不道徳な人たち

@le_kamui

第1話

 実に不道徳な告白をすると圭子には彼がいる。彼はもちろん結婚していて、だから関係は不倫だった。

 その彼と最近、諍いになった。原因は些細なことだった。彼との関係は今年で三年目だった。昔、不倫で職場を追い出された圭子にとって、不倫は鬼門だったが、それでも誘惑に負けてしまった。誘惑といっても彼が特別、美しい容姿をしていたとか、仕事がよくできるとかそういうことではなかった。一緒に仕事をしていてなんとなく馬が合った。そんな感じだった。

 圭子が三十歳のころ、仕事を辞めるきっかけとなった不倫は、今の関係に比べれば、別次元かと思われるほど、よく言えば情熱的、悪く言えばのぼせあがり、血迷っていた。何せ本気で不倫相手と一緒になる未来を夢見たのである。

 それに比べれば、圭子も彼もすでに四十歳の折り返し地点を過ぎていた。四十も半ばを過ぎての交際は、お互いの寂しさを埋め合わせるためのもの、そんな感じだった。彼は圭子に、

「妻とはセックスレスの状態だ」

 と、言った。それも長くセックスレスだという。要するに彼は長くセックスをしていないから君とセックスをしたいと、正直に告白したわけである。妻とうまくいっていないと、嘘をつく輩に比べれば、まあましかなと圭子は思った。人間には性欲がある。それはもちろん圭子にもある。

 圭子も長く男と肌をあわせていなかった。圭子は一度も結婚をしたことがなかった。三十歳のころに経験した不倫が、結局、圭子の人生――ひとりで生きるという人生を決定づけたようなところがあった。職場を追われ、行き場所をなくしてたどり着いたのが福祉の世界だった。圭子は介護福祉士となり、介護支援専門員となり、今はとある社会福祉法人の居宅介護支援事業所で働いていた。彼は圭子が居宅に来る前に勤務していた特別養護老人ホームで主任をしていた。

 彼とは、割り切った、あるいは冷めた交際だった。それでも長く付き合っているとなんとなく感情が行違うことがある。些細なことから口論になり、もういいとなったわけである。何がもういいなのかわからないが、もういいと言ったのは圭子のほうだった。だから、ここしばらく圭子は彼と会っていなかった。


 福祉関係者には不倫が多い。そう言われる。男女が一緒に働く職場だから余計そうなのかもしれないが確かに、不倫が多いような気がする。どこそこの所長が主任と一緒に飲み屋にいたという話を聞くことがある。あの施設の何某という職員と何某という職員は怪しいなどという話はしょっちゅう聞く。ある所長(もちろん既婚者)が、ある事業所の所長と他県のホテルに入るところを見かけたという話を聞いたりすることもある。目撃者はいったいどうして他県のホテルの近くにいたのかと、そちらの方に興味を覚えるが、とにかくそういう噂がやたらと流れてくる業界なのである。

 だからといって職員の誰もが色恋沙汰にうつつを抜かしている色ボケさんたちというわけではなかった。色恋にうつつを抜かしながらも、きちんと仕事をしている。この仕事が好きだという職員も多い。往々にしてそういった職員の方が、不倫をしていることが多いようにも思う。


 圭子の知っている介護士に非常に優れた人がいる。ちなみにその方は女性だ。仮にMさんとしよう。

 Mさんは介護福祉士だ。そしてその資格に見合うだけの技術も知識もある。Mさんは、介護支援専門員と住環境コーディネータの資格も持っている。Mさんは現場仕事に拘りがあり、法人からは居宅介護支援事業所に移ってほしいというオファーを受けているが、〈もう少し現場にいさせてください〉とオファーを断り続けている。利用者支援について言えば、Mさんの技量には目を見張るものがある。利用者との関係を結ぶ技術がべらぼうに高く、相手の心理状態を洞察し、的確な対応をするのである。これは人事異動に関することで、普通なら職員も嫌とはいえない。それはMさんだから許されているという面もあった。現場がMさんに抜けられると困るという事情がある。現場職員だけがそう言っているのではなく、施設管理者もその点についてはよくわかっていた。使える人間は、どこに行っても使えるというが、Mさんを見ているとそういうものなのかと、不器用な圭子は少し羨ましく思う。

