26.月下
ヴァロリスの川沿いの城壁上。
夜の闇に紛れて次々と飛び降り、街を違法に脱出する三つの人影があった。
「市壁を無断で超えるとは、聖女サーリェも随分と無法者になったものですね」
「何を今更。私って、昔一旦潰した盗賊ギルドを再建して、マスターとして活動していたこともあるのよ?」
「え……、本当に何をやっているのですか貴方は」
走りながらドン引きするという器用な真似をするウルスラを引き離しながら、エリザベートは川面を見つめる。
市街地から離れ、ただでさえ真っ暗に近かった川面は急激にさらなる夜闇に沈んでいく。
雨の中、闇を見通すエルフの眼でも、波に揉まれる渡し舟の姿は、すでに辛うじて輪郭を捕らえられる程度にまでなっていた。
「ウルスラって、一応今は人族よね? 渡し舟見えてるの?」
「見えてません」
「そもそも君、目瞑ってない?」
「むしろこう言った場面は、私は見ない方が良いのです」
クロエのツッコミも、ウルスラの良く分からない返答でうやむやになる。天龍ならばそういう事もあるかと、とりあえず追及は控えるクロエ。その視界が一瞬赤に染まる。
「!?」
その光は明らかに渡し舟の方向から発されたものだった。
「ローズ!」
異常事態にローズの安否を心配したクロエが駆け出す。
そして、さして間を空けることなく、壁を抜けたように唐突に視界が開けたことに驚く。
「雨が?」
つい今まで顔を叩いていた雨が唐突に止んでいた。
いや、違う。
振り返れば、背後の雨の壁が目に入る。この周辺だけ雨が消えているのだ。
消えているのは雨だけではない。川があるはずのその場所には何もなかった。
川岸から一段低くなった土地。明らかに川底であったはずの場所。そこには一切水がなく、水溜りの一つさえない、乾いた地面が円状に広がっていた。
向こう岸に届きそうなほどの広さの円状の地面。その縁には川の水が切り取られたように壁となり、その上空には同様に円筒状に切り取られた雨と雲の壁がそそり立つ。
そして、あたかもそれに蓋をするかのようにも見える、雲で円状に切り取られた星空。その縁には意外に低い雨雲の上に満月が顔を覗かせ、その円筒状の空間を照らし出していた。
月明かりに照らされた円筒状の空間、その中央に赤が在った。
音もなく風が巻くように緩やかに流れる、静けさに満たされた空間。
赤く輝く長髪をゆるい風になびかせた小柄な人影。赤い両眼を光らせたそれが宙に浮いていた。
その静かに様佇む様子に反し、圧倒的な存在感。
クロエはそれを視界に入れるだけで、猛烈な息苦しさを覚え、それ以上足を踏み出すことが出来なくなる。
それが見下ろす先には、数人が地面に倒れ伏していた。
いや、ただ一人――
自らの足で立って、それに対峙する黒髪のエルフ。
「ローズ!」
距離はさほどではない。クロエの声は聞こえているはずだ。
だがローズは振り向かない。振り向けない。
「馬鹿な……、あり得ない……」
クロエの隣に立ったウルスラが驚愕のあまり、その目を見開きながら絶句する。
「あれは?」
かろうじて声を出したクロエが先を促すが、ウルスラは答えない。
「なによウルスラ、貴方がそんなに動揺するって初めて見たわよ?」
そこに遅れて追いついたエリザベートが、ウルスラの様子を揶揄するように軽口を叩く。
が、彼女も視線をそれから逸らすことが出来ないでいた。
「【明けぬ夜】、【永久の暴風】、【黄昏の海域の主】、【ミストラルの絶夢】……。
アレの異称は数あれど、最も巷間に膾炙するのはこれでしょう。
すなわち『人の天敵【嵐精】カーチェルニー』。
……四百年前に暴走して、三つの国と、三百万の人命を潰えさせた、有史以来最悪の……天龍の成れの果てです」
―――――
何が起きた?
ローズは現にそれに対峙しながらも、状況を理解できていなかった。
足元には渡し舟に同乗していたはずのドナートやサロモン、それに四人の衛士が横たわっている。
微かに呼吸はあるようだが意識はなく、立ち上がる気配もない。
(リナが川に落ちて……、それから光が……)
それ以降の記憶がない。
無意識のまま動いていた感覚が残っているが、衝撃のあまりか記憶が飛んでいた。
そして気が付けば川底らしき地面に立ち、目の前の存在と対峙していた。いつの間に抜いたものか、エリザベートから受け取った細剣――ヘカテーを構えながら。
周囲の現実離れした光景を目の端に捕らえながら、目の前の存在――その存在感、髪色、眼光、明らかに人間ではない――しかし姿形はリナでしかありえないそれから、視線を外すことが出来ない。
「リナ!」
意を決してローズが呼びかけると、ピクリと目の前の存在が反応する。
その反応を見てローズは愕然とする。
(やはりリナなのか? あれがリナの、天龍としての本性?)
