第2話

 瀬川美波は隆志のことを係長と呼び、隆志は美波のことを主任と呼んでいた。滑稽なことに、それはセックスをするときも変わらなかった。

 隆志と美波は上司と部下の関係であり、同時に男女の関係でもあった。世間にありがちな話だ。

 この業界では、隆志たちがそうであるように、上司と部下が、先輩と後輩が、あるいは同僚同士が、男女の関係になることは、特に珍しいことではなかった。その数は、他の業界に比べて多いのではないかと隆志は常日頃から考えていた。根拠も何もない隆志の直感ではあるが、この業界に十年いる隆志の直感だから、それほど大きく外れているとも思えなかった。

 なぜこの業界では、不倫が多いのか。その理由まで考えたことはない。隆志もこの業界に入って多くの女性と関係を持った。そのどれも人生をかけるような恋愛に発展することもなかったし、別れたあと引きずるようなこともなかった。なんとなくはじまってなんとなく終わる。そういう関係だった。


 だから、今度の美波との関係も隆志にとっては特別なものではなく、その終わり方まで、なんとなく予想することができた。自然に始まり、自然に終わっていくのだ。そういうものだった。

 この業界における不倫の特徴は、上司と部下が男女の関係になった場合、出世にも影響するということだった。それも他の業界ではあまり考えられないことだった。一般企業でも上司と部下が男女の関係になることは、ままあることだった。一般企業でサラリーマンをしていたころ、隆志の身近でもそういう話はあった。

 しかし、上司が不倫相手の部下を出世させたという話はあまり聞かない。その部下に地位に見合う実力があれば別だが、そうでなければ出世などさせないしできない。

 普通の組織でも不倫はあるが、男女の関係が、仕事に優先することはまずなかった。ここでは先に男女関係があり、その後に仕事が来る。能力に関係なく、愛人に地位を与えるということは普通にあることだった。理由は、この仕事は、実力を数値化しにくい――というかまずできない。誰を出世させるかは上司の好みによるところが大きい。不倫関係にある相手というのは、究極のお気に入りのようなものだった。

 この業界――福祉業界のことだ。


 体の関係ができたとき、美波は一介護職員だった。主任の欠員ができたとき、隆志は美波を押した。もちろん隆志なりの理由があってのことだった。

 普段の美波は、まるで自分を罰しているかのように生真面目な性格だった。物事に真摯に向き合い、善良で、優しく、まかり間違っても人前では毒を吐かない人物だった。

 美波を主任に押すにはちゃんと理由があった――と、隆志は考えていた。

 しかし一方に、体の関係ができたから美波を押したのではないかという疑念も残る。誰も隆志と美波の関係を知らないが、もし知られることがあれば、そういう目で見られるだろうことはわかっていた。

 まあ、いいか。隆志はそのあたりのことを深く考えないようにしていた。

 隆志は四十五歳、美波は四十四歳だった。ふたりは同じ高齢者グループホームに勤務していた。

 美波は平均的な体格と平均的な容貌の持ち主だった。しかし、セックスは平凡ではなかった。美波のセックスは情熱的で大胆で、ときに隆志を驚かせるようなことを当たり前のようにやってのけた。初めて体を交えたときからそうだったのだ。

 普段は真面目な美波が、隆志とホテルで激しく絡み合い、時に隆志にまたがり、欲望の限りを尽くしていると知れば、職場での彼女しか知らない職員は腰を抜かすだろう。それでいて美波は隆志に狎れるということがなく、話すときは必ず敬語をつかった。それはベッドの中でも変わらなかった。係長と呼ぶのもそういうことだ。

 隆志自身、自分と美波が男女の関係になるなどということは思ってもみないことだった。関係を築くにあたって、積極的だったのはむしろ美波の方だった。

「今度わたしと出かけてくれませんか」

 事務所で二人きりになったとき、美波からいきなり言われた。隆志は戸惑った。美波は隆志が既婚者であることを知っていた。知っていて誘ってきたのだとすれば、美波が何を望んでいるのかは隆志にはわかった。隆志はしばし美波を眺め、

「わかった」

 と、答えた。答えたあとで、どうしてわかったと言ったのだろうと自問した。

「ありがとうございます」

 美波は小さな声で言った。


 後で考えてみるとずいぶん軽く、突然のデートの誘いに乗ったものだと思う。

 美波とのデートは、その週の日曜日だった。仕事があると家族には言って出かけた。美波と郊外にあるスーパーの屋内駐車場で落ち合って、隆志の車で隣の県に行った。T市は小さな町だ。誰が見ているかわからない。物事に対してかなり無頓着な隆志でもそのあたりは気を使った。

 隆志も美波も言葉数は少なかった。美波はどこに行くのかとも訊ねなかった。隆志は県を超えて一番近いところにあるホテルに行った。

 もし美波がどんな形であれ拒否すれば、やめようと思っていた。

 隆志のやり方はいつもそうだった。ホテルに入ろうとして、相手が拒否すればあっさりと引き返す。ただ、拒否されたことはこれまでなかった。

 そこからすべては始まった。

 その後、隆志と美波は月一のペースでホテルに行くようになっていた。

 しかしどうしてこうも簡単におれたちは体の関係を持ってしまうのだろう。不思議でならなかった。それは美波だけのことではなかった。これまでに関係を持った何人かの女たち。彼女たちと体の関係を持ったことは、隆志が言葉巧みに誘ったからということではなく、双方の意思がそうさせたのである。体の関係を持つことに、とりわけ積極的だったということもなく、なんとなくそんな雰囲気になり、そうなったというだけのことだった。

 関係ができたあとは、お互い、セックスを楽しみながら、それでいてセックスに溺れることもなく、相手に深く立ち入ることもなく、仕事もまじめにこなしていた。

 福祉という閉ざされた世界の中で、男と女がひしめき合い、お互いの体を貪り、その一方で、変わることのない日々を惰性で生きている。隆志にはそのように思えてならなかった。そのくせ福祉について問われれば、熱く、福祉を語ったりもする。あるいは利用者に対する想いを滔々と語りもする。一方で道に外れた恋愛にうつつをぬかしながら、一方で社会に必要欠くべからざる仕事をしている。自分たちはいったい何者なのだろうと隆志は考えることがあった。

 なにも変わらない。何も変えられない。福祉の世界にあるのは、重苦しい停滞だ。そんな中でもがきながら、ちょっとした息抜きとして体の関係を持つ。

 こんな状態がいつまで続くのだろうと思いながら、今日は利用者の支援をして、明日は美波を抱く。

 不思議な世界だと隆志は思っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る