第10話 バケモノ
二日後、僕たちは堤防の上で背に夕日を浴びていた。長い影が土手に伸びて、僕が歩くとレイの影も着いてきた。今も水は土手と石橋の残骸の間を爆流が流れていた。
「印象はどう?」
「意外に平原じゃないんだね。もっと湖沿いに広がる平原みたいなのを想像してた。これは谷だね」
「あそこに森もある」
キラッと光る川が見えた。村を飲み込んだ流れが、森の近くの川へと流れていた。たぶんここで堰き止めて水路橋を築いたということだ。
「壊したのはあれか」
「そうそう。石でできた水路が壊れてたから、その橋ごと壊した」
バケモノも流されてないか?
やることが大雑把すぎる。小学生の通知簿に「初めはやる気はあるのですが、途中から飽きてくるようです」と書かれるタイプだ。
日も暮れつつあるので、雑木林を背にした高台の小屋だったところに泊まることにした。野面積みの石垣の上に建つ小屋の庭には、枯れた井戸がある。井戸端から村を望むことができた。水道橋が村の頭上を走るのだが、村への取水口はない。
村は湿地帯になっていた。
戻れるのか?
村は泥の下に沈んでいた。
希望も何もない。
石の水路橋はところどころに面影が残るのみで、相当な勢いで壊されたようだ。橋脚も埋もれていた。
「しかしまあよく壊したよね」
「苦労はしていない」
ちょっと惜しい。
この水路橋が村を越えて、湖の水を肥沃な穀倉地帯へと流していたということだ。だからこの水路を壊してしまえば、街道の下流域へと水が流れるということになる。
ミタフは肥沃な地帯へと流れる水の管理をしていたと言われる。かつての六つの村でも、なかなか大きな権利を与えられていたようだ。
「で、領主様に抵抗したのか」
「どうして抵抗したの?」
「たぶん水がないからだよ」
「水を管理してたのに?」
「うん。湖から遠くへ遠くへ流さないといけない」
「あ、管理してたけど自分たちは使えない」
「正解!」
「ひょっとして今のウロム村も同じなのかな。湖に近いから水があるとは言えない。そっか。水は上から下へ流れるもんね」
レイは干からびた井戸を覗いた。
今、君は何を考えてる。
「わたしのせいで干からびたのかな」
「それはかわからないね。でも前から干からびていたように見える」
レイが僕の肩に手を置いて背伸びした。指で差した。
「ここからの方が森がちゃんと見えるね。森を越えたら畑がある」
「森の方から来たのか」
「うん。でっかい橋桁が建っていたんだよ、ここに。で、土手を壊したの。わたしも流された」
「まさか下から壊したの?」
「上がるの面倒だったし」
「たしかに下から来たら面倒だろうけどさ」
「死ぬかと思った」
「そりゃそうだろう。ちょっと冷えてきたな。小屋へ入ろうか」
「うん。お腹もすいた。今日は湖の漁師さんから買った一夜干し」
僕たちは小屋へ入った。
僕が土間に石を輪に並べて木屑を盛ると、レイが石棒で火をつけた。僕は寝そべるような格好で息を吹きかけて火を大きくした。レイは女王の剣を石に渡し、そこに魚の干物を置いた。さすがにそれはないと思いながらも、雑木林へ枝を拾いに行くのも面倒なので、納得した。
「なぜ夜なんだろうね」
僕は尋ねた。
「どういうこと?」
レイは尻尾をつかんで、二枚に裂くと、一つを僕にくれ、もう一つは天井へ向いた口に入れた。
「こういうところへ夜に来るとろくなことはないんだ」
「でもバケモノとやらも昼は活動しないだろうし、丁度いいじゃん」
ミタフでは一夜干しにするときは特性のオイルを塗ると聞いた。魚臭さが薄れ、さわやかな味がした。僕もレイも好き嫌いがなく、たいてい食べるが、これはパンに合った。
僕たちは外套を敷いて野宿することにした。寝ているときに小屋が崩れてくる心配をしたからだ。
「とは言うものの、誰もバケモノっての見てないんだよなあ」
寝転んだ僕は星に呟いた。
「わたしも見てない。でも見えるかもしれない」
「聖眼でか」
レイは額飾りを外していた。何か見えるかと尋ねたが、まったく見えないと答えた。すべてを見えるわけではないのだろうし、もし見えればこゆなことしていられない。
「わたしももう少し力を操れたらいいんだけどな」
「今は十分だと思うよ。聖眼ができて間もないし」
「そうなんだけど。それまで百年くらい生きてて情けないかなあ」
僕は慌てて上体を起こし、同じように仰向けで星空を見ているレイに振り向いた。
「百年!」
「それくらいだと思う。シンは?」
「十六年」
「若いね」
