第9話 女たち

「ここかな?」

 僕は路地の細い空を見上げた。

 そこは馬飼いのミタフから教えられたところだ。建物も勝手に建てられているらしく、この界隈がゴチャゴチャしていた。

 急な石段を上がる。

 湖が見えた。

「ほお!やっぱ大きいね!」

「ここからでも向こう岸は見えないな。僕もこんな大きいのははじめて見たよ」

「シンの世界でもないのか」

「あるかもしれない。でも実際に見たのことはない。たぶん一生見ないと思う」

「わたしも村を出ていなかったら、こんなものは見ていなかったんだろうね。シンがいてくれたおかげだ。あっちへ舟で行けるのかな」

 レイは何度も見ても飽きないようだ。海を見たらどう思うのだろうかと考えた。見せてやれるかな。これが済めば、海への旅もいい。

 斜面の路地では、どこからか溢れ出た水が溝を飛び越える勢いで流れていた。それぞれがいくつかの貯水槽に溜まるようにできていた。溝が繋げられていて、下の街の川へと流れ込むようになっているようだ。

 僕たちが歩いている間にも裸の子供たちが、キャッキャッと歓声を上げながら次々と流された。

「楽しそうだな」

「シンもやれば?」

「詰まる」

「押してやる」

「どうせ蹴飛ばすんだろ?」

「そんなことしないし、しようとも思わない」

 レイはどこまで本気なのかわからないこと言っていた。すべて本気なように見える。

「マジ!」

 やる気だな。

「シンは水が怖いの?」

「レイが怖い」

「冗談を」と、ニヤリとした。

「暗くて狭いところが怖いな」

「誰でも怖いと思うけど」

「子供たちは別だね」

 僕は休みがてらに眺めた。ずっと階段が続いて、情けないかなすでに息が上がっていた。

「無理すんな」

「これくらい平気だよ」

「ずっと囚われていた。思うように動くようになるまで焦るな」

 レイが荷物を預けてきた。

 どういうこと?

「知らない?尻突きだよ」

 レイは僕の尻を左右交互に突いて勢いをくれた。この華奢な体のどこに力を蓄えているんだ。ホッホッと尻を突く方も突かれる方も弾みで上がることができる。

「あそこに水場がある!」

「休憩だ!」

 僕は荷物を置いて、水飲み場の低い椅子に腰を掛けた。水の音と流れる風に身を任せた。首筋にジトッとしていた汗も退いてきた頃、レイが冷たい手拭いを渡してきた。

「僕、寝てた?」

「少しね」

 水を汲んだひょうたんが置かれていて、それに口を付けたが水は入っていなかった。レイはかけいから落ちる水にひょうたんを添えようと体を伸ばしていた。

「もう少し!」

「微妙に遠い」

 僕が代わった。

 二人分の水を汲んだ。

「さすがはシンだね」

「これくらいはね」

 ふくよかな女が現れた。

 僕たちに気づいて、

「おや?」

 という顔をした。

 来客珍しいのだろう。

「見ない顔だねえ」

 女が前かけの紐を結びなおしながら声をかけてきた。水場に置いたカゴには小さい魚が積まれていた。

「ここはミタフですか?」と、僕。

「そうだけど?」

「馬飼いのミタフさんから伝言を預かって来ました」

 僕が言うと、

「ああ。お使いかい。若い二人が楽しそうにしてたんで邪魔しちゃ悪いかと思っちまったよ」

 声を聞いてかどうか、あちらこちらの戸が開いて、同じように女たちが現れた。歳は僕くらいから老婆までが揃っていた。老婆は彼女の指定席の岩に腰を掛けて杖に手を置いた。特に彼女自身は何をするわけでもなく、あちらで洗濯をし、こちらで魚をさばき、また菜を持ってきた女たちのすることを見ていた。

「で、誰から誰への使いだい?ここのみんなはミタフなんだよ」

 僕が戸惑っていると、あちこちで笑いが起きた。ここに住む者はミタフの〇〇、✕✕のミタフと呼ばれているとのことだ。僕は馬飼いのミタフに頼まれたということになる。

「あんたら夫婦かい?」

 杖をついた老婆が尋ねた。少し音が聞き取りにくいが、ゆっくりと話しているので、レイが「はい」と答えられた。ちゃんと聞いているのかも覚束ないような顔をしていた。

 いくつだ?

「馬飼いから伝言というのは?」

 老婆が言うと、

「ズミからの伝言です」

 レイが答えた。

 革帯から板きれを出した。そこにはズミが言うことを僕が鉄筆で削り書いたものが記されていた。

 魚をさばいていた、ふくよかな女が手を止めて振り向いた。

「まあ、ズミからかい?この前から急にいなくなったと思えば、馬飼いなんてところにいたのかい」

「ずみに会いました」

 レイは板きれを渡した。

「どっちが上だい?何かガタガタした下手くそな字だねえ」

 それでも女は笑みを浮かべていた。

 僕は苦笑した。

「ズミは字が書けるのかい?わたしは字が読めないんだよ」

 僕が書いたと言うと、あちらこちらで笑いが起きた。せっかく若い夫婦が訪ねてきてくれたのに、気を悪くしてしまうと、また笑った。

「あんちゃん、読み書きできるなんて賢いね。ズミに習わせないと」


 トマヤへ

 げんきですか

 馬、乗れます

 許してね

 

 僕が読んだ。

 また皆が笑った。トマヤは水場に腰を下ろすと、再び小さい包丁の背でうろこをおこした。心なしかうろこを起こすリズムが弾んだ。

 僕とレイは小さなベンチに並んで腰を掛けさせられた。僕たちの任務は呆気なく完了した。どこかで誰かが「せっかくの客なのに何もしてやれなくてすまないね」と、たいして申し訳なさそうでもなく言った。

「しかしまあ、元気でやってるんならいいわ。馬に乗れるのかい。ああ見えても女の子だからねえ」

「え?」

 僕は驚いた。

 レイが隣でニヤニヤした。

 わざと黙っていたな?

