37.眠り姫

 気づくと、目の前にエリザベートの訝しげな顔があった。


「終わったの?」

「……どれくらい時間が経っている?」

「数秒というところね」

「こっちは三年だったよ」

「……は?」


 元から訝しげだった顔から、さらに眉根を寄せる。


「彼女は」

「顔色は良い。ただ眠っているようにも見えるけど……本当に成功したの?」

「……」


 結局カーチェルニーは抵抗しなかった。

 問題はヘカテーだった。

 『彼女』はカーチェルニーの記憶の破壊に同意せず、激しく抵抗した。

 今もローズの腰で不満をを表明しているが、それを感じられるのはローズだけだ。

 だが、だからと言ってどうすれば良かったのか。当のヘカテーも明確な答えを持っているようには思われなかった。


「なんだか人間じみてきたな」

「?」


 カーチェルニーとしての三年の記憶。

 【嵐精】としての四百年の記憶。

 それがほとんど失われ伽藍洞となった彼女が、果たして天龍として再び目覚めることがあるのか。

 それは本当に正しかったのか、ローズには確信がない。

 ローズは深く、とても深く、ため息を吐く。


「結局のところ、殺したも同然か」


 リナを取り戻したかったというのが、最初の動機ではあった。

 だが、それ以上に自らの死を望むカーチェルニーを放っておけなかったのだ。自らに絶望する彼女を。

 だからと言って彼女自身の過去と葛藤をなかったことにしたのは、本当に良いことだったのだろうか。

 ベッド脇の椅子に力なく腰を下ろす。

 一時の高揚が去ると、残ったのは虚無感と罪悪感だった。

 眠る少女をじっと見つめる。


「……」


 と、不意にふわりと後ろから抱きしめられる。


「クロエ?」


 吐息が感じられるほどに迫ったクロエの横顔。これまでのローズであれば、動揺のあまり赤面していた所だ。だが今は不思議と穏やかな気持ちでそれを受け入れられた。

 ……いや、普通に心臓はどきどきと高鳴っていた。

 こんな時でもそうなのかと、少し落ち込むローズ。


「私にはローズに何があったのかも、何をしたのかも分からない。けど……」

「……」

「帰ってきてくれてありがとう」


 ローズのクロエを抱きしめる腕が微かにふるえていた。

 その時になってローズはようやく気付く。クロエが自身の内心の不安を押し殺して、ローズの思うままにさせてくれたことに。

 申し訳な気持ちと、それとは裏腹な嬉しさと、少し気恥ずかしくなったローズだったが、ようやく一言だけ、気持ちを口に出す。


「ああ、ただいま」


 クロエがローズの方を見て笑顔になる。


「私は身勝手だな。クロエに対しても、リナに対しても。確信も持てない手段で、自分の都合を押し付けて……」


 その結果、眠ったままとなった少女を見つめる。


「……きっと上手くいくさ」


 二人で一緒に見つめる先で眠る少女。

 その穏やかな寝息に、二人は希望が持てるような気がした。



―――――



「少々どうかと思うのです」

「何がよ」


 静かに部屋を出たエリザベートは、ウルスラの唐突な言葉に胡乱げな視線を向ける。


「ノイア殿が不在な所で、本命視されてる方が関係を進展させるというのは、バランス的にどうなのでしょうか?」

「だから何の話よ!」


 言っていることの意味は分かるが、分かりたくないとエリザベートは頭を抱える。


「あなた、フラムに影響されていない?」

「その言葉には多少頷かざるを得ない所があります」

「あのね……」


 頭を振って切り替える。


「まぁいいわ。結局、カーチェルニーはどうなったの」


 流石のエリザベートも、何があったのかを直接聞ける空気ではなかったため、疑問を押し殺してあの場を去ったのだが、ウルスラが相手ならば遠慮はいらない。


「恐らくですが、精神核上の過去の記憶のみを破壊したのでしょう。それもほぼ完全に」

「完全にって、それって殺したのとほぼ変わらないのじゃないの?」


 元々エリザベートの発案ではある。だが、ローズそこまでするとは考えていなかった。

 リナ――カーチェルニーにずっと甘いことを言い続けていたのだ、過去の一部、暴走の元となった記憶を切り取るのがせいぜいだろうと。

 それが蓋を開けてみればこれだ。いささか驚きを禁じ得ない。

 たとえエリザベートといえど、精神核の働きについて完全に理解しているとは言い難い。だが過去の記憶の全て、ほとんど人格に等しいものを破壊したと言われれば、それは死に等しいことくらいは理解している。

 もはや殻として与えられていたリナの記憶や人格が定着するどころの話ではない。


「何とも言えませんね。何しろ参考にすべき前例がありません」


 ウルスラの表情も困惑気だった。


「見た限りでは、羽化前の記憶や人格すら残っているか怪しいところでした。果たしてそこから再度成長するものなのか、あるいはそこからでも再生するものなのか……。

 仮にもし、天龍を生み出した存在、それこそ神のごとき者が存在するならば、予測が付けられるのかもしれませんが」

「それはもう、誰にも分からないと言っているようなものじゃない」

「そういう事です」


 廊下の壁に背中を預けたエリザベートは、幾分不思議そうに呟く。


「ふん。それにしても、直前まで殺すことを躊躇っていたローズが、そこまでするとはね」

「それだけのものを見たという事でしょう。あるいはそれは彼女の心を動かす物語だったのかもしれません。もしそうなら天龍自身が紡いだ物語が人を変えるとは、何とも皮肉な事です」


 若干不満げで、それでいて満足気な様子も見せるウルスラ。その妙な表情に少々不穏な物を感じるエリザベート。


「まぁ、何はともあれ、夜が明けてからですね」

「何するつもり?」

「それはもう、国家権力の乱用です。俗世の詰まらない手続きは裏方が気づかぬうちに片付けるのです。何しろ物語には余計ですから」

「……」


 妙に張り切っているウルスラを再度胡乱げな目で見つめ。

 首を振ってため息を吐く。


「天龍の業って……」

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