ふたりぐらし

せなみあお

第1話

1. シナガ


 生活において幸せか不幸せかはそれほど関係がないと思う。一日の中で幸せだと思う瞬間なんてきっとそれほどなくて、不幸せだと思う瞬間もそれほどない。ただ、人生において幸せか不幸せかが重要になってくるのは自分が幸せだと、幸せな人生を送ったのだと思いたいからで自分が死ぬ間際にいい気持ちになりたいからなんじゃないかなと思う。

 別に、これまでを塗り替えてしまうほどの運命的な出会いだとか宝くじに当たって大金を手に入れただとか、目に見えた幸せじゃないとしても死ぬ間際であればあのパン屋さんのクリームパン美味しかったなぁとか、あそこの珈琲屋さんのアメリカンコーヒーは自分的に世界一だなとか。そんな生活の中での幸せだと感じたことを思い出して噛み締めて『あぁ、幸せだったなぁ。』と死んでいくんだろう。

 私は今、コーヒーを啜っているだけで、幸せとも不幸せとも感じてなどいないし死ぬ間際でもないけれど。



 家の近くにパン屋さんはないし、珈琲屋さんだってない。宝くじはそもそも買わないから当たる以前の話だし。周りにあるのは田んぼと畑とたばこ屋で、コンビニまでは徒歩で四十分。特に趣味はないし、昼に起きてもう一回寝て十四時に起きてコンビニまで歩いて、適当に弁当を買って帰ってきて食べる。ベランダでたばこを吸って、シャワーを浴びて寝る。それで終わる。それで私はいいと思っているし、わざわざ車を借りてまで街に出ようとは思わない。強がりだと人から言われるけれど、間違ってはいないんだと思う。高いビルや息の詰まるような人混みよりも、高い建物もなくて人もいない日当たりのいい風通しもいい田舎の方が好きだ。少し田舎すぎたなと、多少後悔はしているけれど。田舎で、私の給料でもそれなりに生活していける所が今の家だった。本当に何もない所だけれど、息はとてもしやすい。


「おはよー。シナガちゃーん。」

 私は、築四十二年の二階建てアパートの二〇四号室に住んでいる。

 私のことをシナガちゃんと呼ぶこの人は、同居人のカエさんだ。私たちはお互い本名で呼び合わない。私の本名は「シナガ」ではないしカエさんの本名も「カエ」ではない。けれど、お互いが分かるのなら、なんだっていいと思う。

「おはようございます、カエさん。」

 肩につくくらいの少し茶色い髪を手で撫でながら起きてきたカエさんは、目を丸くしていた。私が起きているからだろう。

「早起きだねぇ。」

 そう言いながら、指の間にたばこを挟んでベランダへ出ていく。なんとなくお腹が空いて。と、答えながらコーヒーを啜る。

 世界を一発殴ってやりたい時に、カエさんはたばこを吸うらしい。私はカエさんのことをきっとほとんど知らないけれど、カエさんらしい理由だなと思った覚えがある。

 ふー。とカエさんが煙を吐く度に風向きの影響で私の方にも煙が届く。カエさんの吸っているたばこは、なんだか少し甘い香りがする。私がコーヒーを飲み干して食器を片付ける頃にカエさんの細い指に挟まっていたそれを飽きたのか、それとも世界を殴ってやりたい衝動が収まったのか分からないけれどもう片方の手のひらに押し付けた。正確には小さな灰皿に。それからカエさんがこちらを振り向いて、私としっかり目を合わせてからにやり。とイタズラを考えているような顔で笑った。




 徒歩四十分かかるコンビニまでの道を、小学低学年以来やっていなかったグリコをしながら歩いた。何十年ぶりかにやったグリコはそれなりに、とても楽しかった。カエさんと一緒だったからかもしれない。

 グリコは、グリコのおまけでカエさんが勝った。負けた方の奢りだと話したのに、勝ったからとカエさんが奢ってくれた。


 帰り道は、ビール六本とさきいかが入ったビニール袋を前後に振りながら、コーヒー味のパピコを二本くわえたカエさんの愚痴を聞いていた。多分仕事の愚痴なのだろうけれど、なんせパピコ二本食いである。何を話していたのかは分からない。



 次の日、カエさんはいつもより早く家を出ていった。仕事が忙しいのかもしれない。月、木、土曜日はカエさんが洗濯物担当だ。忙しい時は遅くに出る方がやるということになっているけれど、洗濯物はちゃんと干してあった。ちなみに火、水、金曜日は私が担当だ。日曜日はじゃんけんで決める。食事はそれぞれ好きなように。私たちの生活のルールはそんな程度だ。


 カエさんは、三十代後半で広告を作る会社に通っている。広告会社のことはよく分からないけれど、五月から七月の終わりくらいまでは忙しいみたいだ。私は今、生きることに専念している。去年の秋終わりに体調を崩して休職中だ。貯金は少しはあるが、収入を得られるようになるまでどのくらいかかるか分からない。とカエさんに伝えたら「お金はいい。生きていれば、生活なんてどうにだってなる。シナガちゃん、今までよく頑張ったね、少し休憩しよう。」と言われて、社会に出てから初めて人前で声を出して泣いた。


