古書に宿る物語
洞貝 渉
古書に宿る物語
きらきらと輝く瞳が印象的だった。
幼い彼女はたどたどしい足取りで私の元まで来ると、荒っぽく棚から引っ張り出して抱きしめてくる。
そして彼女は私を抱いたまま、お気に入りの窓辺に移動すると、床にぺたんと座り込んだ。
そこで彼女は私の物語に浸る。
日の光にあふれる窓辺で、時折入り込む穏やかな風に彼女の髪と私のページを柔らかく撫でつけられるひと時。
本文をなぞる彼女の手つきから、高揚感が伝わってくる。
私は冒険小説だった。
彼女の強い視線が深く素早く文字の上を滑り、次々と場面が移り変わってゆく。
息を詰めていた彼女が、ふいに顔を上げた。
興奮したような、嬉しそうな、満たされているような。そんな表情の彼女の瞳は、眩いほどに輝いていた。
彼女は片時も私を離そうとはしなかった。出かける時も、眠るときも、彼女の隣には常に私がいた。
しかし私は知っている。みながそうだったから。だからきっと、彼女もそのうちに私には見向きもしなくなる時がくる。
一冊の古びた本など、所詮は生きる上で何の役にも立たないのだ。彼女も他のみなと同じで、成長に伴い新しい本を、年齢に見合った本を手にするようになるだろう。やがては本になど興味も示さなくなり、大人になってゆき、空想ではなく現実の世界でしっかりと地に足をつけ、かつて一冊の古びた本に夢中になったことがあったことなど忘却の彼方に去ってしまうのだ。
そう、いつかは。
いずれは。
そのうちに。
きっと……。
私はそのいつかがくるのを諦めと恐れを行き来しながら待ち続けた。
待ち望んでいたわけではない。ただ宿命として受け入れていた。
しかし、待てど暮らせど、彼女は私を手放さない。
周囲の子どもたちが室内から解き放たれかけっこなどの外遊びを覚え始めると、彼女も元気に外へ繰り出すようになった。重く古い私を抱えて。
子どもと大人の中間に差し掛かるころ、みなが今と将来に全力を注いでいるのに対し、彼女は過去の産物である私の手入れをした。欠けた背表紙を補填して、本文を綴じる糸が緩んでいたので綴じなおし、虫干しし、丁寧に扱いつつ何度も読み直したはずの物語にいつまでも浸り続ける。
大人になった彼女は、私以外の本にも手を伸ばすようになった。新しい本も、古い本も収集し、頼まれれば他人の本を修理したり新しい本を綴ったりもする。が、私のことはいつまで経ってもなぜか手放さない。それどころか、ことさら彼女は私を大切にして側に置くようになっていく。
「今のわたしがあるのはあなたのおかげ」
彼女はことあるごとに私に語りかけた。
「大好きだよ。あなたはもしかしたら、もっとたくさんの人に読んでもらいたかったのかもしれない。もしそうだったなら、ごめんなさい。でも、お願いだからずっとわたしのところにいてね」
とんでもないことである。
むしろ、私のせいで彼女はみなと同じ生き方が出来なくなったということではないか。
私は彼女に対し、矛盾した思いを抱く。人生を捻じ曲げてしまったことへの申し訳なさと、ここまで愛されていることへの嬉しさを。
彼女は相も変わらず片時も私を離そうとはしなかった。出かける時も、眠るときも、彼女の隣には常に私がいた。
私は彼女よりも優に百ほど年老いていた。
古びてはいるものの、そのままでも、もう百ほどは形を保つことができていただろう。そこへ彼女が手を入れたおかげで、私は百に、さらにもう百ほどは残ることができるようになったことだろう。
しかし、私はできれば、彼女の短い人生と共に逝きたい。こんなにまで私を愛し、私もまた愛した相手は彼女だけだ。おそらく、この先もずっと、ここまで愛し愛される関係を築ける相手は彼女以外には現れないであろう。
彼女は何十年経っても変わらず、お気に入りの窓辺で私を読む。日の光にあふれる窓辺で、時折入り込む穏やかな風に彼女の髪と私のページを柔らかく撫でつけられるひと時。
「あなたがいれば、それでいいの」
愛おしくてたまらないといった様子で、彼女は言った。
彼女は人生の佳境に差し掛かかっており、ルリユールを生業として独り身を貫き通していた。
いよいよその時がやって来たが、私の願いはついぞ叶えられなかった。
彼女は私が最後まで彼女と共にあることを拒絶したのだ。
「私以上にあなたを愛す人なんていないと断言できる。だからこそ、あなたをこの世界に残さずに私が持って行ってしまうなんて考えられない」
真剣な口調で彼女は言う。
気持ちは嬉しいが、では、私の願いはどうなるというのだ?
