閑話 父と娘の前哨戦

 豪奢なシャンデリアの明かりの下、床に跪いたリリアナは延々と続く宰相の口上に飽き飽きしていた。


 エルフは長生きな分、話も長い。下ろした眉庇の隙間から、ちらっと視線を巡らすと、周りは似た表情をしたお偉いさんばかりだった。


 その中で平静を保っているのは、国軍総司令部の長であり、リリアナの上官でもある父親のトリスタンだけだ。リリアナと違って人前で面頬を上げないトリスタンは感情が読みにくい。どんな気持ちで娘の晴れ姿を見ているのだろうか。


(なんとも思ってないかもしれないな)


 九年ぶりに顔を合わせても返ってくるのは厳しい言葉と嫌味だけ。意気揚々と新しい兜を見せつけても、特に謝罪の一つもなかった。


 母親の気配もとうに消え、家族らしい会話もない屋敷はただ寒々しいだけだ。居心地が悪すぎて、この一カ月暇さえあれば外をぶらぶらしていたが、蓄えた給料が目減りしていくだけだった。衝動買いって怖い。


 いつまでもそうしているわけにはいかないとわかっている。今日の辞令を受ければ、屋敷が生活の中心になる。トリスタンと顔を合わせる機会も増えていくだろう。


 これからうまくやっていけるだろうか。


 もう子供じゃないと意気込んでみても、心のどこかでまだトリスタンを恐れている自分がいる。押さえつけられていた記憶はそう簡単には消えてくれない。


 けれど、変化を受け入れると決めたのはリリアナだ。背中を押してくれたアルティに応えるためにも、前へ踏み出さなくては。


「では、国王陛下から勲章の授与と、辞令の交付を行います。ゲオルグ・リリアナ・リヒトシュタイン。前へ」


 宰相の指示に合わせて起立し、玉座に進み出る。眼前でにこにこと人のよさそうな笑みを浮かべるのは、三年前に即位したばかりのアレス・フェルウィル・オブ・ラスタだ。うっすらとエルフの血がまじっているからか、綺麗な金髪と青い目をしている。


 確か、まだ二十六歳だったはずだ。


 即位したばかりで戦争が起きるとは気の毒だが、上が変わるとよからぬことを企む人間は多い。まあ、戦犯のラグドールは徹底的に潰したからしばらくは平和だろうが。


「北方の脅威を取り去ってくれて、本当にありがとう。さすがトリスタンの娘だ。リリアナには苦労をかけたね」

「もったいないお言葉です」


 恭しく首を垂れ、首飾り状の勲章を受ける。デュラハンは国王の前でも脱帽しなくていい。なので、今のリリアナの感情は読み取れなかっただろう。


(父上の名前出すのやめてくれないかな……)


 うんざりした気持ちで定型文の応酬をし、ついに本題に入る。渡された無駄に華美な書類には『首都治安維持連隊・連隊長』の文字が記されていた。


 首都治安維持連隊とは、首都の警備と消防を一挙に担う部隊だ。連隊長はそれを統括する責任者で、旅団長に比べれば一等級降りる形になるが、国王直属であるが故に面倒な人間関係がなく、そして何より首都から離れなくていいメリットがある。


 もちろん、リリアナが望んだ役職だ。


 九年も国中を放浪していたのだ。いい加減落ち着きたかったし、思い描いていた理想の女子ライフを満喫したかった。それに、アルティとどうしても離れたくなかったのだ。


 本当の自分を隠してきたリリアナには心を許せる友人がいない。一カ月の短い期間であっても、常に仕事と真摯に向き合い、自分を変えるきっかけを与えてくれたアルティにリリアナはすっかり心酔していた。


(戦争を終わらせた褒賞とはいえ、まさか我儘が通るとは思わなかったな)


 なんでも言ってみるものだ。


 ありがたく辞令を受け、長く続いた凱旋式はようやく終わった。






「お帰りなさいませ、リリアナさま」

「ただいま、マリー。本当に疲れたよ。ああいう堅苦しい場所は苦手だ」

「あらあら、何をおっしゃいますの。あれだけ堂々と凱旋式を終えられた方が」


 燃えるような赤毛を揺らし、ふふ、と微笑むマリーは昔と変わらぬ色気を放っている。今年で四十六歳になるはずだが、まったくそうは見えない。制服の下の体型も。


 マリーはリリアナの母親――フィオナの元侍女で、リリアナが生まれたときから面倒を見てくれているヒト種の乳母だ。駐屯地を転々としている間もずっと文通をしていた。寂しい生活に耐えられたのはマリーの存在が大きい。


「長らく方面軍でのお役目お疲れさまでした。次のご出勤はいつからでしょうか」


 マリーの横に並んだ長身の男性を「白髪が増えたなあ」と口には出さずに眺める。こちらはトリスタンの側近で、リヒトシュタイン家の家令でもあるセバスティアンだ。昔は大層なイケメンだった。今は大層なイケおじになっている。容姿の変わらぬマリーと比べて、着実に歳を重ねているようだ。


