36.記憶の旅――嵐
パチパチと焚火が燃える音がする。
カーチェルニーの意識が徐々に覚醒してゆく。
上半身を起こすと周囲を見渡す。
そこは河原だった、傍らには焚火が一つ、そしてその傍にに座る人影が一つ。
「気が付いたかい? 天龍と言えど自らの形を人と定めたならば、人と同じように死ぬ。気を付けた方が良い」
「……あなたは」
枯れ葉色のぼさぼさの長髪を伸びるに任せ、髭もろくに手入れしていない男。一瞬老人のように思えたが、違う。
その力を湛えた目が、カーチェルニーを見据える。
「僕の名はヴェスパ」
「ヴェスパ……悪龍!?」
「ああ、人は僕のことを『文明の黄昏にて終幕を引く者』、『国崩し』あるいは『悪龍』などと呼ぶようだね」
慌てて立ち上がろうとしたカーチェルニーだが、果たせずその場に座り込んでしまう。
「無理しない方が良い。溺れて大分流されたようだからね。
ああ、一つ断っておくよ。今回の結末に僕は何も係わっていない。それは君自身よく理解していると思うが」
最初その言葉の意味が分からず、しばらく呆然としていたカーチェルニーだったが、気を失う直前の記憶が少しづつ蘇り、それにつれ表情が絶望に染まる。
「なぜこんなことに……」
「君はもう気付いているんだろう?」
憐れむような、蔑むような、彼女を見下ろすヴェスパの表情。カーチェルニーはそれ見返すこともできず、視線は地面に縫い付けられたように下がったままだった。
「ゼノンは知性と武力には不足はないものの、運とカリスマ性は今一歩な所がある。彼の躍進を支えたのは君なんだろう? 彼に不足するものを補って」
「……」
「天龍に世界を変える力があると言っても、世界を歪めたりすれば必ず揺り戻しが起きる。その歪みが大きく、長い期間である程、反動はより激しいものとなる。『なぜこんなやつを支持していたのか』とね」
「そんな! ゼノンには資質があった! 私はほんの少しそれを手助けしただけで……」
「そうだろうね。でも可愛さ余ってって奴ではないが、それまで強制的にゼノンに心酔させられていたんだ。我に返ったとき、その違和感による反動は容易にゼノンへの反発へ転換される。この結果は時間の問題だったんだよ。アストラ王の言葉はきっかけに過ぎない」
呆れたように、少し怒ったように断言するヴェスパ。
「でもよく分からないことがある。そんな事は君だって最初から承知の上だったのだろう? てっきり僕は途中までわざとやっているものだとばかり思っていたのだけれど……」
「ちがう! 私は……!! 気づいたのも最近で……」
言い返す言葉は途中で力を失い、瞳からはぼろぼろと大粒の涙が流れ落ちる。その様子を見下ろして、ヴェスパは眉を顰める。
「君はひょっとして……」
「……」
「君が羽化したのは何年前のことだい?」
「三年前」
「三年? 子供じゃないか。そういう事だったのか。つまり最初は無意識だったと」
「……」
さしものヴェスパもバツの悪い顔で頭をかく。
「まぁ、君自身が助かったのは不幸中の幸いだ。これに懲りたら、今後は興味のあるものには距離を置くことだ。でなければ君自身が君の求めるものを壊してしまう。身に染みただろう?」
「……違うの」
「違う?」
ここにきて始めてヴェスパが戸惑う。
カーチェルニーの言葉と表情に、彼の想像とは異なるものが含まれている事に気づいたのだ。
そこにある、悲哀、嘆き、惜別、それら負の感情とは真逆のもの。
彼女の感情に混じっているもの、それは……
「……なぜ君は喜んでいる」
おかしなことをしている天龍に少し説教をする、ただそれだけのつもりだった。
これは彼にとっても想定外のことだ。
「やはり、私は歓喜してしまっているのね」
「……」
「私は。
ゼノンが、無残な破滅を迎えたことに。
心の底から慟哭しながら。
それと同じくらい――
心の底から歓喜してしまっている」
滂沱の涙を流しながら、喜悦にゆがむ顔。
「憧れていたのに。
尊敬していたのに。
慈しんでいたのに。
愛していたのに」
カーチェルニーがゆらりと立ち上がる。
「あはははは!
私は、私の心は、あまりにも歪!
