第3話
古瀬真美子は前のデスクにいる中年のおやじを見ながら、邪な妄想を抱くことに、やや恥じる気持ちを持っていた。
比べれば、一般的な中年男よりも少しだけハンサムかなと思わせる程度の男なのだが、それ以外はとりたててどうということもない男だった。――いや、そうでもないか。まあ、それはいい。
真美子はかなり頻繁に、彼に抱かれることを妄想することがある。
今年三十五歳になる真美子の父親に近い年齢の彼に対して、性的な妄想を抱く自分をどうかしていると思うこともあったが、離婚して以来三年、セックスから遠ざかっていることもあり、仕方がないかなと思っていた。
いま真美子は高齢者グループホームで事務兼介護士のような立場で働いていた。女性の多い職場で、身近にいる男性は、真美子の前にいる五十八歳の、介護支援専門員だけだった。
三十五歳。まだ三十五歳だと真美子は思っていた。いろいろと苦労はあるが、老け込むような齢ではない。ときどきポルノサイトで、子どもに隠れてこっそりとみるAVなどでは、自分よりもっと年上の女性が立派に女性として扱われている。友人から美人と言われることもある真美子だったが、離婚して三年は男性と食事に行ったこともなかった。
それはわたしの問題ではなく職場環境の問題だと真美子は考えていた。介護の職場というのは、そもそも女性が多い。小規模なグループホームともなれば、男性がひとりもいないということもあった。ここに中年男とはいえ、男性職員がいるということは、かなり稀なことだった。
とにかく男なしでは生きていけないというほど性欲の強い真美子ではなかったが、だからといって性欲がないわけではない。自宅で、酒を飲み、子どもが寝静まったころを見はからって、ひとり自分を慰めることがあっても、それは仕方のないことだと真美子は考えていた。ただ、そのときの妄想の相手が、前に座っている髪も半分白くなったおっさんだというのが、やや情けなくもあった。
経済力のない年下の夫と真美子が離婚して三年になる。三歳年下の元夫は大人しいくせにかなり性欲が強く、いつも真美子を抱きたがった。正直につきあうのがしんどい時もあったが、相手をしないとすねることもあり、仕方なく相手をしていた――というか結婚生活後期はそういうことの方が多かった。あれだけセックスをして、妊娠したのが二回というのは、奇跡のようなものだったのかもしれないと思うこともあった。
離婚理由は、ギャンブルだった。年下で甘えん坊というのはまあいいにしても、ギャンブル(特にパチンコ)にのめりこみ、大金を使い、借金までする元夫との生活を維持していくことは困難だった。真美子の方から三下り半を突きつけて、実家に戻ったのが三年前だ。
真美子の実家は会社を経営していてわりと太く、真美子とふたりの子供が一緒に暮らしてもなんとかなった。とはいえ真美子の結婚の経緯は、両親や兄の反対を押し切ったということもあり、失敗したから実家に戻りましたというのも、心情的に潔しとしないところがあった。
一年間実家で暮らした。その間に仕事を探し、一年後に家を出て、アパートでふたりの子供と暮らしはじめた。
仕事はとある社会福祉法人だった。真美子自身、あまり勉強はしなかったが福祉系大学を卒業していて、社会福祉主事の任用資格を持っていたことも、あるいは有利に働いたのかもしれない。福祉大学は卒業したものの実際の現場で働いた経験はなかった。将来的には介護士として働くということを視野に入れて、事務職と兼務で働くということになった。
はじめる前は心配だったが、はじめてみるとすぐに仕事になれた。勤めはじめると、あっという間に一年が過ぎた。
友人ができた。真美子と同じシングルマザーで同じ法人のデイサービスに勤務していた。同い年で、離婚理由も似通っていた。
真美子は彼女のことを、密かにモスクワちゃんと呼んでいた。
理由は、彼女がつきあっている彼氏である。彼氏はロシア人なのだ。出身がモスクワということで、その彼とつきあっている彼女を、そっと心の中でモスクワちゃんと呼ぶようになった。もっともモスクワ出身のロシア人といっても、彼は生後一歳で来日して以来日本で暮らしていた。ロシア語も、かろうじてヒアリングができる程度で、言語的にもメンタル的にも、日本人と言ってよかった。
しかし、彼はハンサムだった。真美子も二、三度あったことがあるが、背が高く、モデルのようにスタイルがいい彼にしばし見惚れた(彼には妹がいて、妹の写真も見せてもらったことがあるが、自分たちと同じ人類かと思えるほどに美人だった。モデルをしているということだ)。対するモスクワちゃんは、ごくごく普通の容姿だった。仮に釣り合いを考えれば、不釣り合いなことはこの上もなかった。しかもモスクワちゃんは、真美子と同じ地味な福祉職だ。
いったいどこであのハンサムな彼と知り合ったのか。そのあたりに興味があった。理由は、多少の色気もある。どちらかといえば地味なモスクワちゃんでも、あんなハンサムと交際できるのだ。けっこう美人といわれるわたしなら――と、真美子が考えなかったといえばそれは嘘だ。
真美子とモスクワちゃんはお互いのアパートを行き来する仲だった。同じく子どもはふたり。モスクワちゃんが真美子のアパートに遊びに来て、ふたりでビールをのんでいたとき、かねてから訊きたいと思っていた、ロシア人の彼との出会いについて訊ねた。
「出会い系サイトよ」
モスクワちゃんはあっさりと言った。まさかそんな返事を聞くとは思ってもいなかった真美子は一瞬言葉に詰まり、
