第33話 諸行無常


「え……」


 後方で扉がひらく音がして、やがて呆けた一音が室内に落ちる。


 シンは、振り向かずに応じた。


「……早かったね。食料は調達できた?」


 答えは、返ってこない。


 当たり前だ。目の前のこの光景を見れば、シンの発した言葉が場違いなそれであったのは瞭然である。


 でも、シンはそう発した。


 いつもと同じように。


 それ以外の言葉は、落ち着いた語調で発する自信がなかった。


「あ……アカリ……だ。久しぶり、だね……」


「ミサキ!!」


 声が、弾ける。


 シンは静かに椅子を引いた。その空いたスペースに、声の主――アカリが刹那に駆け込む。


 彼女は血相を変えて、隣のシンに問いただした。


「なに……これ!? どういうこと!? ミサキの身体が……」


「……毒、だよ。たぶん毒。毒に、冒されてる……」


 毒。


 木製の簡易ベッドに横たわるミサキの身体は毒に冒されていた。


 えぐられた腹部を中心に全身が黒ずみ、毒の侵食は口もとにまで及んでいる。シンがこの小屋に到着した直後は、まだここまでじゃなかったのに。


「わたし、毒消し持ってきます! アカリさんとシンは解毒の魔法を!」


「わ、分かった! ミサキ、待ってて! 今、治してあげるからねっ!」


 あとから室内に入ってきたリンが、慌てた様子で指示を出し、すぐさまそれにアカリが応じる。


 シンはでも、静かにゆっくりと首を左右に振った。


「……もうやったよ。毒消しも使ったし、解毒の魔法も使った。何回も何回も。でもダメなんだ。消えないんだよ、この毒……」


「……え?」


 アカリとリン、二人の動きが同時に止まる。


 ミサキが、か細い笑みを浮かべて言う。


「えへへ……そう……なんだ。シンくん、いっしょうけんめい……やって、くれたけど……ダメ、なんだ。ごめんね、シンくん……。ありがとうね……」


「そんな!? もっとたくさん毒消し使えば! 解毒の魔法だって魔力エネルが尽きるまで二人で使えば、きっと……ッ!」


「尽きるまで使ったよ! 毒消しもほとんど全部使った! でも、消えないんだよ!」


 そこで初めて、シンは感情をあらわに叫んだ。


 一度そうしてしまうと、もう抑えて喋ることはできなかった。感情のおもむくままに、どうにもならない現実を叫んで放つ。


「ぜんぜん良くならない! 毒の侵食が止まらない! 衰弱が止まらないんだ!!」


「……シン」


 リンが、真っ青な顔でこちらの手を握ってくる。シンも強い力で彼女の手を握り返した。


 無力さが、二人の心を席巻する。もうどうすることもできないと、残酷な理解が重く心に伸し掛かっていた。


「でも……最期にアカリに会えて、よかったな……。神様も、粋なことしてくれるね……」


「最期とか、そんなこと言わないでよ!!」


「えへへ……ごめん。でも、分かるんだ……自分の、身体だから……」


「…………ッ!?」


 アカリの目に、大粒の涙が浮かぶ。頭の上のチロも、淋しそうに小さく鳴いていた。


「……トラくん、無事でいてくれたかな……? ミサキたち、を……逃がす、ために……ひとりであのモンスターに、向かっていって……くれたんだ。ミサキのドジが原因で……あんなことに、なっちゃったのに……。シューヤくんと……トラくんの、ふたり……だけ……だったら……ぜったいぜったい……無事に、逃げられたの、に……」


 アカリは、何も言わない。


 答えない。


 口を真一文字に閉じたまま、無言でミサキの手を握り続けている。


 溜まった涙がこぼれないよう、必死に耐えているかのようだった。


 代わりに返答したのは、リン。


 彼女は平静を装い、憂慮するミサキの気持ちに応えてみせた。


「……無事だと思いますよ。ここに来る途中、いくつか死体を目撃しましたけど、あの変態黒縁眼鏡のそれはなかったですから」


「……そっかぁ。よかったぁ……。ありがと、リンちゃん……」


 ミサキが、そう言って薄く笑う。


 彼女はそのまま、くぼんだ瞳を再度アカリへと移した。


「アカリ……チロちゃん、なでても……いい?」


「ん……」


 口をへの字に閉じたまま、アカリがミサキの前にスッと頭を差し出す。


 ミサキはゆっくりとチロの頭に手を伸ばした。


 その腕はでも、見ていられないほどに弱々しかった。


「チロちゃん、良いコだね……。また今度、一緒に遊ぼうね……」


「チロロ〜♪」


 頭をなでられ、チロがうれしそうに鳴く。


 ミサキも楽しげに微笑み――だが、穏やかで安らかな数秒は残酷なほど迅速に過ぎ去った。


 ほどなくして、ミサキの腕が役目を終えたかのようにぐったりとベッドに落ちる。


 彼女は蚊の鳴くような声で、けれどもしっかりと最期の思いをアカリに届けた。


「アカリ……今まで仲良くしてくれて……ありがと、ね……」


「…………ッ!?」


 瞬間、溜まっていたアカリの思いが涙と共に一気に外の世界に噴出した。


「いや、だよ……ッ!」


 言葉が、せきを切ってあふれ出す。


「嫌だよ! せっかくまた会えたのに! 久しぶりに会えたのに! こんなの、ないよ……! ミサキ、死んじゃやだよ! 死なないで! いなくならないでよ!」


「アカリ……」


 つぶやき、シンは二人から視線を外した。リンの手を、そうしてさらに強く握る。リンも同様に、より強い力でこちらの手を握り返してきた。


 感じた思いは、同じだった。


解毒キュアポイズン! 解毒キュアポイズン! 解毒キュアポイズン!」


 壊れたように解毒の魔法を繰り返すアカリの声が、さびれた室内に木霊する。


 シンには、止めることができなかった。


 それがもう、意味をなさないと分かってはいても――。


 ミサキとの別れは、あまりにも唐突で、信じられないくらいにあっけないものだった。


 シンは初めて、この世界に永遠はないのだと知った。


 今あるものは、いつかは壊れる。

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