35.記憶の旅――ミストラル戦記3

 旧王都を脱出したゼノン一行は、冒険者時代からの支援者であり、エルディアナの旧臣でもあったスコピエ伯を頼るべく、人気のない山道を進む。

 旧エルディアナ時代から一貫して統治する伯の領地であれば、民衆の動揺は少なく――希望的観測ともいう――再起を図るのに都合が良いと見られたためである。

 従うのは冒険者時代からの側近達とモラリス、そしてカーチェルニーの僅か八名。


「やはり軍主力の駐屯するエギオへ向かうべきだったのではないか?」

「バイロン将軍ご自身は信頼のおける方だが、率いる軍は寄せ集め。今頃は旧都と同様にデマに踊らされた民兵の統制に苦慮しているはずだ」

「万一離反した民兵に出くわせばひとたまりもないか」

「エギオは要衝だけに道はほぼ一本道となりますからね」

「首都軍を動かせさえすればこんなことには……」


 側近たちの弱音と議論の言葉を聞きながら、ゼノンも同じような思いに惑う。

 確かに危険だ。だが、疑っていてはきりがない。ここは賭けになっても軍主力と合流すべきだったのではなかったか。


「今更か」


 スコピエ伯から借り受けた騎士が先導してくれることで、道行きに不安はない。


「この先の谷に吊り橋が掛かっています。通過後に落とせばしばらくは時間が稼げるでしょう」

「橋は地元の民の通行手段なのではないのか?」

「今は非常時です。それに釣り綱を残しておけば復旧は意外と早いのですよ」

「そういうものか」


 その橋はすぐに見えてくる。

 細い間道には似合わない、馬でも通れそうな吊り橋だった。

 人一人が通れる程度の粗末な橋を想像していたゼノンは、それに違和感を覚える。


「思ったより大きな橋だな。これは落とすとしても、一苦労ではないか?」

「それは後で考えましょう。ひとまず向こう岸へ」


 橋の中間に差し掛かった時、向こう岸に数名の兵を伴った騎士が現れる。

 一行に緊張が走る。


「そちらはスコピエ伯の配下であるか!?」


 側近の一人が、あえてこちらの素性を明かすことなく問いかける。

 現時点で相手が何者か明らかではないため慎重を期したものだった。


「……」


 しかし、答えは返ってこない。その反応のなさにゼノンが不穏なものを感じていると、直後、今度は後ろから同じような物音が聞こえてくる。

 同じような騎士と兵士たち。

 明らかに待ち伏せだった。

 ゼノン一行が顔を青くしていると、正面側にさらに一名、明らかに高位の者と思われる男が現れる。


「待ちくたびれましたぞ!」

「!」

「スコピエ伯!」

「裏切りだと!?」


 まさかと思いつつ、信じられないと首を振る側近達。

 と同時に、これまで道案内をしてきたスコピエ伯配下の騎士を含め、三人の側近が一行から離れ、橋上で一行を挟み込むように剣を構える。


「!? 貴様ら、まさか裏切るのか!? この人面獣心めが!」


 モラリスが三人を面罵する。

 脱出に同行させるほど信頼を置いていた者が、裏切っていたことにゼノンは慄然とし、無言で相手を見つめる。

 ゼノンは対岸のスコピエ伯に視線を移す。


「スコピエ伯。これも卿の仕込みという事か。しかし、アストラが今更卿を許すと思っているのか?」


 万一の可能性に賭けて、説得を試みる。幸いというか、スコピエ伯本人がこの場に居るのだ。か細い糸だが手繰り寄せるよりほかに道はない。

 ちらりと橋の下を見る。そこには川はあるものの、川幅は狭く岩だらけの急流であり、飛び込んでも助かる余地はほとんどないように思えた。物理的には、もはや進退は極まったと言わざるを得ない。


「心配には及ばない。これはアストラの……カサンドラ様のご指示なのだからな」

「な……母上が!?」


 流石に想定外の名前を出されて、ゼノンも思わず叫んでしまう。

 その驚愕の表情を見て、スコピエ伯は哀れみの表情を浮かべる。


「カサンドラ様は私にこうおっしゃったのだ。『ゼノンはアストラ王の子である。父子で相争うことはまかりならぬ。速やかにアストラに下れ』と」

「母上が……」

「しかし! カサンドラ様が、一体いつどこでアストラ王と子を成したというのです!? あり得ない! 皆騙されているのだ!」


 同じく動揺するモラリスが血を吐くように叫ぶ。

 敵国同士の王族が、誰にも知られることもなく子を成したなど、当時の状況を知らぬ者でも大いに首を傾げる所だろう。

 ただカサンドラ自身、ゼノンの父親が誰なのか、これまで一切語ってこなかったことも事実なのだ。周囲が勝手に想像したことが、まことしやかに噂されたことはあったが、ゼノンすらカサンドラに実の父が誰なのか教えられていなかった。


