30.悪龍
選択肢のない決断。
ローズは悩む様子を見せながらも、表面上は平静だった。
「ローズ……」
愁いに沈みながらも、その整った容姿と裏腹に荒れ狂っているであろう心。それ察してクロエは泣きそうな顔になる。
「すまない。私が……」
「いや、クロエに責任はない」
ローズには確信があった。
一度その剣――ヘカテーを抜いて、『敵』と対峙した経験、それ故の確信が。
腰のヘカテーがリィと鳴く。まるで決断を急かせる様に。声なき声で威圧するかの如くに。
その現在の主――ローズが顔をしかめる。
ヘカテーは人を選ぶ。文字通りの意味で。
おそらく今クロエがヘカテーを振るっても、ただの鋼の剣と大差ないことになるだろう。あるいはそれでも、吸血鬼程度にならば有効なのかもしない。
だがカーチェルニーを滅ぼすには到底足りない。たとえ相手が無防備に寝ていたとしてもだ。それはおそらく前所有者であるエリザベートでも同様なのだろう。
なぜ自分が『選ばれた』のかは分からない。だがこれはローズでなければできないことなのだ。
心が重い。
まるで自分の一部を切り離して、その命を絶とうとしているかのようだった。
それきり二人は言葉もなく黙り込む。
どれほど懊悩しただろうか。あるいはそれほど時間は経っていなかったかもしれない。
ドアをノックする音に、ローズはハッと顔を上げる。
「夜分に失礼します」
男性と思しき扉越しの声。エリザベートやウルスラではない。
それに気づいたローズは、正直な所を言えば先延ばしの口実が出来て少しホッとしていた。
そのまま立ち上がり、いくらか警戒しながら扉に近寄り声をかける。
「どちら様ですか?」
「当教会を預かるヴェルヌーブと申します。一言ご挨拶をと」
扉越しのためにややくぐもった、それでいてよく通る声。
ローズが扉を開けると、人好きのしそうな笑顔の思いの外若い司祭が、右手を胸に当て礼を取っていた。
「当教会の者達の命を救って頂いたとのことで、お礼を申し上げたく。……入室させて頂いても?」
「それは……」
これからローズがやろうとしていることを考えると、いささか躊躇われる。だが、ここで拒絶して心証を悪化させるのも、後々の面倒が増えそうである。
部屋の奥の寝台に眠るリナと、その傍らのクロエをちらりと見る。
その視線の動きを見てか、ヴェルヌーブが分かっているという様に頷く。
「ある程度事情は伺っております。警戒は当然のことと思いますが、私などは所詮無力な信仰の徒に過ぎません。高名な【水晶宮殿】の皆さま方であれば、然程警戒することもないでしょう」
(自分で言うのか)
微笑を浮かべたまま語るその言葉の調子は、軽薄に小指が掛かりそうなほど軽く、しかしぎりぎり無作法の一歩手前に落ち着くような、絶妙なものだった。相手の警戒をほぐすには最適と言えるだろう。
だがそれゆえに、ローズはむしろ警戒心を抱く。その表情に気づいてか、ヴェルヌーブは一瞬(おや?)と言いたげな表情が浮かべ、むしろ微笑を深める。
(侮れないな)
そう考えていたところにクロエから声がかけられる。
「司祭殿の言う通り、ここでこのタイミングで騒ぎを起こす理はないと思う。入って貰ってもいいんじゃないかな」
ローズは一瞬考えたものの、結局はクロエの言葉通り、扉を開けて司祭を迎え入れる。
「ありがとうございます」
ヴェルヌーブは笑顔を崩すことなく、ローズに続いて部屋に入る。
リナに割り当てられた部屋は、この教会で最上位の客室であるが、教会の規模を反映して一室で完結するこじんまりとしたものだった。
部屋の奥に寝台。その手前にの応接セットが配置されている。その他いくつか家具が配置されているが、スペース的にあまり余裕はない。
応接セットのソファーへの着席を促して、ローズは対面に座る。クロエは警戒のため、リナの眠るベッド脇に立ったままだ。
そこでヴェルヌーブは改めて頭を下げる。
「改めましてお礼を。我ら神と精霊に身を捧げる身とは言え、むやみに命を散らすのもその御心に添うものではありません。あなた方の行いには神と精霊もお喜びのことでしょう。六人もの命をお救い頂き、誠にありがとうございました」
