第39話 絶望のしゅう雨


「ぁ……」


 リンの口から虚脱の息が漏れる。


 ヒョーマも、全身の力が抜け落ちていくのを感じた。


 飾り気のない、木製のベッド。


 山小屋についてすぐ、ヒョーマたちはアカリをそのベッドに寝かせた。寝かせて、それから躊躇なく彼女の服をまくる。想像していた以上の姿が、そこには広がっていた。


「……ごめん、なかなか……言い出せなくて……」


 アカリが、弱々しい声で言う。


 その声を聞くだけでも、ヒョーマは胸が締めつけられるような気持ちになった。


 病気になっても、怪我をしても、彼女の声はいつでも力強かった。


 うるさいくらいに元気だった。


 元気だったのだ。


「……アカリ、痛いところない?」


 アカリの身体を濡れたタオルでふいていたシンが、唐突に訊く。彼女の身体はもう、その八割近くが毒の黒に冒されていた。


「……平気。さっきよりだいぶ落ち着いたから。痛くもないし、苦しくもないよ」


 そう言って、アカリが笑う。


 自然な笑みだった。


 心配させないように、あえていつもの笑みを作ってみせたのだろう。でも、それを見て心が安らぐ自分がいたのも確かだった。


 現状は何も好転していないのに……。


「……わた……し……の……せい、です……。あのとき……わたし……が……」


 焦点の合っていない瞳で、リンがポツリポツリと言葉を落とす。彼女の顔は真っ青で、全身は痙攣するように小刻みに震えていた。


 アカリはそんなリンの頭にそっと手を置き、


「……もう、そーゆうこと言わない。あのときは立場が逆でもおかしくなかった。たまたま、前にいたのがあんただったってだけ。ノーダメで救出できなかったのはあたしが未熟だったからで、あんたに責任なんてない。そもそも、アイツの爪にあんな追加効果があったなんて……あのときは分からなかったし」


「……でも……アカリ、さん……が……アカ、リ……」


 リンの目から、大粒の涙があふれてこぼれる。彼女は崩れるように両ひざを床についた。そのまま、とめどなく泣きじゃくる。


 身体中から水分が消えてなくなる勢いで。


 そこでようやく現状を認識したかのように、そうしてリンは己の感情を爆発させた。


「ごめん、なさい……! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!!」


「……もういいって。あんたがそんなになってると、こっちのリズムが狂っちゃう。ほら、涙ふいて。せっかくの可愛い顔が台無しじゃない」


 リンの頭の上から、スッと彼女の目もとに指をわせて、アカリが言う。


 でも、彼女がどれだけ指でそれらをふきとっても、リンの涙はまったく枯れることはなかった。


 ヒョーマは、言った。


「……アカリ、なんか食いたいモンはあるか?」


「……お肉、食べたいな。シシ肉。あんまり食欲はないけど、お肉だったら食べられるような気がする」


「ったく、おまえは……。普通、逆だろ。肉が一番入ってかねえと思うけどな」


「……そんなことない。あたしはいつだって、お肉が一番食べられるの。ねっ、チロ?」


「チロロー♪」


 心外だ、という表情をことさら作って、すぐさまチロに同意を求める。なにも知らないチロが無邪気に応じると、アカリは満足そうに微笑んだ。


 ヒョーマは、やれやれと頭の後ろをかいて、


「分かった、了解だ。シシ肉ならまだ腐るほど余ってるからな。鍋にしてみんなで食おう」


「おー!」


 アカリが、左手でグーを作って追随する。今日一番の、元気で陽気な声だった。ヒョーマも、できうるかぎりのカラ元気でそれに応じた。シンも、無理に笑って明るく振る舞う。リンだけはでも、最後までずっと泣き崩れたままだった。


 隙間だらけの山小屋を、冷たい風が吹き抜ける。



      ◇ ◆ ◇



「……ごめん、やっぱりちょっとしか食べれなかった……」


「……いや、けっこう食ったけどな」


 一人前以上は確実に食べている。


 普段の彼女と比べたら、だいぶ少ないのは確かだが、それでも普通の人間だったらじゅうぶんすぎる量である。


「それだけ食べられたら、まだまだ大丈夫だね」


 シンがニッコリ笑って太鼓判を押す。


 おそらく、自分やシンと同じくらいの量は食べているだろう。これだけ食べられれば、シンの言うとおりもうしばらくは大丈夫そうだとヒョーマは思った。


 ほんの少しだけ、心が軽くなるのを感じる。


「ハァ、もうちょっと食べられると思ったんだけどなぁ。でも、ご飯食べたら少し元気出てきたかも。今なら――て、リン? あんた、全然食べてないじゃない」


「…………」


 アカリの言うとおり、リンの箸はまったく進んでいなかった。二口、三口しか食べていない。元気なく下を向いたまま、彼女は今にも倒れそうな顔色でずっと押し黙っていた。


 シンが、言う。


「リン、もっとちゃんと食べないと……」


「食欲、ないです……」


「なんであんたが食欲なくなるのよ。あたし、ちょっと元気出たから。ほら、リンも元気出して」


「チロロ〜♪」


「……はい」


 頷きはしたが、これ以上ないほど元気のない声だった。


 ヒョーマは、短く息を落とした。


 と、アカリが思い出したように言う。


「そうだ、みんなに頼みがあるんだけど……」


「なんだ?」


「チロの世話、お願いしてもいい? 干し肉にしたリス肉は、まだだいぶあるから――」


「……ここに残るつもりか?」


「……え?」


 リンが、ハッとして顔を上げる。


「どういう、こと……ですか?」


「ああ……うん、そうしようかなって思ってるんだけど……」


「そんなのダメです! ぜったい嫌です!! アカリさんをこんな場所に一人残してなんていけないです!! わたしがおぶって連れていきます!!」


 両目を見開き、リンが嫌々をするように首を左右に振る。


 アカリはそんなリンの手を優しく握ると、


「……ありがと、リン。すごくうれしいよ。でも、そんな状態でモンスターに遭遇したら全滅必至でしょ。あたしだけじゃなくて、みんなもやられちゃう。だから……ね、分かって」


「分かりません! 分かりたくないです!! わたしが――」


「ああ、リンの言うとおりだ。おまえを一人、ここに残してはいかない」


 ヒョーマは、二人の会話に割って入った。


 アカリが、驚いたように目を丸くする。


「ちょっとヒョーマ、あんたまでなに言って……」


「が、背負ってもいかない。おまえの言うとおり、その状態で何日も進むリスクはデカい。なにより、おまえの負担にもなるしな」


 アカリとリン――シン以外の二人の視線が、ヒョーマに集まる。


 ヒョーマはたんたんと言った。


「おまえがそう言い出すだろうってことは、なんとなく予想がついてた。で、さっき外でシンと相談して決めたんだ。俺たちもここに残る」


「え……」


 アカリが、戸惑ったように短い音を漏らす。


 まるで想定していなかった返答だったのだろう。だが、これはヒョーマの中では数時間前から決まっていたことだった。


 アカリが自分たちを心配させまいと、無理にいつもの笑みを浮かべてみせたその数分あとから――。


 ヒョーマは、確かな口調でその先を続けた。 


「おまえを看取る。死ぬまで一緒にいる。それまで、頂上を目指す旅は中断だ。もう決まったことだからな。おまえが何を言おうと変更はしないぜ」


 そうして、アカリとの最後の数日が始まる。

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