ウルスラによれば、天龍が暴走すれば何が起きてもおかしくないという。もっともあり得るのは、人の殻を捨てて本性とでもいうべき状態となること。
おそらく、今のリナはそれに近い状態のように思われた。
だが、それはあくまで原点に過ぎない。世界の可能性そのものである天龍は、文字通り何にでも成り得る。
だとすれば、リナはこれから一体何になろうとしているのか。
なぜ……、どうして……、止める方法は……、一体どうすれば……!
疑問と焦燥で頭がぐちゃぐちゃになる。
「ローズ!」
背後から遠く聞こえてきたクロエの声にハッとする。
「動揺している場合じゃないか」
ローズがやるべきことは元より変わることなく、ただ一つ。シンプルだ。
『リナ』を取り戻す。
可能であれば倒れている六人も救いたいところだが、優先度はどうしてもリナより下になるだろう。
心の内で優先順位を確定し、ふぅと息を吐く。思うところがないではないが、そうしなければいざという時に迷いが生じる。今のリナを相手にすれば、それが致命傷になりかねない。
「問題はどうすれば良いのか、だな」
リナを斬る? 論外だ。
ならば何らかの方法で、無力化するしかない。
簡単ではないだろう。当のリナが、徐々に戦意を滾らせ、今しもローズに襲い掛からんとしているのだから。
いや、その視線は正確にはローズではなく、その構えた細剣に向けられている。
「月の欠片……」
リナが呟いたその言葉を聞いて、ローズにこの剣を託したエリザベートの言葉を思い出す。
すなわち、月の欠片を鍛えし剣。
「知っているのか?」
「
リナはその問いには答えず、右手から炎のような赤い光を発する。それは瞬時に収束して深紅の直剣と化す。
「……!」
リナの意図は明らかだ。ローズが緊張と共に細剣を握り直すと同時に、リナが空中を滑るように斬りかかってきた。
「やめろリナ!」
その言葉にも止まることなく、リナはローズに深紅の直剣を振り下ろす。
激しくぶつかる白と赤。
その結果は両者ともに予想外のものとなった。衝撃と共に反発するように両者ともに弾き飛ばされたのだ。
「!?」
「……!!」
距離を空けて再び対峙する二人。
両者ともにその表情は冷静さとは程遠い。
ローズは実体があるのかどうかも定かならぬ深紅の直剣をはじき返す形となり、その結果に少しホッとしつつも、リナと斬り合うことになった事実に慄然としていた。
そしてリナもまた顔を顰める。
切り結んだ瞬間に起きた自身の心の激しい動揺に。
「……なぜ?」
疑問が頭を過ぎり、そしてふと気づく。
そもそも自分はなぜここにいるのか。
いや、自分?
そこまで考えたところで、自分自身について何も思い出せないことに思い至り、その事実に愕然とする。
「リナ! 私はお前とは戦いたくない!」
リナ?
自分の名?
いや、違う。違うはずだ。だが、だとすれば自分は一体何なのか。
心の中の混乱がいや増す。
と、叫んでいた相手が――今まさに切り結んだ敵が、最大の脅威であったその細剣を鞘に仕舞う。
そして棒立ちとなって自分に対峙する。
「……」
理解できない。
何をしているのか。
何が起きているのか。
今ならば、隙だらけの目の前の敵を斬るのは容易い。
だがそれを肯定する自分と、拒絶する自分がいる。
自身に対する強烈な違和感。
そして気づく。
「ぐっ!?」
凍り付いていた心臓が突然、灼熱の外気にさらされたような、猛烈な痛みと苦しみ、そしてかすかな開放感。
そしてもう一つの、頼りないもう一つの心が、暴走しそうなそれを押し留める。
その頼りないもう一つの心に、長らく凍り付いて機能不全に陥っていた心は、どうしても対抗できない。
あまりにも長い間、凍り漬けとなっていたがゆえに。
そして、そのいずれもが、紛れもなく自分自身であるがゆえに。
「何をした! 私に一体、何をした! ああああああ!」
二つの心を意識したことにより、これまで同居していたそれらが反発を始める。
その猛烈な違和感に、リナは深紅の髪を振り回して悶え苦しむ。
「リナ!!」
深紅の直剣が霧散するように消滅すると同時に、その場に崩れ落ちるリナ。
と同時に、それまで静止し聳え立っていた周囲の『壁』が崩れ落ち、ローズ達を飲み込まんとするように襲い掛かってきた。
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