「礼はそこのクロエに言ってほしい。私はリナを助けるので精一杯だった」
「……」
ヴェルヌーブはしかし、ローズから目を逸らすことなく、その目をじっと見つめる。
そしてその表情が変わる、相手の警戒を和らげるためのどこか作ったような微笑から、純粋で中性な微笑へ。
「その選択は正しい。君が欲を出して万一波に飲まれていれば、死者は六人どころでは済まなかっただろう」
「……?」
唐突に雰囲気の相手が変わったことに、目を瞬かせるローズ。
なにか魂胆があるにせよ、今しばらくは腹の探り合いが続くものと考えていたのだ。これではむしろ、最初から駆け引きなどするつもりなど無かったようではないか。
「だが、その正体を知らずとも、彼の少女の危険性は理解できていたはず。最も手っ取り早い手段を選ばなかったのは、何故かな?」
「そんなのは……家族だからだ」
「家族? ほんの数日共に過ごしただけなのに?」
思わず素で答えたローズに、ヴェルヌーブは畳みかけるように問いを重ねる。
この司祭は何をどこまで知っているのか? ローズの困惑が深まる。
精霊教会側にもいくらか事情は知られているはずだが、それでは説明がつかないほど、この男は明らかに知り過ぎている。
「君にとっては、冤罪の材料ですらある。君には彼女の保護者として振舞う義務も義理もないだろうに」
「ローズ!」
もはや目の前の男の異常性は明らかだった。
クロエは声を出してローズに警戒を促し、同時に細剣を抜き放つ。
だが、同時に気づく。自分の脚が床に張り付いたかのように言うことを聞かないことに。
そして、揺れる剣先に。
(手が、震えている?)
クロエはそれを目にして、ようやく自身の手の震えを自覚するが、それがなぜなのか理解できない。
目の前の男がそれほど恐ろしい相手に見えないのだ。
ただただ自然体で座っている男。
その視線が、すっとクロエの方に流される。
「あっ……」
すとん、と腰が抜けるように床に座り込んでしまうクロエ。
「落ち着いて欲しい。約束してもいいよ。ここで僕の方から君たちに危害を加えることはないと。……もちろんリナにもね」
わざとらしくリナの部分を強調して口にする。
「おまえは何者だ」
一方のローズは、自分の方に戻った男の視線を受け止めながらも、自分で不思議に感じるほど落ち着いていた。
男の容貌を眺める。
どこにでも居そうで、どこにも居なさそうな、不思議な印象を覚える、適度に整った容貌。
枯れ葉色の髪、そしてそれと同じ色の瞳。
その瞳に浮かぶのは面白げな感情。
「その問い。君は既に答えを得ているのだろう?」
「……悪龍ヴェスパ」
「ご名答」
すべてを見通すような、透き通った視線がローズを射抜く。
そこに悪意はなく、害意もなく、ただ純粋な興味のみが見える。
「一体何が望みだ」
もはや今回の隠し子騒動からここに至る事件は、ヴェスパの仕込みであったことは明白だ。
天龍カーチェルニーを、他の天龍にすら悟られぬ形で別人――リナに仕立て上げ、オーディルの実在の孤児に偽装して、【水晶宮殿】の元に送り込む。
意図こそ見えないものの、只人では到底なしえない事だ。
そして今、事態は終わりを告げようとしている。ヴェスパがここに現れた理由も、それゆえなのだろう。
だが、この結末が、彼の望んでいる結末と同じとは思えない。ならばどうするつもりなのか。危害を加えるつもりはないという言葉も、どこまで信じられることか。
リナを諦めつつあったローズであったが、この上クロエを失うつもりはない。ならば、場合によってはこの目の前の【悪龍】と戦わねばならない。
たとえ勝てないことが分かっていても。
だが……、ヴェスパはローズの決意を知ってか知らずか、質問には直接答えず、ただ事実のみを語り始める。
「事ここに至っては、君の決断は一つに収束するのだろう。……うん、あまりにも早すぎた。せめてあと数か月先であれば、違った結末もあったのかもしれなかったのにね」
「違った結末?」
「例えば……人類の守護者、その代行者たる者の手による、この国の終焉」
「……」