どういうことだ?春に一年、夏に一年とか数えているのか。ただ単に三つ目族が長寿の種族なのかもしれない。もしかしてこの世界の時間の流れは、元の世界のそれとは違うということも考えられる。しかし家畜は短くて三年、長くて五年くらいで出荷されていた。魚も一年や二年ほどのものが商品になる。
「年越しの次の朝、一年よろしくお願いしますって言うんだよ。今年は土の下だったけどね」
「僕が早く死ぬんだろうな」
「わたしはシンを守るよ。絶対に死なせない。斬られても刺されても八つ裂きにされても死なせない」
僕は苦笑した。それは死なないんじゃなくて、死ねないんだ。
「ふふん。でもどうしてそんなこと言うの?バケモノが怖いの?」
「寿命の話だよ」
「じゅみょう?」
「自然と命が消えるとき」
白亜の塔にいたときの永遠に生きる魂からすれば、十年も百年も変わらないのかもしれない。
「わたしはシンの魂を捕まえてるんだから心配ない」
救われたのか捕まえられたのかわからないが、現に今こうして僕はレイの隣にいる。
すでにレイは地面に敷いた外套の上で丸まって寝息を立てていた。この瞬間、襲われてもおかしくないのに眠れるのは凄い。僕は自分の外套を彼女の体に掛けてやった。
寝ずの番をすることにした。
偶然が続いたことをバケモノの仕業だと思い込んでいるのか、実際にいるのか。もしいるなら、どこかで待ち構えているのかもしれない。
来てみるまではわからない。
星々が美しい。
月の光はやわらい。
僕は膝を抱えて考えた。ハンドアックスで地面を突ついた。得体の知れないものが潜んでいるという静けさもないし、首の輪も軋まない。
老婆はバケモノを見たのか。
どうであれ、ミタフは生まれ故郷の村を捨てて逃げた。そして打ち捨てられた村も、今も僕ら移住しているとも聞いていないい。すでに皆に忘れられていた。だからこそレイも村ごと水に流すことができた。
「寝てないの?」
「起こした?」
「ううん。さっきの自分が死ぬかもしれないという話?」
「バケモノのこと」
「わたしたちの村はお母さんの歳を足して数えたの。シンの世界は違うの?」
「うん。聞いたことないな。名前を足すのはあるけど。それに僕はお母さんやお父さんの顔も知らない」
「わたしも知らない。シンにだから言うけど、旅に出るとき、おまえは今年で百歳だと教えられた。次の年も、また次も百歳。とにかく誰かに聞かれたら、そう言えと。でもそんなこと気にしてない。わたしは何歳ても構わない。シンと年を越したから一歳。この冬過ぎたら二歳」
僕は笑えてきた。
「そうだね。次はお互いによろしくお願いしますって言おう」
「埋めたら許さない」
ふとレイの瞳が広がった。僕は両手にハンドアックスを持った。妙な気配がした。雑木林か。麓の村の湿地帯か。急に村全体が重苦しい空気に覆われた気がした。
レイはそっと起き上がると、四つん這いで、村を一望できる石垣の際まで進んだ。僕も同じようにして続いた。
「どこにいる?」
「どこかウロウロ歩いてる」
僕はレイの肩に腕をまわした。こうして村を一望した。訂正。かつては村だった湿地帯だ。夜の闇に沈んでいたが、何か気配がする。
「シンは見える?」
「いや」
「でもどこかにいる」
背後の雑木林から掘っ立て小屋の屋根を蹴るようにして、バケモノは月を背に影が飛び出してきた。僕はレイを蹴飛ばした。レイが放つ光の放物線がバケモノに絡みついた。
僕はハンドアックスわクロスさせて防いだ。勢いよく石垣からつづら折りの坂を三つほど茂みの中を転がり落ちた。バケモノはレイの術をちぎるように、僕の様子を気にすることもなく、村のある湿地帯へと走り抜けた。僕は振り向いた。すでに影すらも見えない。獣だ。使い古された鎌のように濁った太い爪を見たような気もする。あんなでかい犬がいるのか。狼か熊か。
「シン!」
レイは一直線に降りてきた。
大丈夫だ!
僕は右手のハンドアックスを上げて応じた。左手のものは庭で落としたらしく、レイが持っていた。襲われてすぐに落としたのか。
「死ぬかと思った」
レイの眼は村を見ていた。
「僕には犬に見えた」
「わたしは顔が見えなかった」
「凄い爪だったよ」
僕は枝を支えに立ち上がろうとしたが、手入れのてきていない折れた枝ごと滑り落ちた。バケモノは村の湿地を抜けて、反対の斜面の茂みに消えたということだった。
「やってらんねえ!」
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