 Mさんは、本当に介護士の鏡のような人である。Mさんは既婚者で、家では良き妻であり、良き母親であるという。事実その通りだろう。以前、娘さんとご主人が職場に来たことがあり、圭子も見たことがあった。ご主人は優しそうな人だった。娘さんは、美人のMさんに似て、可愛らしかった。

 しかし、Mさんには不倫の噂がある。

 といって、Mさんが誰かと一緒にいるところを目撃されたというようなことはなかった。だが、なんというかMさんには、夫のものではない男の匂いを嗅ぐことが、圭子にはあった。Mさんの醸し出すある種の艶っぽさ。それがMさんにつきまとう不倫の噂を裏付けているように、圭子には思えるのだった。


 圭子がMさんにまつわる噂と、自分自身の勘のようなものを信じたいもうひとつの理由は、ある人物と話したということもあった。

 その人物とは、認知症研修で一緒になったベテランの女性介護支援専門員だった。圭子が所属している法人名を名乗ると、

「あら、もしかしてMさんがいるところじゃない」

 と、言われた。

「ええいますけど」

 というと彼女は、

「仕事ができるでしょうMさん。前に一緒に働いていたからわかるわ」

 と、どこかに意味を感じさせるような笑みを浮かべて言った。

 その笑い方が妙に気になったが、そのままにしておいた。圭子もMさんが前に勤務していた法人の名前を訊いたことがあった。福祉業界で働いていれば転職は珍しいことではない。事情はそれぞれだが、勤め先を変わることはよくある話だった。

 研修が終わり帰ろうとしたとき、Mさんと前の職場で一緒だったという女性が声をかけてきた。喫茶店にでも行かないかと彼女は言った。行けば話題がMさんのことになるのはわかっていた。嫌だなという気持ちはあった。かつてMさんと一緒に働いていたという女性は、福祉関係によくいるタイプ――性格的に癖が強く、どこか底意地の悪そうな印象のある人物だった。

 だが、いやな印象の人物ではあったが、Mさんのことを知りたいという気持ちもあった。喫茶店に行けばMさんのことに話が及ぶことはわかっていた。Mさんの別の顔を知りたいという好奇心が、嫌な相手とは喫茶店に行きたくないという気持ちを上回ったのである。

 研修会場から車で一、二分ほど行ったところにある喫茶店に圭子と彼女は入った。昔からそこでやっている喫茶店だということは、圭子も知っていた。入ったのはそのときが初めてだった。

「Mさんと一緒に働いていたんですか」

 圭子は訊いた。どうせMさんの話になるのだ。だったらこちらから誘導しようという気持ちだった。

「ええ、そうです」

 彼女はまた意味ありげな薄笑いをのぞかせた。「いまMさんと一緒に働いているんですか?」

「前に一緒でした。Mさんは今特養の方にいて、わたしは居宅の方にいます」

「Mさんって美人でしょう」

「そうですね、確かにきれいな方ですよね――仕事もできるし」

「美人で仕事もできる――ほんとその通りです。でも何かと噂のある人でしょう。そちらではどうですか」

「噂というと?」

 圭子はわざと訊ねた。彼女は面白そうに笑い、

「男がらみの噂、聞いたことがあるでしょう」

 あるとはいえなかった。

「さあ、事業所が違いますから」

 圭子は言ったが、相手の目は嘘でしょうと言っていた。

「そう。それならいいんです。でも気をつけた方がいいですよ。あの人、男癖が悪いから――仕事もできて、頭が良くて、美人で――でも、だからこそもてるんですよ」

 言葉は穏やかだったが、その響きに棘があった。「男の人をね、じっと見つめるんですよ、あの人は。ほら男って子どもだから、じっと見つめられるとすぐその気になる。自分は好かれているって勘違いする。Mさんはわざと勘違いさせているんですよ」