「皮肉な事じゃないか。二千年に渡って戦い続け、初めに天を墜とし、時には海を裂き、数多の犠牲を払って人類圏を守護していた者達の末路が、人類世界最大の成果たる汎人類国家の破壊となるのだから」
静かな目。
そこには喜びも、悲しみも、怒りも、憎悪も、……何もない。
ただただ、空虚な光が湛えられた瞳。
この男は、一体何のためにそのようなことを仕組んだのか。
「私がリナを……カーチェルニーを斬るのを躊躇うことが、私がこの国を滅ぼすことに等しいと、そう言いたいのか?」
「……だが、そうはならなかった」
ふぅ、とため息一つ。
ヴェスパはその未来が有り得たと言っているのだ。
そしてそれは逆に言えば――
「お前は、リナと私の過ごした時間がごく短かった結果、今私がリナを斬る決断ができると、そう言いたいのか?」
「それは客観的事実だよ」
「……」
ローズの中で怒りが渦巻く。
人と人の関係は、利害や期間で単純に測れるものではない。
不幸中の幸い。今だからこそリナを斬れるのだ。などと知った風に語られるのは、ローズにとって狂おしい程の怒りを覚える――侮辱だった。
その決断にローズの心がいかほど血を流してたのか。
自身の心の整理をつける今この時を、無遠慮に掻き乱す目の前の存在を、到底許せそうにない。
「だからせめて、君たちが懊悩する様子でも見せてもらおうと思ってね」
――その言葉に激怒するローズ。
――その闘志に呼応するようにヘカテーが鳴動する。
……だが、ローズは立たない。ソファーに立てかけられたヘカテーが、まるで抗議するように一度、リィンと鳴って止まる。
それを最初から分かっていたかのように、ヴェスパも一切の動きを見せず、静かに言葉を継ぐ。
「不思議なものだ。君は守護者の一族でもない、素性も知れぬただの代行者なのに、随分とヘカテーに気に入られているようだ」
「……」
「だが気を付けた方が良い。彼女は酷く――貪欲だからね」
「彼女?」
それには答えず、ヴェスパは一瞬寂しそうな表情を浮かべる。その思わぬ表情に、ローズの気が僅かに削がれる。
「さて、最初の約束もあることだし、あまり怒らせすぎる前に邪魔者は去るとしようか」
「このまま逃げられるとでも?」
「だって、君はそれを抜かないだろう」
苦笑と共に断言する。
ローズはギリッと唇を噛む。
図星だった。
ローズはヘカテーを抜かない。抜けない。少なくとも今この場では。
ヴェスパと戦えばどうなるか分からない。
いや、正直な所十中八九負けるだろう。
ヴェスパ自身はカーチェルニーをどうこうする気は無いようであるが、戦いに巻き込むことを躊躇うこともないだろう。そして、カーチェルニーはその戦いに巻き込まれた程度で死ぬ存在ではない。
結果としてカーチェルニーは再臨し、膨大な犠牲者が出る。その中にはクロエが含まれる可能性も高い。
そのような賭けに出るわけにはいかない。ローズが自分自身でそれを許さない。
そこまで見透かされていることが、腹立たしい。
それには構わず立ち上がったヴェスパであったが、ふと考えるように顎に手を当てて動きを止める。
「ふむ、終わってしまったものは仕方ないが、最後に少し種明かしでもしていこうか」
「種……明かし?」
「なぜカーチェルニーが子供になっているのか、わかるかい?」
「お前の力ではないのか?」
「僕にそこまでの力はないよ。簡単なことさ。君も最近飲んだポーション。あれは人間用のものだが、あれを天龍に飲ませるとどうなると思う?」
「……」
最近ローズが飲んだポーションと言えば一つしかない。
アストラルリフレッシュポーション。
人の肉体と精神体を最適な状態に作り直す奇跡のポーション。
だが、天龍に飲ませてどうなるかなど、ローズに分かるわけもない。
「分からないか。んー、サーリェにでも聞いてみると良い。直ぐにここに来るはずだ」
ヴェスパはそう言うと、立ち上がってその場で身を翻す。
「また会おう」
闇が翻ったように見えた一瞬の後、その場には何の痕跡も残されていなかった。
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