16.奇跡

「サロモン閣下! それでは約束が違います!」

「しかし、奇貨居くべしとも言うではありませんか。この機を逃して時間を置けば置くほど、リスクは増します。ましてやリナ様の身柄を再びエーリカの民に委ねるなど……」

「いいえ、ここは帝国直轄領ですよ? 違法行為を行えば却って危地に陥ることになります」

「三日の後に正式に縁組のはずです。そもそもあれらはリナ様の正式な保護者などではなく、一時的な後見人に過ぎないというではないですか。違法とは言えないでしょう」

「そうかもしれませんが、この街の権力機構へのコネクションと実行力を持つことも確かです。今一度リナ様の意思を確認するという彼女らの希望を無視すれば、疑念を招いて暴発させかねません」

「ふむ」


 ドナートの言葉は半ば方便であったが、サロモンはその猜疑心を刺激されたのか、思いのほか深く考え込むことになった。

 それを見てドナートは説得が成功したかと思ったが、サロモンの考えは別方向へ飛躍していた。


「あなたの言うことも一理あります。要するにリナ様の意思が固いことを、先方に示せさえすれば良いということですね」

「……そう、なりますね」

「手紙を送りましょう。そしてあのエーリカの民、ローズと言いましたか、彼女を一人呼び寄せて、リナ様の口から直接説き伏せて頂く。このまま戻らずに縁組を進めると。これならばリスクは避けられます」

「それは……」


 ドナートが難しい顔をするが、サロモンは楽観的だ。


「戻ってしまえば別れが辛くなるから、と言われれば否やはないでしょう」

「ですが肝心のリナ様がどう仰るか……」

「それは大丈夫です」


 サロモンは微塵も疑う様子がない。


「精霊の子は自ずから、その責務を自覚するものなのですから」

「……」


 納得いかなげなドナートの顔を見て、サロモンが笑う。


「丁度良い。そろそろ準備が整ったはずです」


 サロモンとドナートがコンドラン家の居間に戻ると、そこで下にも置かぬ歓待を受け戸惑っているリナがいた。


「リナ様、心ばかりの贈り物ですが、お気に召されるものはありましたかな?」

「……どうして」


 居間のテーブルの上には、いっぱいに広げられた様々な宝物が並べられていた。


 絹、木綿の反物。

 光沢鮮やかな漆塗りの櫛。

 色とりどりな髪飾り。

 銀製のカトラリー類。

 白磁の食器類。

 遠国の珍しい果物や生花。

 煌びやかな装飾が施された錫杖。

 重厚で年輪を感じさせる精霊教の聖書。

 そして、簡素でありながら気品ある純白の聖衣。


 宗教寄りの物が多く、幾分煌びやかさには欠けるものの、だからと言って物が悪いわけではない。むしろ品質については妥協したものは一つたりともない。

 それゆえに、孤児の養子に与えるようなものでない事は、子供でも理解できる。


「これらは全てリナ様にこそ相応しい品々です。遠慮なくお納めください」

「なにを……させるつもり?」


 当然の疑問。疑惑と当惑の目。それを見たドナートの顔が痛々しいものを見るように歪む。

 一方サロモンは満面の笑みを浮かべながら、リナの傍らに跪く。


「とんでもないことです。全てはリナ様の御心のままに。これ、リナ様に贈り物をお目に掛けるのだ」


 サロモンに声を掛けられ、控えていた十代そこそこと思しき修道服を着た少年が、ビクリと反応する。

 怯え震えながら、カトラリーを並べたビロードの箱を捧げ持つ様は明らかに異常だった。だが誰もそれを咎めることはない。

 そして一歩踏み出したところで、少年がいかにもわざとらしく転ぶ。


「あっ!」


 床に散らばるカトラリーが奏でる音に、リナが驚いていると、サッとサロモンがその視界を遮る。


「おお、大変だ。大丈夫かね?」


 少年を助け起こすふりをして、その耳元にそっと囁く。


「さあ、信仰を胸に、精霊の御心を明らかにするのです……」


 散らばったカトラリーからフォークをつかみ取った少年は、震えながら目を瞑って自分の左手の甲にそれを突き刺そうとする。が、力が入らず浅く刺さったところで止まってしまう。

 フォークが浅く刺さった甲に血がにじむ。少年は涙目になりながら助けを求めるように周囲を見回す。

 しかし、その大部分が厳しい目で自分を見返すばかりであることに気づき、絶望する。その様子にドナートは思わず目を逸らす。


「うう……」

「さあ」


 サロモンが少年の手に自分の手を添える。そのまま力を籠めると尖った先がずぶりと沈み込む。


「あああああ!!!」


 真っ赤な血を流し、激痛に苦しむ少年。


「ああ! なんという事だ!」

「!?」


 視界を遮っていたサロモンが身を翻すと、左手にフォークを突き刺した少年が苦しみ唸る様が、リナの目の当たりになる。

 そのタイミングや周囲の反応など、あからさまに芝居じみており、子供騙しにもなっていない。しかしそれでも、リナの目に映る少年の苦痛と血の赤は、間違いなく本物だった。


「転んだ拍子に突き刺してしまったようです。リナ様! 願わくばお慈悲を!」


 サロモンがリナを促して、少年の前へと導く。

 目の前に広がる血の赤。

 周囲の人間たちの目。

 熱に浮かされた目。

 痛々しいものを見る目。

 好奇の目。

 冷ややかな目。

 疑念の目。

 そして、苦しむ男。

 リナという殻の中で、古い、とても古い記憶が刺激される。


「……」


 唐突にリナの周囲から音が消える。

 痛みに喘いでいたはずの少年の声すらない。

 ただその傷口から滴り落ちる赤が、時間が止まったわけではないことを示していた。


「……」


 そっと近づいたリナが、

 その中に眠るナニカが、


 ふるいきおくをひていする。


「……」


 世界に音が戻る。


  チリン


 と、澄んだ音を立てて、少年の手からフォークが抜け落ちる。

 そこには何もなかった。

 傷も。血の赤も。痛みさえ。


「え?」


 周囲の人間たちが瞠目する。


「奇跡だ!」

「まさか、今の一瞬で!?」

「ハイヒールポーションですら、これほどすぐには傷を塞げないぞ!」

「まさか、フォークを突き刺したままで治癒を……?」

「血の痕すらないとは……」


 大人たちの驚愕の言葉も耳に入らないように、心底驚いた様子の少年が、ゆっくり笑顔になる。自分の左手を不思議そうにペタペタ触って、その感触を確かめる。


「痛くない!」


 素直に喜ぶ少年を、愕然とした顔で見つめるドナート。


「どうです。私の見込み通りだったでしょう」

「……はい」

「リナ様は自らの意思で少年の傷を癒した。まさに精霊の御意思。聖なる御子。必ずや我らと共に在ろうとなさるでしょう」

「……」

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