第40話 二度とは帰れぬセピア色の日々


 夜が明ける。


 五時前にはすでに目が覚めていたが、シンは誰かが起きるまでずっと寝たふりをしていた。


 七時を過ぎ、最初に起きたのはリン。その数分差で、アカリが目を覚ます。残るヒョーマに起きる気配はまるでなかった。シンは彼の起床を待たずに小屋を出た。


「おはよ、シン。朝から特訓?」


「ううん、軽い運動。今は体力回復を優先すべきだから。それより、起きてて大丈夫?」


「全然平気。シシ鍋食べて、一日寝たらちょっと良くなったような気がする」 


 後ろをついてきていたアカリが、当然といった口ぶりで答える。


 彼女はそのまま、同じように小屋を出てきたリンに、


「リン、あの木まで競争しよっか? 今ならあのくらいの距離――」


「ダメです! しません! 走りません!」


「えぇ……。そんなムキになって断らなくても。走っても平気そうなんだけどなぁ……」


 アカリが、ちょっと残念そうにうつむく。


 リンはでも、その後の姿勢も一貫していた。


「あ、ちょっとそこでお水汲んでくるね」


「わたしがやります! アカリさんはそこで座って待っていてください!」


「あ、チロ。キレイなお花が咲いてるよ。一本抜いちゃおっか?」


「わたしが抜きます! この花で良いですか?」


「あー、ちょっと疲れたからひと休みー。ベッド行くの面倒だから、ここで横に――」


「おんぶします! ベッドで横になったほうがぜったい身体に良いです!」


「…………」


 ああ、それはこうなるだろうな、とシンは納得の息を吐いた。


「なんれふか……? なんれほっへらひっはるんれふか……?」


「あんたがウザいから」


 ニッコリ笑って、アカリ。リンの頬を引っ張る力は、なかなかに力強かった。


「もうっ、リンは過保護すぎ。まだあたしはそこまで弱ってない。きのうはちょっとつらかったけど……今日はもうへっちゃらなんだから」


「顔色も、きのうよりだいぶいいもんね」


 追随するようにそう言って、シンはアカリの隣に腰を下ろした。


 すぐに、彼女の手が頭に触れる。


 ありがとう、と言っているような気がした。


「ほら、リンもこっち座って。最高の景色よ。空気も美味しいし。おしり痛いけど」


 隣の地面をパンパンと叩いて、アカリがリンをうながす。


 リンは彼女にうながされるまま、アカリの隣――シンとは反対側の地面に腰を下ろした。


 アカリが、満足げに笑う。


「あたしたちの町、ここから見えるかなー」


「ぜったい見えないと思うよ……」


「そんなの分からないじゃない。こんな高いところにいるんだから、見えたって不思議じゃないわ。ほら、あのちっちゃいのとか、ワンチャンあたしたちの町かも」


「まあ、可能性はゼロじゃないけど。でも、距離的にはあの奥に見えるほうのが……」


「……わたしは、あっちのがわたしたちの町だと思います。方角的に……」


「えー、ぜったいあたしの言ったのがそうだって。ほら、あそこにあたしたちのウチが見える。間違いないわ」


 指で作った望遠鏡をのぞきこみ、アカリがいたずらっぽく笑う。シンは、心が痛くなるのを感じた。


 屈託のない顔で笑う、アカリ。


 今まで何度も何度も見てきた光景。


 この当たり前の光景が、もうじき消える。


 二度と再び、見ることができなくなる。


 本当に、もう二度と……。


 シンは左拳を強く握った。その思考を消す。今は考えない。考えないと決めたのだ。いつもどおり普通に過ごすのだと、ヒョーマと決めたのだ。


 そのときが、訪れるまで……。


「二人とも、覚えてる? あたしたちが最初に会ったときのこと」


「……敵同士でした」


「うん、敵同士。うわっ、なにこのコたち、超強い、って思ったの覚えてる。特にリンは小さい身体ですごい力だったし。あのときの左ストレートの痛みは今でも忘れられないわ」