「正直なところ、私には真実などわからん。カサンドラ様の真意もな。だが、今重要なことは、それを誰が語ったのかという事なのだ」


 スコピエ伯が周囲に言い聞かせるように語る。


「カサンドラ様のお言葉を聞いたのは私だけではない。そして、それを聞いた時、私が、そして他の者らが何を思ったか分かるか!?」


 ただの噂ならば、何ほどのこともなかった。

 しかし、それを語ったのがゼノンの実の母親であり、彼らの主筋であるという事実。

 そしてゼノンが母親にすら裏切られたという事実。

 それはゼノンの指導者としての資質に、重大な疑念を抱かざるを得ない事だった。

 あるいは、反乱勢力が一定の安定を見た後であればどうにかなった可能性もある。

 だが、旧エルディアナ領でも、未だ様子見の勢力も多い中、そしてゼノンの元に参じた者達の忠誠も不確実なこのタイミングで、あまりにも致命的な事だった。

 他の領主たちの動向に疑心暗鬼になった彼らは、自分の領地、家族や配下、何より自分自身を守るため、アストラの所領安堵の約束に飛びつくことになった。


「もはや、ゼノンを支持するエルディアナ旧臣は、ミストラルには一人もおらぬ!」


 スコピエ伯は半ば自らに言い聞かせるようにそう断言する。

 彼の言葉とは裏腹に、このような状況に及んでも、最後までゼノンに従う意思を持っている者は、探せばいるだろう。

 ゆえに、その言葉は実のところ直前まで迷っていたスコピエ伯の決意表明であり、ゼノンに対する決別の儀式でもあった。

 実のところ、ゼノンは貴族然としたスコピエ伯を密かに苦手としていたのだが、いま彼の思いを感じ取って、微笑を浮かべる。


「スコピエ伯。卿のこれまでの献身感謝する。同じく夢破れた者として心中察する。……私が言うのもどうかとは思うがな」

「……!」


 エルディアナ再興の夢。

 それが、スコピエ伯が最後まで迷っていた最大の理由だった。

 過去、ゼノンに対して常に作りものの微笑を向け続け、決して崩されることのなかったスコピエ伯の顔が、今は歪んでいた。

 その理由はゼノンに対する思いゆえなのか、それとも自らの手で自身の夢にとどめを刺す苦悶からだったのか。


「母上の思いはともかく、もはや私に利用価値はないのだろう。だがこの者らが死ぬ必要はないはずだ。助命してもらえないか? せめてカーチェは……」

「ゼノン!」


 これまで無言だったカーチェルニーが、信じられないと目を見開く。


「私も一緒に……」

「……申し訳ないが、禍根は立たねばならぬ」


 その兆候はないが、ゼノンの子でも宿していれば将来の乱の原因となりかねない。

 アストラに帰参すると決めた以上、付け入る隙を与えるわけにはいかないのだ。


「やはりそうなるか。……だが」


 一か八か、ゼノンはカーチェルニーを抱きしめて身を翻そうとする。この川に飛び込んでも十中の九は助からないだろう。だが、残りの一に賭けたのだ。

 だが、それは叶わない。


「させるか!」


 裏切った側近の一人が、素早く踏み込んでゼノンの脇腹を一突きする。


「ぐうっ!」

「ゼノン!」


 刀身の半ばまで沈み込むほどの深手。ゼノンはその激痛にその場に倒れ込む。

 吊り橋の横板が噴き出したゼノンの血で染まる。

 重要臓器を傷つけたのか、吹き出る血の勢いは明らかに致命傷だった。


「貴様!」


 ゼノンの負傷に、激高したモラリスらゼノン側に残った三人が焼け鉢の抵抗を試みるが、それも長くは続かなかった。

 橋上は血に染まり、倒れたゼノンを抱きしめるカーチェルニーも味方の体から飛び散った血で、半身を赤く染める。あまりの事態に彼女の視線は空中を彷徨い、その目にはもはや何も映していないのは明らかだった。


「あ……ああ……」


 橋の前後から兵が迫る。

 彼らの脚が横板を叩く音、血だまりを踏みしめる水音。それらの音にカーチェルニーの目がにわかに焦点を取り戻す。そして自分を取り囲む者たちを見上げる。

 熱に浮かされた目。

 痛々しいものを見る目。

 好奇の目。

 冷ややかな目。

 疑念の目。

 そして、苦しむ男。


「……せめて苦しまぬようにせよ」


 スコピエ伯のその言葉に反応するように、その男の体がピクリと動く。


「ゼノン?」

「……」


 カッと目を見開いたゼノンが、瀕死の体とは思えぬ力で立ち上がる。


「ぬ!?」

「ゼノン!」


 無言のままのゼノンが兵たちの、幾本もの剣に刺し貫かれる直前。彼が行った動作は一つだけだった。


「なぜ」


 カーチェルニーが橋から突き落とされる。ゼノンが立ち上がったことで、一瞬警戒して半歩下がった兵は、それに反応しきれなかった。


「! いかん、追え!」

「ここから落ちて助かった者はおりませんが」

「死体で構わん。確実に見つけ出せ!」


 再び倒れ伏したゼノンが、微かに笑みを浮かべる。

 すぐに呼吸が止まり、全身から力が抜ける。

 それを確認したスコピエ伯が、傍らにしゃがみこんで、小さな声で呟く。


「……だからお前は、王などには向かんのだ」


 小さな個人の望みと、大局を見る王者の義務を天秤にかけて、前者を取ってしまうのがゼノンという男だった。庶民として生きてきた男の本質はやはり庶民だった。

 あるいは王となった者達も、必ずしも皆それが出来ているわけではないのかもしれない。

 だが、乱世を勝ち抜く望みを持った男がそれでは、遅かれ早かれ致命的な失敗を犯した可能性は高い。この結末はそれが早まったというに過ぎないのだ。

 そこまで考えてスコピエ伯の顔が自嘲にゆがむ。


「下らん言い訳を考えるとは、私も焼きが回ったか」


 一瞬だけ瞑目し、立ち上がると部下に後を任せてそのまま立ち去る。

 そして二度と振り返ることはなかった。

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