第13話 誘惑
院長は上機嫌だ。
イモジは紳士だと褒めて、僕たちを気に入るだろうとの話をしていた。レイを気に入るだろうの間違いだと指摘したいが、言わないで我慢することにした。ちなみに僕はイモジが誰であろうと、どんな奴であろうといい。レイを怒らせなければいいんだがと考えている。
「姉も気に入られるといいんですけどね。何せ二人で旅をしてきて世間を知らないんです」
「まあ、人様に気に入られるのはなかなか難しいものですよ。人様の心は人様のものですからね」
どんなに良かれと思ってやっていたことだろうが、結果的に塔の街を追い出された。英雄や勇者などと讃えられようとは期待していなかったが、追われる身になるのも考えものだ。とにかく嫌だ。しかし単純に暴れすぎたんだよなあ。改めて思うことがある。何も考えていない奴ほどたちが悪い。僕だ。まさかこの世界で国王も女王も悪者じゃないなどと考えもしないよ。誰か一言教えてくれていればなあ。今では完全に僕が悪者だよな。今思えば国王のじいさんの話にも筋がある。さすがに美月さんを救いたいだけで、白亜の塔を壊したのは間違いかなあ。
「もし?」
あれはあれでこの世界の秩序の一つとして機能してたぽいし。救うのは美月さん一人だけでよかったなあ。交渉の余地も残してくれてたんだよな。今からなかったことにしてくれないかな。でも女王様は救われたもんな。いやあ、女王様を救えたとしても、白亜の塔は残せたのかもしれないし。美月さんと女王様だけのためにやってよかったのか?繋がれた魂なんて、この世界の連中には知ったこっちゃないだろう。もはや僕なんて塔を壊して、みんなに恐怖を見せただけになるな。
「もし?」
「はい?ああ、すみません」
「何かお悩みでも?」
やけに湿っぽい声だ。初老にしては艶があるとか。多くの信者の相談を聞いていると、そんなやさしい声にもなるのかと感心した。
「いいえ。軽い後悔みたいな。あのときこうしておけばなとか」
こんな悩みなんて言えるわけがなかろう。白亜の塔を壊したんですけど、どうしたらいいですか?
「大丈夫です。特に悩んでいるわけでもないんで。でもここに住めれば素敵ですね。いつも湖を眺めて」
「湖しかありませんわ。人は恵まれていても、どういうわけか飽きてくるものですよ。失わないと気づかないことも。あ、たしかお二人は旅をしているんですね。二振りの剣のお祓いのお話でしたわね」
「お祓いしてくれますか?」
僕はタペストリーを見た。黒い空の下、燃えさかる黒い山。頂上に建つ館に打ちつける稲妻。今さらながら気づいたが、空を飛ぶのは翼を持つ竜にも見える。そして甲冑姿の騎士や馬が取り囲んでいる。遠くで銀の犬が牙を剥いている。六枚目はない。ここに描かれているのは?
「実際、こんなところへ行きたいですか?」
「おかしいことを仰いますね」
彼女は微笑んだ。そしてわざとしてみせた上目遣いが、歳に似ずに熱を帯びていた。
「でもそれは信者様の前では言わないでくださいね。約束ですわ」
「もちろんです。ところでお祓いについても聞きたいんですが、カムさんのことでも聞きたいんです」
「奇遇ですね。わたしも同じですわ」
「どんな関係ですか?」
「ただの信者ですわ」
「ただの?」
「他のたくさんの信者さんと同じという意味ですよ。言葉とは難しいものですわね。特に悪意を持たれると」
「ひどい言い様ですね。では多少のことはご存知なんですね?」
「申し訳ございません。だいたいは聞いておりますのよ」
院長は残念そうに答えた。
誰もいないのを確かめて、礼拝堂の出入口の扉の錠を掛けた。そしてかぶっていたウィンプルという帽子状の布を脱いだ。黒い瞳がわずかに疲れた熱を帯び、薄く日に焼けたところが艶っぽい顔が現れた。さっきまでの初老の影が消えて、どかしら情熱的な雰囲気をまとっていた。
「わたしは力で解決するのは悪いことだと反対しました。ウロムの村のことも聞き及んでいます。どうぞお掛けください」
ちょうど僕たちはヒルダルの山の前にある長椅子に腰を掛けた。
「驚いているようですね」
「え、ええ、まあ……それなりには驚きました」
そりゃ、初老だと思い込んでいた院長が、青年よりわずか上くらいの艷やかな女性だとは驚くよ。
とはいうものの、たいていのことはこんなこともあるのかと思えるようにもなっていた。思うように訓練されたと言う方が正しい。院長のウィンプルは白亜の塔の女王のベールと同じ効果を持っていたんだ。
「わたしの姿を見たことは内緒にしてくださいね」
「なぜこんなことを?なぜ偽の姿をしているんですか?」
「信仰のためですわ。単純に若い女だと面倒なことがあります」
「なるほど。特にきれいな人だと特にね」
