第41話 癒えない傷
夜である。
アカリを看取ると決めてから七回目の夜。彼女の身体は歴然と弱っていた。
「……もう、食わないのか?」
「……うん、もうおなかいっぱい」
好物のシシ鍋をたった二口食べただけで、アカリが箸を置く。
朝も昼も同様だった。
同時に、ベッドから起き上がることも少なくなり――今日は一度もベッドを降りていなかった。
「……シンとリンは、もう寝た?」
「ああ、隣の部屋で熟睡してるよ。にしても、あいつら、一日中、おまえのそばをひっついたまま離れねえ。四六時中だ。ウザくねえか?」
「……ぜんぜん。かわいい。もっと早く甘えてきてくれれば良かったのに……」
「考えらんねえ。俺だったらウザくてしょうがねえけどな。気が休まらねえよ」
何をするにもチョロチョロと後ろをついて歩かれたり、一日中、ベッドのかたわらに立たれていたり――考えただけでも気が滅入る。ヒョーマは深く嘆息した。
と、気を取り直し、アカリに訊く。
「どこか痛いとか、苦しいとか、ないか?」
「……うん、へいき。シンが、痛みとか苦しみとか軽減する魔法をたくさん唱えてくれたから。どこも痛くないし、そんなに苦しくもない。かったるさはだいぶあるけど……」
「そうか、ならいい。飲み物、なんか飲むか?」
「……ううん、いらない。それより、ちょっと外の空気が吸いたいかも」
「外? 夜だぞ。寒いけど、大丈夫なのか?」
「……へいき。ちょっと吸いたいだけだから。悪いけど、肩貸してもらえる?」
「おぶるよ。遠慮はいらねえから、背中に乗れ」
「えぇ……。なんか地味に恥ずかしいんだけど……」
「誰も見てないんだから、恥ずかしいもクソもないだろ?」
「……あんたが見てるじゃない」
「おぶったら見えねーよ。頭の後ろに目はないからな」
「……そーゆう意味で言ったんじゃないんだけど」
アカリが、ジト目で言う。
が、結局彼女はおぶられる道を選んだ。どう考えても、そのほうが効率的だと気づいたのだろう。手っ取り早さが段違いだ。
「明かりは、おまえが持てよ」
ヒョーマはアカリをおぶって小屋を出た。
出て一分と進まぬところで、だがすぐにアカリの制止にあう。この辺でいい、そういう意味合いであることは即座に分かった。
ヒョーマはその場にアカリを降ろすと、
「気分が悪くなったら、すぐに言えよ」
「……うん、ありがと」
言って、アカリが薄く笑う。
彼女は手に持っていたランプを軽く掲げて、
「……あたしたち、ずいぶん遠くまで来ちゃったんだね……」
「……ああ、ずいぶん遠くまで来た。長い道のりだったな……」
「……目玉焼きには醤油かソースか、の出会いから始まって、気づけばこんな山の上だもんね。まあ、目玉焼きにはぜったい醤油だけど。ソースなんて邪道よ」
「ああ、邪道だ。あの店で醤油派だったの、俺とおまえしかいなかったけどな……」
ソース派が、なぜか圧倒的に多かった。
「……目玉焼きにソースって、甘じょっぱくなっちゃうじゃない。めちゃじょっぱく食べたいのに……」
「塩かけて焼いて、食べる前に醤油が基本だよな?」
「基本ね。塩+醤油。これが目玉焼きの正しい食べ方よ」
胸の前で握りこぶしを作って、アカリ。
ヒョーマは、彼女と軽くグータッチをした。
「……目玉焼き、最近食べてないなぁ。話してたら、なんか急に食べたくなってきた」
「ちょっとは食欲出てきたか?」
「……うん、ちょっとだけだけど。今だったら、シシ鍋もう一口いけそうな気がする」
「なら、温めてやるよ。卵がありゃ目玉なんてかんたんに作れたんだけどな」