 聞いたところ、ズミに一緒に入るようにせがまれたらしい。

「なぜ?」

「わからない」

「二人になりたかったのかな?」

「わたしと?」

 二人で話していると、

「何、二人して仲良くコソコソ話してるんだい?熱いね」

 さばき終えたトマヤが笑った。

 「何を許すんですか?」

「いろんなことだね」

 老婆が答えた。古今東西、男が許しを請うのは浮気しかないだろうと付け加えると、またあちこちで笑いが起きた。皆、僕たちの話をよく聞いていた。どうも掴みどころのない会話に捕まえられた気がする。

「今はいいかもしれないが、お嬢さんも気をつけておくんだね。首輪でもつけておくがいいさね」

「付けられてます」

 僕は答えると、またどっと笑いが起きた。笑わせている気ではないんだけど。レイが笑いながら僕の首を手で掴んでみせた。そんなことしなくても締められるくせに。

 浮気なんてしませんよと言おうものなら、誰が自分が浮気しますなんて言うもんかと、どこかから言葉が飛んできた。これはずっと許してくれそうにない。

「いつの世も男は身勝手なことしてるんだよ。都合が悪くなると逃げてくる。尻拭いは女だ」

「そうですよね!」

 レイは楽しそうだ。こんなに楽しそうにしているのは初めて見るような気がした。

「まあ、元気にしてるんなら許してやろうかい」

 トマヤが僕に笑いかけた。それから僕の顔をグッと覗き込んだ。ほんのわずかに睨んだかと思うと、

「お嬢さん、なかなか良さげな旦那さんじゃないか。肝があるよ。婆ちゃんの言うように逃がさないようにせんとね」

「逃がしません」

 レイは余裕の笑みを浮かべながら仕込み杖の鯉口を覗かせた。また笑いが起きた。

「怖いねえ。でも女はそれくらいでないと幸せにはなれないよ」

 トマヤが頷いた。

「ところでどこまでがミタフなんですか?」

「どこまでもないさ。ミタフの村から逃げてきた連中がたむろして住んでるからミタフさ」

「逃げてきた?」

「それは旅の人は知らなくてもしようがないね」

 老婆は杖で湖を差した。

「あのコロブツの湖の奥、もうちぃと下に小さい湖がある。そこにわしらの村があるんだがね」

 老婆は杖を持ち替えた。

 嫌な気がする。

 レイは心なしかそわそわしているように見えた。逆に僕はそんな彼女の様子を楽しんでいた。

「もうだいぶ前のことだ。バケモノに棲まれてしもてな。口さがない連中らはミタフは呪われた、呪われた村だの言いよる。わしらバケモノのせいで畑も家畜もやられてしもうてな。子供が生まれても育てることもできん。ついには村を捨てんといけんようになってしもた。で、ここに越してきたというわけだ。他に越したもんもおるが、今ではどこにおるのかわからん」

 皆、黙り込んでいた。何度も話してきたし、聞いてきた話だ。改めて話す機会もないのかもしれない。

「しかしなあ、あれはついこの前のことだな。どこの誰だか堰ごと村を流した奴がいるとの話だ」

 結局、戻るのか。

 レイは正面を向いていた。

「ところでおまえさんらはどうして旅なんてしとる?」

 僕は聖女教会へ呪われた剣のお祓いに来たと話した。

「これがそうか?」

「ええ」

 レイは女王の剣を掲げた。布きれに包んだまま、空に向けた剣を見上げた。僕はレイの様子に内心溜息を吐いた。何を言おうとしているのかわかるということは、僕も同類だということかもしれないが、今は面倒なことは関わるのは遠慮したい。

「バケモノがいなければ村へ戻れるの?」

 ほらね。

 僕は首筋を指で掻いた。

 呆れたわけではないよ。簡単に約束なんてしていいのかね。こちらの命も二つも三つもないんだしさ。

「戻れるのかね」

 老婆は呟いた。今さら戻れたところでどうなるわけでもないという諦めを含んでいる気もした。

「ここで幸せなの?」

 レイは尋ねた。

 レイ、それは繊細なことだよ。

 だから……

「幸せかどうかと問われれば答えられんなあ。お嬢さんは真っすぐな子だね。旦那さん……」

「すみません」

「謝ることはないさ。こんな子泣かせちゃいかんよ」

「ズミは追い出されたの?」

「冗談よしてくれ」

 トマヤが笑い捨てた。

「知らんうちに消えた。こんなところでいつまでも隠れるように生きていけんもんね。出ていくのはしようがないとは思うとる。でも追い出すことはないよ。皆、身内だ」

 トマヤは手拭いで顔を拭きながら答えた。言葉は怒気を含んでいた。

「ごめんなさい」

「ああ、そうか。あんた……」

 トマヤは前掛けを外して、ふくよかな体でレイを抱き締めた。レイはじっとしていた。コロブツの街にレイの新しいお母さんができた。

「なぜ呪われたの?」

「もういいんだよ。あんたまで不幸になることはないんだから」

「教えて」

 トマヤは戸惑いつつ、

「領主様を怒らせたからだよ。わたしも聞いた話だ。初めは六つの村があった。領主様が来て、豊かにしてくれた。でもわたしたちは欲に飲み込まれた。でも昔の話さ」

 ちょうど川下りならぬ溝下りをしていた子供たちが、重い空気を破るようにガヤガヤと戻ってきた。

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