異常。異様。醜悪。そんな言葉では足らないほど……」
「……」
言葉もなくその様子を見守るヴェスパ。
天龍の物語の嗜好は本能というべきものだ。そして、それは変遷することはあっても、簡単に切り替えられるものでもない。
カーチェルニーの心の歪みが、元々の資質だったのか、それとも今回の結末によるものなのか、それには誰にも分からない。カーチェルニー自身にさえも。
その場から歩み去ろうとするカーチェルニー。
「どこへ行く?」
「……見届けに」
「やめた方が良い。君は今壊れかけている」
「……」
業が深い。
だがその業を受け入れるにはあまりにも幼い。
ヴェスパは言葉でこそ止めようとしたものの、手を出すことには躊躇う。
それは、彼の主義とかつての誓いに反するものだ。
「ふう、ままならないな」
足元がおぼつかない。
夢の中のように世界が頼りない。
それが現実なのか、それとも幻覚なのか、カーチェルニーにはもはや分からなくなっていた。
だが彼女は自分がどこへ行くべきか分かっていた。
それはもはや『人』の能力ではない。
しかしその異常に本人すら気づかない。というより、もはや彼女にはそんなことはどうでもよくなっていた。
何日歩いたのか。
その道の果て彼女は目の当たりにする。
木に吊るされた無残な死体。
民衆がその死体に石を投げる。
あざ笑う人々。
侮蔑の言葉を吐く、かつてゼノンと親しく話していた酒場の主人。
いつかこうなると思っていたと、したり顔で語る冒険者。
それを、
泣きながら、
哄笑を上げながら、
見上げる自分。
「あはははははははははははははははっ!!!!!!!」
嬉しい。悲しい。
楽しい。苦しい。
満たされる。絶望する。
背反する感情がカーチェルニーの心を引き裂く。
自らを人と規定していたカーチェルニーの枷が外れる。
嵐に閉ざされ、太陽を失い、地峡の崩壊で孤立したミストラルで、人が死滅するまでかかった時間は五年であった。
――それがカーチェルニーの『人生』の記憶、その全てだった。
その全てを見届けたローズは、カーチェルニーという名の『少女』の真実に呆然としていた。
カーチェルニーと対決する? とんでもない。
ローズはカーチェルニーに対して、漠然と『悪い天龍』をイメージしてヘカテーを手に取った。
強大な敵と戦い、それを打ち倒し、その悪の部分を破壊するものだと思い込んでいた。
浅はかな考え違いだった。
今ローズはその真実の姿を突きつけられ、その苦さに後悔すらしていた。
カーチェルニーは最終的に、自ら世界に死と破壊を振りまくことを選択したのかもしれない。
だが、ローズは彼女を責めるつもりには到底なれなかった。
誰のせいでもない。
ただ間が悪かった。
せめてあと数年早く、あるいは遅く羽化していれば、ゼノンとの関係性も違ったものとなっただろう。似たような結末を辿ったとしても、少し困った嗜好の天龍は彼を悼んで送り、ミストラルには人の世が続いていたのかもしれない。
あるいは彼女の近くにウルスラのような先達がいれば……
カーチェルニーは自らの欲求に従って物語を求めただけなのだ。
生まれたばかりの赤ん坊に、乳を求めるなと言っても仕方がない。自覚すらないのだから。
リィィィ、と聞き覚えのある音がする。
『彼女』もまた、決断を促していた。
深く息を吐いたローズは、意を決して振り向く。
海に沈み行く真っ赤な夕日に照らされて、果てしなく続く荒涼とした砂漠の海際に波が打ち寄せている。
その全てが赤く染まった世界で、死を象徴する砂漠に、生命溢れる海から波が打ち寄せる。まさにその境界線。
それはカーチェルニーの心象風景。
そこには地べたに座り込んだ少女がいた。
ずっとそこにいることは分かっていた。
「私を殺して?」
「……」
「私は自ら望んで壊れた。あの地が雨に沈み、人々が苦痛と絶望の末に無残に死んでいくのを分かったうえで」
「……」
「私はゼノンを愛していた。彼らはゼノンを殺した。けどそれは理由にならない。私は彼の死を嘆きながら、喜んでもいたのだから」
「……」
「こんな醜悪な生き物が、この世に存在していいの?」
「……」
ここには話の通じない怪物など最初から居なかった。
「四百年か。天龍にとっても長いのだろうな」
「……」
「君は既に正気に戻っていたんだな」
「……」
考えて見れば川底で対峙したあのとき、彼女は理性的ですらあった。
リナという殻は、彼女に人としての方向性を、普通の生活の仕方を教えただけだった。
リナは最初からカーチェルニーだったのだ。
そして『人の天敵【嵐精】カーチェルニー』とは、自らを否定する記憶がカーチェルニー自身を、人を討ち滅ぼす自動機械と化せしめていたもの。
「私は君を殺すことはできない」
「……」
「だから、これは私のエゴ、我儘だ」
「……」
「君は抵抗してもいい、むしろ抵抗すべきだ。私がやろうとしていることは、君という個の尊厳を破壊する行為なのだから」
「なにを……」
ローズの矛盾した言動に戸惑ったカーチェルニーが顔を上げる。
「君の過去を破壊する」
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