「ご冗談を」
彼女は胸もとに手を添えた。他人に対して自分の見え方も計算できている人のする仕草だった。
「これからお話することは、ここだけのお話にしてくださいますか。カムのことです」
「聞いてから判断します」
「ずるい答えですね。でもわたしはお話すべきですわ。領主様とやり合うというのは、いくら何でも認められせん。特に暴力では。すべて失いますわ」
「教会もですか?」
「あなたは嫌なことを平気で仰るのですね。教会も村の未来もです」
彼女は膝を僕の膝にくっつくようにした。手は僕の太ももに。小首を傾げて、わずかに上目遣いで、
「どこまでお話できるの?わたし自身、判断できかねているのです。あなたについて、わたしの目が正しいのかどうか。この教会も維持しなければなりませんわ」
「世知辛いてますね。イモジさんはあなたの姿をご存知なんですね?」
「ええ。イモジさんは街の有力者ですし、対岸の領主様と、領主様とでも呼んでおきますが、その方とお話もできるはずですからね」
「カムさんたちは話し合いでは解決できないと?」
「残念なことに、カムは暴力に囚われてしまいました」
やたら彼女の顔が近い。黒髪が匂い立ち、気がぼんやりした。術でもかけられたのかと思えた。
「他の村の有志には帰るように頼みました。これからは夏前の収穫のこともあるでしょうし。でもカムたちは好戦的すぎました。強く止めることはできませんでした」
「塔の街は帰らない人が多い」
「嫌なことを言う人ね。塔の街にいたことは知りませんでしたわ」
「塔の街の郊外には無縁の墓場が並んでいました」
「さすがにわたしはそこまでは望んでいませんわ。これでも聖職者ですので。わたしも今、少し後悔していますの。まさか塔の街を訪ねていたなんて。塔が潰れた噂は流れてきていました。街にはバケモノが徘徊しているとかいないとか。そんなところに探しに行くなんて」
だんだん落ち込んできた。あなたが話している、この嫌なことを言う僕が争いの火種を持ち込んだんだんですよ。嫌な奴なんです!
「もう少し強く引き止めておけばよかった。今のわたしには後悔しかございませんわ」
院長は囁くように言い、僕の太ももで指を上下に動かした。
「ここで取引しませんか?あなたは損はしません」
「もちろんあなたも」
「もちろんです。ここにあなたたちはいらしてません。わたしはカムには誰も来ていないと伝えます」
「村はどうなるんですか?」
「誰も気づいていません。カムたちは諦めて村へと戻ります。あなたたちはいらぬ争いに巻き込まれずに済ますね。巻き込みたいの?」
「いいえ」
ふと気配がした気がした。窓が開いているからかもしれない。心地よい風が通り抜けた。院長は「今日は蒸せますね」と胸を覗かせるように風を通してみせた。蒸せるのは扉を閉めたからだ。スカート越しにくっついてくる脚が艶めかしい。この色仕掛けにイモジは勝てたのか。
「もしわたしの提案を聞いてくださるなら、あなたは領主様やらと戦う必要もありませんわ」
「あなたの目的は何ですか」
「平穏です」
「もっと具体的に」
「湖との共存共栄ですわ。村はそれぞれ収穫し、人はそれぞれ豊かに暮らすんです。誰もが救われる」
「僕も入信したいですね」
「いつでもお待ちしてます。いくらで引き受けられたんですの?」
「一人頭銀一枚。彼らは自分たちは飲まず食わずで探していました」
「でも命に替える額なの?銀二枚ずつでどうですか?」
「約束を破る額でもないですね」
「意外に強欲ね」
僕の耳に囁きが触れたとき、タペストリーの間に紅玉のイメージが浮かんだ。何か嫌な予感がする。首がピリついて息苦しい気もする。
「わたしも一緒にどうです?」
「意味がわかりません」
もっと唇が近づいてきた。
「そんなことだろうと思っていたから戻ってきた。わたしだけ遠ざけようとしたのがおかしい」
「待て!話を聞いてくれ!」
「話してみろ」
「ランチはどうした?」
「このレイ様が食べもんに釣られるとでも思うたか!」
「いつから院長に気づいてた」
「初めて来たときだ。なぜ変装しているのかわからんが、おまえを見る目が気に食わない奴だとな。だからカムのことも伏せた。他に言いたいことは?」
「謝る理由なんてないぞ」
頭の血の巡りが怪しい。ふわふわとしてきた。院長はレイの登場と三つ眼に驚いた。僕も同じだ。
「トマヤに話すぞ!」
「それはダメだ!」
ミタフ街で吊るし上げられるのは御免だ。あんなところで話されたら弁解の余地なんてない。水汲み桶の代わりに紐で結ばれて水路に放り込まれる。
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