序章 白き英雄と黒の王(2)
夜闇に包まれる街道を、ミズノは歩いていた。
目深に被った焦げ茶の外套の下から、軽く辺りへ目を向ける。雑多な、石造りの街だ。淡く欠けた月明かりに照らされる大通りに、積めるだけ高く積み上げられた家屋や商店が立ち並ぶ。道行く人々はさらに雑多で多種多様、思い思いの足音を鳴らし、土埃を上げてゆく。交わされる言葉についつい聞き耳を立てたのは、日頃から染み付いた悪癖である。
「今日も人間の英雄と、黒い連中がやり合ったってな。決着はまた持ち越したらしい」
「現代に蘇った古代種って奴らか。巷じゃ、長は神話の女神だっつー与太話まで流れてるが」
「目覚めたら世界が滅ぼされる奴だろソレ。――与太話じゃなきゃ困る」
詮の無い話だ。毒にも薬にもならない。だが、噂は上手いこと広まっている。手応えを得つつ、他にも似たような会話を持ち前の地獄耳にて拾いながら、歩みを進める。
しばし歩いて、家屋の隙間に身を滑らせ、迷路のような暗く狭い裏路地を、右へ左へと幾度も折り返す。そうしてようやく辿り着いたのは、一軒の寂れた店舗だった。まるで商売っ気の無い立地の軒先に、酒と料理の絵が入った看板が吊るされている。
『雷来亭』と刻まれた扉を押し開く。軋む金具の音と、控えめなベルの音が迎えたのは、見た目通りに小ぢんまりとした飲み屋だ。手前に丸テーブルを囲む椅子の組み合わせが五つほど、左奥に調理場とカウンター席、右奥に四人掛けのボックス席が三つ並ぶ。
手前のテーブルはいずれも、うだつの上がらない顔をした飲んだくれ共に埋められていた。店内へ踏み入ればまばらな視線がミズノへ向けられるが、外套を脱ぎつつ、軽く「よう」と返しておく。飲んだくれ共も手を上げるなどして、それぞれ酒と料理を搔っ込みに戻る。
「あっ、ミズノさん! お疲れ様です!」
「お疲れ、メーちゃん」
声をかけてきたのは、羊の角を右側頭に持つウェイトレスだ。メーちゃんとは彼女、メリィの愛称。灰色の髪を肩口で揺らし、トレー片手に狭い店内を器用に歩き回っている。
「奥が空いてますよ、どうぞ!」
「おけ、ありがと」
促されて、店の最奥にあるボックス席へと向かう。
十数歩とかからず辿り着くそこは、しかし、空いてなどいなかった。
「――昼ぶりじゃの、ミズノ」
黒の、小さな少女。
皮肉気に口元へ浮かべた笑みはまさしく可憐。されど、古代より蘇り、王として種を率いる幼い身体には、この星を百度は焼き尽くして余りある暴虐を秘める。神話にさえ語られる慈悲深き再生の女神にして、長き眠りより目覚め、怒りに荒ぶる滅びの化身。
そんな彼女を。
手を伸ばせば届くほどの、間近に見据えて。
「うん。お昼ぶり、カナメさん」
ミズノは思わずと、頬を綻ばせた。
つい半日ほど前まで、戦場にて死線を繰り広げていた黒の王。
名を、
「ごめんね遅くなって。待った?」
「今来たところじゃ。少しくらい休む時間が欲しかったのう」
軽く左肩を揉みながら、水を一口含むカナメに、苦笑しながら正面へ座る、と。
「それ嘘でーす。三時間も前に来てずっと席で寝てましたー」
「ぶふぉお」
吹き出した。ゴッホゴホと激しくむせ返った後、赤い顔で眉を立て声の主たるメリィを睨む。が、あちらはどこ吹く風と背を向け、鼻歌交じりに配膳を続けている。「よくやった」「いい仕事よメリィ」「ビールを奢ろう」などという周囲の声へカナメが据わった瞳でグラスを振りかぶるのを、ミズノはまあまあと宥めながらも頬のニヤつきが止められない。