 十時、着替えて外に出た。自転車で一時間かけて病院へ行く。今日は月に一回の通院日だ。

 それほど大きくはない病院は、いつも少しだけ混んでいる。二十分程度の診察を終えていつもの抗うつ薬と少し強めの睡眠薬をもらった。私は最近、あまり眠れていない。そのせいか、病院に行っただけで疲れ果ててしまった。玄関のドアを閉めたところで、崩れるようにして座り込みそこからしばらく動けずにいた。ビニール袋の擦れる音が聞こえて、ドアが開いた。

「シナガちゃん、おかえり。病院行けたんだね、お疲れさま。」

 私のそばに落ちていた袋を拾って、静かな朗らかな声で、両肩を包んでくれた。私は、なんて答えたのか分からない。ただ、目が覚めた時私はベッドで。お昼だった。



『おはよう。インスタントのスープあるよ。お薬、ちゃんと飲んでね。行ってきます。』


 テーブルの上に、数種類のインスタントのスープと一緒に置き手紙があった。私が食欲がないのを知っているみたいだ。並んでいる中から、ほうれん草のスープを手に取りお湯を注ぐ。スプーンでぐるぐると軽くかき混ぜてから火傷しないように、ふーふーしてから飲む。じんわりと、体とそれから心があたたかくなるのを感じた。それから、洗濯物を干した。


ベランダでぼーっとしていたら、カエさんが帰ってきて起きている私を見て、安心したような少し泣きそうな顔をして微笑んだ。

「おかえりなさい、カエさん。」

「うん、ただいまーシナガちゃん。」

スープありがとうございました。と言ったら、パピコを片方くれたので二人で並んで食べた。

もうすぐ、八月が来る。



2. カエ


仕事終わりに家に帰って、一緒にご飯作って食べて別の部屋で寝て、たまにリビングなんかで寝たりもして。恋人でもなくて、結婚もしなくて。男とか女とか年齢とかどっちでもいい、どうだっていいからただ、一緒に生活をするパートナーがほしい。


いつの頃からか、そう思うようになった。それを口にしたことはなかったけれど、言わずにいて良かったと思う。

二十代後半になって、周りがどんどん結婚していった。親にも、いい人はいないのか散々聞かれた。恋人がいなかったわけではない。二十三歳から付き合っていた恋人は、居た。ただ、家族になることは考えていなかった。向こうもそうだったんだと思う。

自殺癖のある人だった。不安を抑える薬を常に持ち歩いていて、薬がないと眠れなくて「ごめん。」と「死にたい。」が口癖だった。特に夜中から明け方に、症状が酷くなるみたいで、よく電話がきた。


「死にたい。」

開口一番に言うのはいつもそれだった。泣いたあとなのか、またお酒でも飲んだのか声が枯れている。

「サク、電話くれてありがとう。」

サクとのやり取りは毎回電話だった。サクは、頭の中がぐちゃぐちゃになっていて文字を打とうにも打てないし、私は私で声を聞いた方が状態が分かるからお互いに良かった。電話をかけてはくるけれど、特に何か話すわけでもなくてお互い無言でいる。時間も時間だから私はいつも眠くて途中で寝てしまうけれど、サクは眠れずにずっと起きていることが多い。

「いつも寝ちゃってごめんね。」

一度だけ謝ったことがあるけれどサクは、電話するのはボクのわがままだし生活音があると少し安心するんだ。と微笑んでくれた。


サクと付き合っていることは、親には言えなかった。精神疾患を認知していなかったからだ。いや、実際には認知はしていたはずだけどそんなものは存在しない。という人たちだった。理解する、しない以前に理解したくない。という人たちだった。


サクとの結婚は考えていなかったけれど、サクのことは好きだったし少しでも元気になって欲しい。と本気で思っていた。

サクと付き合い初めて二年、私が二十五歳の春終わりにサクは死んだ。二十七歳だった。少し気温の高い日で、なんとなく体が怠い日だった。ちょうどその日は休みで、久しぶりに顔を見たいなとサクの家に行ったらロフトのベッドの縁にロープを結んで、首を吊っていた。遺書などは特になかったけれど、テーブルの上に私が置いていったピアスが転がっていた。

ドラマや漫画みたいに、人間は死を目の前にした時に叫べないのだとその時思った。

電話がかかってこない日が続いていて、本人も少し調子が良い。と言っていた。だから安心していたんだ。少しずつ回復しているんだと。


後で調べて知った。回復してきた時が一番自殺する可能性が高いんだと。少し動けるようになった時が、一番危険なのだと。

どうしてもっと早くに調べなかったのだろう。知っていたら、サクが死ぬのを防げたのではないか。私が、サクを繋ぎ止めるしかなかったのに。サクの両親は早くに他界していて、サクには私しかいなかったのに。それなのに私は。