「……あれ、ジャブです」


「ジャブだったの!? ものすごく痛かったんだけど!? てゆーか、一瞬意識飛びかけたんだけど!?」


 が、あれはまぎれもなくジャブだった。リンからしたら、軽く小突いた程度である。


「うぅ……地味にショックなんですけど。ジャブであたし、KOされかかったの……?」


「ヒーラーなんだから、別に恥ずかしいことじゃないと思うけど……。ヒーラーなのに、殴られるような位置にいたことは大問題だけど……」


 滅茶苦茶な陣形である。


 が、無論、ヒョーマの考えたそれではないだろう。


「アカリ、あの頃から陣形完無視だったもんね。ヒーラーが前線にいてビックリしたよ」


「当然じゃない。あたしは『戦うヒーラー』なんだから。自分で倒して、自分を癒すの。一人二役の最強戦士、タイマンでシューヤを倒せなかったのが唯一の心残りね」


「……一人二役。ゆでたまごも作れない不器用さで……」


「ゆでたまごは作れる! ゆでたまごも作れないのはあんたでしょ!? てゆーか、ゆでたまごで思い出したけど……」


 と、唐突にゆでたまごで思い出したアカリのどうでもいい話が始まる。


 いつものパターンだった。


 アカリと話していると、本題からいつのまにか話は横道に逸れ、一度逸れた話は二度とは元に戻らない。


 そして最後には「なんの話してたんだっけ?」と、お決まりの言葉を吐くのだ。


 でも、今回はいつものその流れにはならなかった。


 逸れた話は、すぐに戻った。出会った直後の、懐かしい日常の話へと。意図的に、脱線が戻されたのである。そのことが、シンにはたまらなくつらかった。


「シンとはわりとすぐに仲良くなれたけど、リンはなかなか心をひらいてくれなかった」


「……当然です。元々敵だった知らないヒトたちとすぐに仲良くなんてなれません……」


「すぐにって……。三か月くらいよそよそしかったわよ。同じ家に住んでたのに。あたしも知らないヒトと話すのは苦手だけど、リンは打ち解けるまでが長すぎ」


「……三か月は普通です。早くも遅くもないです」


「普通かなぁ……。まあでも、リンのほうから『……おはようございます』ってあいさつしてきたときはちょっと感動したかも。忘れもしないわ、出会って九十日目の記念の朝」


「……そんなことだけは完璧に覚えてるんですね。いつもは『三行の女』なのに……」


「当たり前じゃない。すっごくうれしかったんだから。初めて一緒にお風呂に入った日も覚えてるわよ。初めてトランプして遊んだ日も。てゆーか、三行以上覚えられるわよ!」


「……ツッコミ、忘れてなかった……」


 ぼそりと、リン。


 シンは軽く吹き出した。それにつられて、アカリも笑う。


 彼女はひとしきり笑ったあと、懐かしそうに両目を細めて、


「リンのそれ、久しぶりに聞いたような気がする。そのシリーズ、毎回、本気で腹立ってたけど、今はちょっと懐かしいなって思う。もう聞けないかもって思ってたから……」


「ぁ……」


 リンの顔色が、一瞬にして変わる。


 忘れていた何かを突如として思い出したように、彼女の大きな瞳に大粒の涙がじんわりと浮かんだ。


 アカリは「失敗した!」とばかりにがっくりと肩を落とし、


「……ああもう、あんたはまたすぐ泣く。いつからそんな泣き虫になったのよ。ほら、泣きやめーっ」


「ひぶ……っ、ひっぶ……ん、く……ないれないれふ……ないれ、ないれふ……」


 両のほっぺたを引っ張られたリンが、泣いてはいないと主張する。


 でも、一分待っても、二分待っても、三分待っても、リンの目からこぼれる涙は止まらなかった。


 シンは小さく一度息を吐いた。


 そのまま、リンのほうへと手を伸ばす。


 が、シンの手が彼女の身体に触れることはなかった。


 否、触れることができなかった・・・・・・のである。


「ふぇ……?」


 リンが、呆けたように大きな両目をパチクリさせる。


 気づくと、リンの身体はアカリの腕に抱かれていた。


 強く、彼女の腕に抱き寄せられていた。


「アカリ、さん……?」


 戸惑い気味に、リンがアカリの肩に手をかける。それでも、アカリは抱擁を解かなかった。


 何も言わずにただ、リンの身体を抱きしめる。


 やがてリンの手がアカリの肩から背中にまわると――アカリは柔和な笑みを浮かべて、閉ざしていた言葉の扉を解放した。


「泣き虫。でも、あたしのためにたくさん泣いてくれて、ありがと……」


「……んぐっ、ひぐっ……アカリ、さん……ッ!」


「リン、大好きだよ……」


 優しい言葉が、優しいトーンで紡がれる。


 リンは初めて、感情のおもむくままにすなおな思いを言葉に乗せた。


「……わたしもッ! わたしも、アカリさんのことが大好きです! 大好きです!!」


「……うん、ありがとう」


 心の糸が、切なく揺れる。


 シンは、とっさに視線を外した。


 こみ上げてくるものを、抑えきれなくなったのだ。


 でも、すぐに彼の視線は戻される。


 アカリの腕が、今度はシンの身体を抱いたのである。


 シンは、歯を食いしばって必死に耐えた。


 でも――。


「シンも、大好き……。二人とも、大好き……。この先も……ずっと、大好き……」


「…………ッ」


 シンの涙腺は、こらえきれずに崩壊した。


 アカリも泣いているのが、背中越しに伝わる。


 もうあの頃には戻れないのだと、三人の涙が如実に物語っていた。

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