小さな額に、腕を枕にしていた跡がしっかりと残っている。すなわちバレバレであった。分かり切った上で問いかけた。ミズノの気配を察して本当に今しがた目を覚ましたのだろうことも、ちょっとろれつの回っていない舌から理解している。最高か。
今なら死んでも何の悔いも無いほどに、溢れる多幸感とホクホク笑顔はカナメに睨まれた程度で消えるはずもなく、むしろより頬が緩むだけだった。ずっと見ていたい欲とずっと見られていたい欲が同時に満たされて控えめに言って幸せの絶頂にある。
「全く……。さっさと飲むぞ。今日は疲れた」
「はいはい。メーちゃん、いつものー」
はーい、と気の抜けた返事とは裏腹に、片角のウェイトレスは手際よく店内を行き来し、三十秒と待たず二人の席へと配膳を済ませる。
丸々太った徳利に、おちょこが二つ。
元より用意は済ませていたのだろう、ほどよく冷えた清酒を器に満たし。
「それじゃあ、今日の戦争もお疲れ様。カナメさん」
「お主もな、ミズノ」
コツンと、挨拶もほどほどに、盃を交わした。
舌を痺れさせる独特の辛味、喉奥から肺腑まで染み渡る酒精に、二人揃って息を吐く。
「やっぱ酒って、すきっ腹に最初の一口だと思うんだよね」
「分かっておるではないか。気安くカパカパ飲み干しては酒蔵に無礼というものよ」
まあ、そうは言っても飲むのだが。
早々に器を空け、互いに次の酒を並々と注ぐ。
「そういえば他の
蜚廉種。
カナメが率いる、現代に蘇りし古の種族。かつてこの星に栄えた、先代人類の末裔。
黒髪黒目、二本のクセ毛、異常に強靭かつしぶといなる種族特徴を持つ。
平たく言うと。まさしく本当の意味で、平たく言うと。
「もうピンピンしとるよ。儂の力を分け与えておるからな」
頭の上でゆるゆると振られるクセ毛、もとい、進化を遂げた彼女らの、触覚。
ゴキブリである。
世界は正しく、何の間違いも無く。
今まさに、ゴキブリたちによる、侵略を受けていた。
「むしろそっちはどうじゃ。かなりこっぴどくぶっ飛ばしたと思うたが」
「戦線復帰には二ヶ月かかるかなあ。まあ大丈夫だよ、どいつも血の気だけは多いから」
人間種の白き英雄、須王ミズノには、課せられた使命があった。黒の王、すなわち古代ゴキブリ人類の長、もとい目の前で酒を酌み交わしている彼女、緋蓮カナメの抹殺である。
「というわけで本日の戦争も死人は無し。いやあ、健全で良いことだねえ」
「なあにが健全じゃ。不健全も良いところじゃろうが。貴重な若い時間を下らんことに使いおって、他にマシな目標は無いのか?」
「そりゃあるよ。今日も今日とて大きな夢に向かってまっしぐらだよ」
無論、ミズノにカナメをぶちコロがすつもりなど、微塵も無い。
なぜならば。怪訝に眉をひそめるカナメへ、ミズノは首元からあるものを引き出す。
細い鎖。
その先に吊り下がった、二つの銀の輪。
一方は真円、一方はなぜか、楕円に歪んだ――指輪に、カナメの目が見開かれる。
「カナメさんと再婚すること」
浮かべた笑顔は一切の曇りなく、屈託なく。
だからさ、と。
「結婚しよう? カナメさん」
首を傾げれば、口を半開きにしたカナメの手から、盃が滑り落ちた。
緋蓮カナメ。
この世界に滅びをもたらさんとする怒りの女神。
蜚廉の頂点に君臨し、種の繁栄を掲げる黒の王、ゴキブリの王。
須王ミズノ。
かつてこの世界を、あまねく人々を救った人間。
古より現れた黒の者共、蜚廉種を滅ぼす使命を帯びた白き英雄。
二人は、夫婦だった。
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