「……いいよ。シシ鍋も大好きだし。てゆーか、シシ鍋のほうが好きだし。ねっ、チロ」
「チロロ―♪」
「いやおまえいたのか……」
アカリの胸もとからチロがひょっこりと姿を現す。相変わらず神出鬼没の小動物である。
嘆息し、ヒョーマは言った。
「じゃ、そろそろ小屋に戻るか。これ以上いると、身体も冷えちまうからな」
「……うん、了解。チロ、戻って一緒にごはん食べよっか。チロのはリス……コホッ」
「アカリ!?」
始まりは、軽めの咳がひとつ。
だが、それはあっという間に激しい咳へと昇華した。
「へい……コホ、ゴホ、ゴホッ、ゴボォッ!!」
吐き出された鮮血が、夜のとばりを絶望に染める。
ヒョーマは蒼白な顔で、アカリの肩に手をかけた。
そのまま、少し背中をさすってから、彼女の華奢な身体を抱き上げる。
アカリは、無理に笑って応えた。
「……へい、き。気合いで、ちょっとに……おさえた」
「…………ッ!?」
ヒョーマは、両目をきつくつむった。
やり切れない気持ちが、彼の心を侵食する。
再び両目をひらくと――ヒョーマはことさら、穏やかな口調を作って言った。
「……ベッドに戻ろう」
「…………」
ヒョーマは返事を待たずに振り向いた。
そのまま、一歩、二歩と歩を進める。
が、三歩目に至ったところで、唐突にアカリの声が耳に触れる。
「……ねえ、ヒョーマ」
ヒョーマは、歩みを止めた。
視線を落とし、アカリの顔を見る。
彼女は遠くを見るような目で、暗い夜の闇を見つめていた。
「どうした、苦しいのか?」
訊くと、彼女は小さく一度かぶりを振った。
若干の間を置き、そうして今度はかすれた声でつぶやくように言う。
それは、ヒョーマの心の脆い部分を槍で突き刺す一言だった。
「……弱音、吐いてもいい? 一回だけ、一回だけ……弱音吐いても……いい?」
「…………ッ」
ヒョーマは、何も言えなかった。
何も言えずにただ、頷くことしかできなかった。
言葉を発したら、同時にあふれ出てしまうだろう感情を抑える自信がなかったのである。
そうして、彼は黙ったまま、アカリの吐き出す言葉を聞いた。
こちらの胸もとを弱々しくつかみ、震える声で、しぼり出すようにして放たれた彼女の悲痛な心の叫びを――。
「……ヒョーマ、怖いよ。あたし、死ぬのが怖い……。このまま……消えてなくなっちゃうのが、怖いよ……。みんなと、離れたくない。この先も、ずっと一緒に……いたい。朝起きて、みんなと朝ごはん食べながら……いっぱいおしゃべりして……それから……チロと遊んで……それがもう、できなくなっちゃう……。もう少しで、できなくなっちゃう……。みんなと……離れ離れに……そんなの……嫌だよ、怖いよ、淋しいよッ。ヒョーマ、あたし……あたしッ、まだ死にたく……死にたくないよッ!!」
「…………ッ!!」
ヒョーマは、アカリの身体を強く抱きしめた。
彼女のむせび泣く声が、腕から伝って心に響く。
腕の中で、アカリはずっと震えていた。
それでも、彼女は決してそれ以上の弱音は吐かなかった。
言葉どおり、それは本当にたった一度の泣き言だった。
ヒョーマは、空を見上げた。
涙が一滴、頬を流れる。
ヒョーマは、初めて泣いた。
何もできない無力な自分と、変えることのできない不可避な未来に絶望の涙を流したのだ。
二日後、アカリは死んだ。
三人の心に、癒えない傷が刻まれる。
終焉の足音は、彼らの真後ろにまで忍び寄っていた。
これで、残る候補は三人となる。
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