私が、サクを殺したんだ。


私は、死んだサクを目の前にして泣いた。泣いて悔やんで、責めることしかできなかった。遺されてしまった私にはもう、何もできなかった。


それから日々が過ぎて、サクと似た子を見つけた。ただの、自己満足だったのかもしれない。過去の自分を、正当化したかったのかもしれない。あの時救えなかったから、今度はこの子のことを救いたいだなんて思ったのかもしれない。気がついたら私は、シナガちゃんの手を握っていた。死にさらわれそうな人の手を握ることの重さを、私は知っている。あの手この手で繋いでいる手を引き剥がそうとする相手の手を繋ぎ止めることの難しさも、私は痛いほど知っている。


シナガちゃんが玄関で座り込んでいた日、シナガちゃんが眠るまで見守っていた。帰ってきてシナガちゃんが起きていて、生きていてくれて泣きそうになった。

怖かった。また、手を離されてしまうんじゃないかと。


私たちは、お互いのことをほとんど知らなくて友達でも、ましてや恋人でもなくて。他人同士だけど、だからこそお互いに息のしやすい距離感が分かっていて、生活できているんだと思う。


「カエさん、おかえりなさい。」

この子の、おかえりなさい。をずっと聞いていたい。コンビニまでの道をグリコをしながら歩きたいし、パピコの片方をあげたい。

そういう二人暮しを、続けていきたい。

「ただいまーシナガちゃん。パピコあるよ、食べよーよ。」

二人で並んで、パピコを分け合う。誰かと食べるご飯は、何でも美味しい。

ベランダから入ってくる風が、気持ちのいい温度になった。もうすぐ、九月になる。



3. シナガ


『少しは良くなったの?

心の調子は、どうしたって悪くなるものなんだから。あなたももう二十代後半になるんだし、いい人を見つけてみたらどう?何か変わるかもしれないよ。』


母からのメールには、もう随分返信していない。開くのにも一週間近くかかる。内容は大体同じで、開く度に心が重くなる。心配してくれているのは、よく分かっている。それが少し負担だ。


仕事復帰しないとそろそろやばい。とは私だって思う。生活費をカエさんに払い続けて貰うのも申し訳ない。それが伝わったのかこの間「焦るのはよくないよー。ゆっくりいこう。お金は気にしないでって、前に言ったでしょー?」と言ってくれたけれど、その時の私はなんだか焦っていてほんの少しだけイラついていて、言い合いになってしまった。

カエさんはずっと困った顔をしていて、そんな顔をさせてしまうことが苦しくて申し訳なくて、最後は部屋に閉じこもってしまった。

次の日に起きたら、カエさんはベランダでぼーっとたばこを吸っていて私に気がついて微笑んだ。

「おはよう、シナガちゃーん。」

「おはようございます。カエさん。」

あんまりにいつも通りで、私も返してしまった。

それからカエさんの隣にいって、昨日はごめんなさい。と謝った。ふー。と煙を吐き出しながらこちらを向いてしっかり目を合わせてから、新鮮なシナガちゃんが見られて嬉しかったんだよー。謝らないでー。と頭を撫でられた。


毎月通っている病院で、一年前より良くなりましたね。すごいスピードです。と言われた。一年かけて、だ。ものすごく遅いと思っていたのに焦っていたのに、とても早いらしい。なんだか少し、ホッとしてコンビニでパピコを買って帰ったらカエさんもパピコを買ってきていて、二人して笑った。


「アイス食べるのにも肌寒い季節が近づいてきたねぇ。」

いつも通りベランダからの風に当たりながらアイスを食べていたら、カエさんが呟いた。もうすぐ十一月になる。確かに少し肌寒い。

「ま、ベランダ閉めて部屋の中あったかくして食べたらいいかー。」

そう言いながらカラカラと扉を閉める。

カエさんと二人暮しを初めてもうすぐ一年が経つ。私が体調を崩して休職したのと同じくらいの時期に、カエさんとの二人暮しが始まった。居心地のいいこの人との生活を、できる限り続けていたいなと思う。カエさんはきっと、結婚願望が無いわけではないと思う。そういうことを実際に話したことはこれまでないけれど、カエさんに恋人がいたことは知っている。それだけしか、私は知らない。カエさんも、私に恋人がいたことは知っているけれど、結婚願望があるのかどうかは知らないし体調を崩した理由も知らない。そういう関係が、距離感が私たちには丁度いい。

一年かけて、私はちゃんとご飯を食べられるようになった。食欲はまだ戻っていないからそんなに多くのものを食べることはできないけれど。

スープだけだった食事が、今は白米と少しのおかずが加わった。それから、カエさんと一緒に食べることが増えた。


「シナガちゃーん。」

のんびりとした優しい声で、私の名前を呼ぶこの人は他人以上友達未満の私の同居人。

「お腹空いたー?」


お互いのことなんてほとんど知らないけれど、家に帰って、一緒にご飯を作って食べて別々の部屋で寝る。そんな二人暮しは、これからも続いていく。


「はい、ペコペコです…!」



幸せか不幸せか、私は今分からないけれど死ぬ間際にはきっとこの生活のことを思い出すんだと思う。

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ふたりぐらし せなみあお @kokona0216

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