 Mさんがもてることは圭子も聞いていた。とにかく人当たりがいいのである。誰に対しても笑顔で対応する。よく通る声で涼やかに話す。確かに好印象を与える。特に男性職員に人気があることは知っていた。

「前の勤め先でもいろいろと噂があったんです。施設長とか主任とか、まあいろいろですけどね」

 Mさんについて話している彼女の言葉の端々に、圭子は悪意を感じた。Mさんは美人で仕事ができる。そういった女性は同性から嫌われる傾向がある。事実、Mさんを嫌いだという女性職員を圭子は少なからず知っていた。

 とはいえ不倫。そのことについて自分がとやかく言える立場にないことを圭子はよくわかっていた。

 かつて圭子は、相手の奥さんに不倫がばれて、職場に乗り込まれ、自主退職という名目の解雇になったことがあった。それを教訓とするなら、不倫など金輪際するべきではなかった。ずいぶん長くひとりでいたが、それでもまたこうして不倫をしている。

 不倫は癖になるという。一度味を覚えるとなかなか抜け出せない。不倫へのハードルが下がるのである。悪いことだとは思いながら、またやってしまう。

 もしかしたらMさんも同じかもしれない。圭子は考えた。確かにMさんの不倫について話す彼女には、Mさんに対する悪意が存在している。それはMさんに対する嫉妬かもしれない。話している彼女自身、陰に回れば何をしているのかわかったものではない――と、そういうことを感じさせる相手だった。だがMさんが不倫の常習者である可能性は十分あり得る話だった。

 研修で一緒になった彼女の話は、決して愉快な話ではなかった。彼女が話したのはMさんについての陰口だった。陰口など聞いていて気持ちのいいものではない。だが、そこにいくばくかの真実はあるように思えてならなかった。

 Mさんは確かに優れた介護士だった。しかし優れた介護士であることと、男癖が悪い女であることは別のものだった。人は仕事だけでは生きていない。仕事が表の人生だとすれば、男癖が悪いというのは、裏の人生だ。人には誰にも見せられない裏の顔がある。

 今日も福祉の現場では、自分が夫であることや妻であること、父であり、母であることを忘れて、肉欲に溺れる男女が多数働いている。不道徳な彼らが(それは圭子も含めて)福祉の現場を支えている。安い給料で、ときに利用者から殴られたり罵声を浴びせられ、下層の職業と嘲られたりしながら、懸命に働いている。そして不倫に溺れ、出会いと別れを繰り返し、ときに複数の相手の間を揺れ動きながら日々を生きている。

 どこにも答えも救いもない世界でもがき続けている。福祉の世界というのは案外不倫を続ける男女に似ているのかもしれないと、圭子は思うことがある。どれほど誠意を尽くしてみても、どれほど思いを注ぎ込んでみても、結局は成就しない。何も変わらない。報われることもなく、ひたすら忍従し、何度か繰り返すうちに、多くを求めることもなくなり、そのくせ諦めることもできない。まことに厄介な状態なのだった。福祉の仕事に漂うある種の空気感。仮にそれを無常観と呼んでもいいが、その気配はまことに不倫に似ていた。

 帰路、圭子は飲み物を買いたくなり、コンビニに立ち寄った。LINEを確認すると、彼からのメッセージがあった。

『今度会おう』

 それだけだった。

 少し、考えて圭子は車を降りた。飲み物を買って車に戻り、もう一度LINEを確認した。返事を送ろうとして、少し考え、もう少し待ってからだと思い、スマホをしまった。

 圭子は車を出した。

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