」


 「いやいや、今日来るって知りませんもん!」


 ん? お父さんとペレじいさん、会話が成立してる?


 「お父さん、」ボクは首を傾げて尋ねた。「……日本語?」


 お父さんは答えた。「日本語。津軽弁」


 ペレじいさんはお父さんのお父さんのお父さん、つまりボクのひいおじいさんだった。


 青森は津軽地方の生まれで、小学校に上がる前に家族とともにブラジルに移住したんだって。〝戦後移民の第一陣〟らしいけど、それがどう重要なのかはボクにはわからない。


 日本の学校に行ってないから、親兄弟と話していた津軽訛り以外の日本語を知らない。中身はもうほとんどブラジル人だ。だけど年月が過ぎ、家族はみんな亡くなって、現地で連れ添った奥さんも去年亡くなり、ついにひとりぼっちになってしまった。頼れる家族といえば、逆に日本へ出稼ぎにきて結局居着いてしまった息子、つまりボクのおじいさんだけだった。それでペレじいさんは七〇年ぶりに帰国して、息子の家に厄介になることにしたのだという───つまり、ボクんちだよ!


 「ところでお父さん。ペレって何?」


 「ブラジルで、いちばん有名なサッカー選手の名前だよ。ちょうどおじいさんが移民した頃に、ブラジルを三度もワールドカップ優勝に導いたエースストライカーだ。───そう、ペレがちょうどおまえくらいの年の頃、ブラジルでは〝マラカナンの悲劇〟と呼ばれる事件が起きた。ワールドカップの優勝がかかった大事な試合で、勝てると見込んだ相手に負けてしまって、国中が悲しみに包まれたんだ。日本でいえば〝ドーハの悲劇〟に近いかな───わかる?」


 「わかる」


 「よかった。───それで、ペレの家も大いに嘆き悲しんだが、ペレ少年は言ってのけたんだ。『悲しまないで。僕がブラジルをワールドカップで優勝させてみせるよ』ってね。少年は成長して、それを見事実現し、伝説となった。有言実行の英雄を、今もたくさんの人が尊敬している───おじいさんもそのひとりだ。彼の活躍を目の当たりにしてきた生き証人だぞ」


 ペレじいさんは、ペレの話をするお父さんをとても満足げに見ていたけど、英雄を尊敬、という言葉が出るとグルッと背中を向け、振り向きざまにドヤ顔で、〝PELÉ〟の文字とエースナンバー10に、ビシッと親指を突きつけた。




 そういえば、さっきの───、


 『ケヤグサイネバワギャケヤグサナンベシ』


 あれ、何と言われたのだろう。有言実行というなら、その言葉を実行してみせるってことなんだろうか。津軽弁は全然わからないけれど、とても優しい顔だったのを覚えている。




 そういうわけでその立夏の日から、超目立つカナリーイエローのレプリカユニフォームにペレの名を背負ってのしのしと町を闊歩して、津軽弁でラテン気質でサンバを聴くと踊り出す、サッカー超うまい喜寿過ぎの御仁が我が家に居候することとなった。〝ペレじいさん〟の名はたちまち町中にとどろき渡り、あれやこれや引き起こされる騒ぎにボクは大いに巻き込まれ、五月病なんて吹き飛んでしまうのだけれど───それはまた先の話。


〈終〉

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