「出会い系サイト?」
と、思わず訊き返していた。
「そう――真美ちゃん使わないの?」
「使わないわよ」
「どうして?」
「どうしてって……いつ頃から使ってるの?」
「ずっと前から――高校生の頃かな」
「高校生? え、高校生って言った」
「言った。なんか変なことを言った?」
「いや……そういうことじゃないけど」
「高校生のころからずっと出会い系サイトを使ってるわよ。前の旦那ともそれで知り合った」
「あの、他にもいたの付き合った人――その、出会い系サイトで」
「いたわよ」
「何人くらい……」
訊いてもいいことかどうかわからないことだった。だからそっと訊いた。
モスクワちゃんは別に嫌な顔をするでもなく、
「どのくらいだろう……」
と、言った。真美子は黙ってモスクワちゃんを眺めていた。
「十五人、ちがうな――二十人くらいかな。もっと多かったかもしれない。結婚前に二十人近くと関係を持って、結婚中は使っていなかったけれど、離婚してからはまた使いはじめて、うーん、何人くらいだろう」
淡々と話すモスクワちゃんを眺めながら、この人は大丈夫だろうかと、真美子は不安になった。
「ねえ、怖くないの」
真美子は訊いた。
「怖い、何が?」
「だって知らない人と会うんでしょう。どんな人かわからないじゃない」
「そうね」
モスクワちゃんは少し考えて、「そうかな――こわいかなあ。怖いと思ったことはないし、リスクというのならどんなことにでもリスクはあるし。車の運転だって危ないといえば危ないじゃない」
車の運転にともなうリスクと、見ず知らずの男と関係を持つリスクが同じとは真美子には思えなかった。
「危ないといえば、確かに危ないかもしれないけれど、彼みたいなハンサムにも出会えるしね」
モスクワちゃんは屈託なく笑い、真美子はどこか寒々としたものを感じた。
その後、モスクワちゃんはモスクワからやってきた彼と別れた。理由は金銭問題だった。ロシア人の彼はハンサムだったが金にルーズだった。定職にもつかず、従って収入もないのに、金遣いは派手だった。ときどきアルバイト程度はしていたようだが、それとて安定収入とは言い難かった。両親は商売をしているという話だったが、果たしてどんな商売なのか、モスクワちゃんも知らなかった。しょっちゅう金詰りの彼は、モスクワちゃんに金を無心し、いくらハンサムでもとうとう我慢の限界にきて、モスクワちゃんは彼と別れた。
真美子はモスクワちゃんが彼につきまとわれるのではないかと不安だったが、そんなことはなかった。考えてみるとあれだけの美青年だ。その気になれば彼女などいくらでもできるだろう。見た目の美しさに惹かれる人間は男女を問わず多い。彼の場合、日本語は日本人と同じくらい堪能で(というかちゃんと喋れて読み書きができるのは日本語だけだった)、しかも見た目は、いわゆる西洋人のハンサムを絵に描いたような見た目なのだ。新しい彼女ができたか、もしかするとモスクワちゃんとつきあっていたとき、他にも女がいた可能性がある。いや、そうに決まっている。彼は複数の女たちとつきあっていたのだ。モスクワちゃんには言わなかったが、真美子はそう確信した。
彼と別れてから、すぐにモスクワちゃんは別の彼を見つけた。今度は日本人だった。ロシア人の彼と別れてすぐに別の彼を見つけたのである。モスクワちゃんは真美子にも出会い系サイトをすすめた。真美子は断った。
しかし、断りはしたものの、誘惑は確かにあった。出会い系サイトなどいまどき誰でも使っている。そういわれればその通りだった。出会い系サイトも使わず、前の席にいるおっさんに抱かれることを妄想してひとり自分を慰めているよりも、あるいはよほどましかもしれない。そう考えるが、いやいやそうじゃない。見知らぬ男と出会って関係を結ぶリスクはやはりあるのだと考えると、妄想の中で誰かに抱かれ、自分を慰めている方がまだましだと思った。何よりも子どもがまだ小さい。
そんなある日、モスクワちゃん――すでにロシア人の彼とは別れていたから、モスクワちゃんでもないのだが――から相談があった。突然、電話がかかってきた。
「罹っちゃったみたい」
と、モスクワちゃんはいきなり言った。
「え? なに。インフルエンザ?」
「性器クラミジア」
「え?」
「性病」
「知ってるけど……まさか自分?」
「そう。まあ日本で一番多い性病だっていうからいつかはかかるかなと思っていたんだけどね」
顔が見えなくてよかったと真美子は思った。モスクワちゃんの顔ではない。自分の顔を見られなくてよかったと思ったのだ。たぶん呆れてぽかんと口を開けているから。
とりあえず病院に行ってくると言ってモスクワちゃんの電話は終わった。
その後しばらくしてまたモスクワちゃんから連絡があり、新しい彼に病気をうつしたとあっけらかんと言ってきた。いまはふたりで治療を受けている。真美子は呆れるしかなかった。
モスクワちゃんは、性感染症のリスクを背負ってでも、常に刃物を隠し持っている変質者やストーカー気質の相手に出会うリスクを抱えても、誰かと出会い、関係を持ちたがっている。真美子には止めようがないことだった。
真美子にモスクワちゃんの心理まではわからなかったが、モスクワちゃんは今日もデイサービスで元気に働いている。何か、奇妙な感じを、真美子はどうしても拭えなかった。
不道徳な人たち @le_kamui
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