第48話 終焉のゆりかご
温かかった。
その場所は、慈愛とぬくもりに満ちた空間だった。
「……シン、降ろして……ください」
リンに言われ、シンは彼女の身体を地面に降ろした。
地面。
そう、ここは部屋ではなかった。だが、かといって外と呼ぶにも違和感がある。
ベトベトとした粘膜に覆われた、摩訶不思議な空間。
気味は悪いが、不思議と不快な印象は受けなかった。
シンはリンと並んで、粘膜の上にうつぶせに横たわった。
「なんか、あったかいな」
「うん、あったかい」
心地良い。
それは事実であり、真実だった。ネバネバとした感触も、まったく不快には感じない。シンは身体をクルリと半回転させ、うつぶせから仰向けに体勢を変えた。
間を置き、リンも仰向けになる。
「なんか……でも、変な気持ち」
心地は良い、それは確かだ。
でも――。
「……うん、変な……気持ち、です」
リンも、同じ表現で違和感を告げる。
変な気持ち。
それはなんとも抽象的な表現だが、そうとしか言えなかった。こんな気持ちは、味わったことがない。
(こんなの……変。なんか……変だ)
高揚。
異常なほどの、胸の高鳴り。
爆発しそうなほど、激しく鼓動が波打っている。けれども、それでいて心は穏やかに安らいでいた。相反するふたつの感情が、同時に心中に居合わせているのだ。
変。
そうとしか、表現できない心境だった。
「……シン、怖い……ですか?」
リンに訊かれ、シンはゆっくりと首を左右に振った。
「怖くないよ。リンが、そばにいるから」
はっきり答えて、リンに微笑みかける。
「……わたしも、シンが一緒だから……怖く、ない……です」
リンも笑ったが、それは弱々しい、疲れたような微笑みだった。
(……リン)
無理に不安をかき消し、もう一度、シンはリンに微笑みかけた。
そのまま、彼女のほうに右手を伸ばす。
リンも同様に、シンのほうへと左手を伸ばしたが、二人の手が触れ合うことはなかった。
ごぅ!
一瞬。
それは、本当に刹那の出来事だった。
脈絡なく、前兆もない。
ただ、唐突にそれは起こった。
粘膜の床から、竜巻のように無数の糸が巻き上がる。
シンの身体は、あっという間にその無数の糸に飲み込まれた。
そして――。
糸の
◇ ◆ ◇
そこは、部屋の中だった。
ふわふわの椅子。映像を映し出す四角い箱。さらにそれを手のひらサイズにまで小さくしたような物体。
知らないようでいて、知っている。知っているようでいて、知らない。
そんな物の集まりの中に、彼らはいた。
「メイちゃん、自信満々に言ってた会得した料理ってゆでたまごだったの……?」
「ゆでたまご、だったの……」
「で、そのゆでたまごも失敗した。姉ちゃん、なんか作ってくれ。俺ら餓死する……」
「餓死する……。サキ姉……お願い。あたし、もう調子乗ったこと言わないから……」
「……ハァ」
ツンとした女の口から強烈なため息が落ちる。隣に映る男は完璧な土下座をしていた。
やがて、意識が返る。
不思議な光景が終わると、シンは真っ先に視線をリンへと移した。
すぐ近くで、自分と同じように糸の棺に閉じ込められている彼女のほうへと。
見える。
糸は蟻の這い出る隙間もないほどびっしりと張り巡らされているが、なぜか視界の妨げにはならなかった。
だから、リンの姿も鮮明に見ることができる。彼女は、不安そうな目でシンのほうを見返していた。
(……リン、大丈夫だから)
それは、自分に言い聞かせるための言葉でもあった。
これから何が起こるのか。
不安な気持ちは、当たり前だがシンも同じだった。
◇ ◆ ◇
糸の棺に囚われて以来、シンはひんぱんに不思議な光景を見るようになった。
それは目をつぶっていても、勝手に頭の中に流れ込み、一定の時間が過ぎると波が引くように消えていく。自分の意志ではどうにもできない事象だった。
そして、シンは今もその不思議な光景を目の当たりに見ている。
巨大な円形の空間。
中央の広場で、数人の男たちが小さな球を使って何かをやっている。その周りを取り囲むようにして、数え切れない数の人間が大きな声を張り上げていた。
彼も、その中の一員だった。
「くそっ、なんでそこで代えるんだ? 別に左を苦にしてねえだろ!?」
「あーッ、振れよ! せめて振れっ! 見逃し三振って、最悪じゃねえか!」
「あっ、お姉さん、ビールふたつ!」
ため息が、聞こえた。女の、ため息だった。そのため息が、スイッチとなる。
頭の中から映像が消え、意識と視界が元に返る。
シンは決まりごとのように、リンのほうへと視線を向けた。
不安が、心を強く締め上げる。
両腕でひざを抱え込むようにして座るリンの姿は、歴然と弱っていた。
こちらを見つめる両目も、力なく落ちくぼんでいる。
シンは立ち上がって、すぐにでも彼女のそばに寄りたかった。けれども、経験上、この糸の棺から出ることが叶わないのもまた分かっていた。
――がんばれっ!