「あなたはこの先、何百年と後世に残り続けるべきだよ。そして、万が一の確率で私と同じか、私以上にあなたを必要とする人と出会うかもしれない。私はその可能性をつぶすわけにはいかないの。だって、あなたのことを心から愛してるから」
そんなことは知らない。私はあなたがいいのだ。側にいさせてくれ。そしてずっと私の物語に浸り続けてくれ。
これほどまでに想いを伝えたいと感じたことは無い。しかし、彼女は私を置いて逝ってしまった。
彼女がいなくなり、心に空洞を抱えたまま、私はまた宿命と向かい合うことになる。
最初はきらきらとした瞳で私に夢中になっていた子どもたちは、みな成長と共に私に見向きもしなくなっていく。何度も、何度でも繰り返す孤独。
気が狂いそうなくらいの時間の中、私は一人取り残されたことに対し、少しずつ恨みを募らせていった。
私の負の感情が人にわかるとも思えないのだが、それでも何か察するものがあるのだろう。いつしか人は私を避けるようになり、私を手に取るものは皆無になる。
私は何度となく人の手を渡り歩くこととなった。
意外なことに、こんなにも古び、誰も開こうとしない古書にも関わらず、なぜか処分されることはなかった。
小さな本棚、大きな本棚、古い本棚、新しい本棚。様々な本棚を転々とし、ある書庫まで流れ着いた。
書庫には大量の書籍が並び、どれも一様に私と同じく古び、長年誰にも本文に目を触れる者がいなかったものばかりだった。
私は私の同類たちと共に収まり、そこでまた長い時間を過ごす。
長い時間、とはいうものの、私の時間はあの時からすでに動いてはいない。
彼女を失ってからの私は、完全に時を止めてしまっていた。
時間の感覚もないまま書庫に収まり、どれほど経ったのか。
幾年ぶりかもわからないが、唐突に私は引っ張り出され、人の手で開かれた。
人の指の感触も忘れていた私はいきなりのことに驚き、戸惑った。
その人は、彼女ほどではないにしろ丁寧な手つきと真摯な眼差しで本文に目を通すと、なにかに納得したかのような満足げなため息を吐き、言った。
「君は、君自身のたくさんの物語を宿しているね」
何の話かと混乱する私をよそに、その人は再び私を書庫に戻す。そしてまた、長い時間が過ぎていく。
言葉が私にしみ込むまでにしばらくかかったが、なんとなく思うところはあった。
彼女だ。彼女のことしかない。
私が彼女を記憶したことで、何百年と経った今、あの人は私の中の彼女の記憶の琴線に触れたのではないだろうか。
つまり、私が彼女を何百年も先の時代まで連れてきた、ということにもなるのではないか。いや、発想が飛躍しすぎか?
だが、私はこの考えが非常に気に入ってしまった。
彼女は私の側にいる。ずっといたのだ。私の中に。
私が残り続けること、それはすなわち彼女が生き続けるということに他ならない。彼女が直した背表紙と、彼女が綴りなおした糸、彼女が整備し続け、彼女の記憶をその身と心に宿した私。
毒気が抜け、孤独が癒されてゆく。
そうだ、彼女は私を置いて逝ったのではない。ずっと側に居続けてくれていたのだ。
彼女が私を生かしてくれた。そして、今度は私が彼女を記憶し生かし続ける。
私は満たされるのを感じた。
何世代も渡るほどの、彼女と私の強い絆を自覚して、愛しさがあふれ出る。
「だって、あなたのことを心から愛してるから」
彼女の声が聞こえた気がした。
古書に宿る物語 洞貝 渉 @horagai
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