(同じヒト種なのに不思議だな……)


 マリーが普通なのか、セバスティアンが普通なのか、デュラハンのリリアナにはよくわからない。アルティも歳の割に幼い容姿なので、ひょっとしたらヒト種は実年齢よりも若く見える種族なのかもしれない。


「引き継ぎもあるし……正式な着任は九月からだな。それまでは、もう少しのんびりするよ」


 リリアナの返答に、セバスティアンは優しげに微笑んで頷いた。


「そうですわ、リリアナさま。ようやく届きましたわよ、例のもの」

「本当か! どこに飾った?」

「うふふ、それは見てのお楽しみですわ」


 マリーに先導されて向かったのは、リヒトシュタイン家の大書庫だった。一面のガラス窓からは庭園の美しい花々が咲き乱れている様子がよく見える。


 目的のものは年季の入った柱時計の下、一番目立つところに飾られていた。その中心に描かれた女性を見て涙腺が緩みそうになる。


 北方に降り積もる雪のように美しいアイスブルーの髪に瞳。嫋やかな微笑み。フィオナがまだ少女だった頃の肖像画だ。九年ぶりに見る母親の姿は、窓から差し込む光に照らされてより鮮やかに見えた。


「ああ、そうだな……。お母さまは花と本が好きだったもんな……」

「ここなら高さもございますから、トリスタンさまも簡単には外せませんよ」


 静かに頷き、しみじみと肖像画を眺める。フィオナの故郷を奪還した際に見つけたものだ。フィオナの一族が土地を離れてから長い時間が経ち、すでに廃墟同然になっていたが、この絵だけは奇跡的に残っていた。いつか戻れたときのために、誰かが保護魔法をかけていたのかもしれない。


 フィオナはウィンストン領のグロッケン山に住む少数民族の出身だったが、今から二十八年前、たびたび国境を侵していたラグドールに追われ、首都に近いリヒトシュタイン領に避難してきた。そして、そこの跡取り息子であるトリスタンと出会って恋に落ち、リリアナを授かったわけだ。子供の頃から婚約者が決まる貴族にしては珍しい恋愛結婚だったという。


 だからこそ、その喪失感に耐えられなかったのだろうが、フィオナが亡くなった途端に、屋敷中の肖像画を当主しか入れない宝物庫に保管したのはやりすぎだと思う。


 見ると辛いとか、劣化させたくないとか、色々理由はあるのだろうが、おかげで母親の面影を忘れないために自作する羽目になったのだ。今考えても、兜に絵を彫ったのはそこまで怒られる謂れはない気がする。


(挙句に、いつまでも子供扱いしやがって)


 腹の中で沸々と怒りが湧いてきたとき、ふいに書庫の扉が開いた。


 トリスタンだ。ワーカーホリック気味の父親がまさかこんなに早く帰ってくるとは思わず、目が丸くなる。


「父上? もう戻られたのですか? いや、それより、どうして書庫に?」


 トリスタンはハッと我に返ったように肩を揺らすと、至極不機嫌そうな声で言った。


「ここは俺の屋敷だ。お前に理由を話す必要があるのか」


 一色触発の空気が書庫に漂う。睨み合う二人の近くでは、マリーとセバスティアンが神妙な顔で頭を抱えていた。


(口を開けば嫌味しか出ないのか)


 凱旋式を終えた娘を見ても、労い一つ寄越さない態度に呆れてしまう。アルティと街に出た日もそうだ。まさか往来で侮辱されるとは思わなかった。セバスティアンは「いつまでも戻らないリリアナさまを心配して探しに行かれたのですよ」と言っていたが、到底信じられない。


 だが、こんな男でも父親なのだ。もう子供ではないと主張したいなら、相応の器を見せなくてはならない。いつまでも居心地の悪いままでも嫌だし。


 踵を返すトリスタンを呼び止める。トリスタンはこちらを振り返らなかったが、不思議とそのまま立ち去ろうとはしなかった。


「九年ぶりに娘が実家に帰ってきたんですよ。これからは一日に一回でいいから、食事を一緒にしませんか。お母さまのお話を聞かせてください。……お父さま」


 最後の一言に、トリスタンの体がびくっと震えた。動揺をあらわにするなんて珍しい。思わずまじまじと見つめていると、絞り出すような低い声が聞こえてきた。


「……お前がそう言うなら、考えてやらんこともない」


 言うだけ言って、さっさと歩き出すトリスタンをセバスティアンが追いかける。それを呆然と見送っていると、感極まった様子のマリーに背中をばしっと叩かれた。


「よく頑張りましたわねリリアナさま! 初白星ですわよ!」

「白星なのか? これは」


 兜を撫でながら、渋面を浮かべる。和解にはまだまだ先が長そうだ。


 けれど、悪くない気分だった。

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