ただ、その思いを眼差しに込め、リンの瞳を強く見つめる。
それに応えるように、リンは弱々しいながらも小さく一度頷いてくれた。
シンも、頷く。
頷きを返すことしか、できなかった。
ほどなくしてリンが疲れたようにうな垂れると、シンはそっと目の上を押さえた。
涙が、どっとあふれて止まらなかった。
◇ ◆ ◇
今度の光景は、異様だった。
家の庭で、男が一人、空を見上げている。いつもの男だ。だが、彼の様子はいつものそれとはだいぶ違った。
何も喋らない。
無言のまま、ただよどんだ空だけを見つめている。長いあいだ、おそらくは何分間もずっと。何かを思いふけっているようにも見えた。
「早いなぁ……。おまえがあっちの世界に行ってから、もう半年以上たつよ。半年以上たっても、たまにこんな気分になる。まあ、一年後はどうか知らねえが……」
ボソリと、男がつぶやく。そのとき、小さな水の塊がポツリと彼の頬を叩いた。
雨。
そう、これは『雨』だ。間違いなく雨。でも、頬に触れると、まるで涙のようにも見えるとシンは思った。
涙。
自分が今、流しているもの――。
意識が返り、視界が現実をとらえる。
グッタリと横になったまま、貧弱な呼吸を繰り返すだけのリン。
シンは悟り、そうして覚悟した。
覚悟しなければならないことを、ただ覚悟した。
◇ ◆ ◇
浮かんだ光景は、白だった。
長い時間、白い壁だけが視界を覆う。それだけだった。ただ、それだけ。ほかは何もない。延々と、その白を見続けるだけだった。
やがて――。
白が弾け、意識が返る。
シンは両目をひらくと、じっと正面を見据えた。
見つめる場所は、そこしかなかった。
もう、隣を見る価値はない。
そこには何もないのだから。
ただ、在るのは、動かなくなったひとつの肉塊。
ほんの少し前まで、リンだった肉塊。
今は、リンじゃない。
シンは一瞥たりともくれなかった。
彼は正面を見据えたまま、ただ時間が過ぎ去るのを待った。
◇ ◆ ◇
記憶が、消えていく。
どうでもいいことから、すごく大事なことまで。
最初に忘れた大切は、スカーフェイスの少年。
彼は、なんという名前だったか。
彼とは何度も戦ったような気がする。
それでも、シンは彼のことが嫌いではなかった。
戦ったり、助け合ったり――でも、最後は満ち足りたような顔で別れを告げた。
満ち足りたような顔で――?
そう、だったか……。
いや、それ自体、うまく思い出せなくなっている。
そうして、やがては彼のことを完全に忘れてしまうのだろう。
いや、彼だけじゃなく――。
シンは両手で頭を抱えると、身体を小さく折り曲げた。
怖かった。
◇ ◆ ◇
赤い髪の少女の名が、出てこない。
馬鹿で、明るくて、優しくて、強気な性格だけど情に厚い。
シンは、彼女のことが大好きだった。
彼女といると、安心できた。
彼女の笑顔を見ると、心が安らいだ。
あの安らぎが、消えていく。
忘れたくない記憶が、忘れてはいけない思いが、消えていく。
空虚が、シンの心を蝕んだ。
◇ ◆ ◇
ヒョーマ。
彼との思い出は、格別だった。
楽しい思い出、温かい思い出――。
多種多様な思い出が、彼とのあいだにはあった。
あった、はずだった。
でも、今、覚えているのは『彼を見捨ててしまった』という張り裂けるようなつらい気持ちだけ。
シンは、願った。
この辛苦の思い出も、早く消えてなくなってくれと。
それからまもなく、彼の望みは叶った。
◇ ◆ ◇
一心同体。
彼女はまぎれもなく、シンの半身と呼べる存在だった。
彼女の喜びは、シンの喜び。
彼女の悲しみは、シンの悲しみ。
けれども、彼女の死はシンの死にはつながらなかった。
それは、無常の
「……リン」
シンは、彼女の名をつぶやいた。
忘れてしまわないように。
消えてしまわないように。
離れてしまわないように。
でも。
忘れて、消えた。
最後の砦が、シンの心を離れ、彼は孤独と巡り会った。
◇ ◆ ◇
終わりが、近づいている。
シンは、虚ろな頭でそのことを理解した。
終わる。
全てが、終わる。
身体が、溶けていくような感覚。
今までの自分が、静かに消えていく。
終焉。
死とは違う、終わりの形。
だが。
(……違う)
違う。
シンは、唐突に理解した。
これは――。
そう、これは――。
終わりではなく、
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