28.望み
「呪い……」
そう呟いたペルペトゥアの表情は凪いだままであり、そこから彼女の思いは窺い知れない。
「いかな真祖と言えどあなたでは私には勝てない。事ここに至っては、呪いにせよ復讐にせよこれで幕引きとなるわ」
「……」
傲慢な物言いではあったが、ペルペトゥアとしても異論はなかった。事実彼女にはほとんど戦う術などないのだから。
ただ、少し。ほんの少しの不満を感じる。
義務――エリザベートへの復讐のためにここに来たはずの、自分のことを棚に上げて。
自業自得であるはずなのに。
その自分の心の動きに戸惑いを感じる。
「昔の誼よ。私にはあなたに二つの選択肢を提示できる。一つはこのまま私に討たれること。そしてもう一つは……」
エリザベートが懐からポーション瓶を取り出して、テーブルにコトリと置く。
「これは?」
「抗天龍因子剤。これを飲めば真祖から人に戻れるわ。人に戻ってレオンとも手を切り、どこぞの片田舎にでも隠棲するならば見逃してあげる。おとなしく人として余生を過ごしなさい」
「それは……」
感情を失ったはずのペルペトゥアがかすかに驚きの表情を浮かべる。
そのようなことが出来るのかという驚きであり、それよりも……
「私には恩義があります。妾腹の娘にも関わらず、兄姉様方と変わらぬ愛情を注いでいただいた義母上様、歳の離れた末妹として可愛がっていただいた兄姉様方に」
「ラウルにはないのね」
皮肉っぽくつぶやくエリザベートの言葉に、ペルペトゥアも思わず苦笑する。失われたはずの感情が、時折不意に蘇ることに奇妙なおかしみを感じる。
「父はああいう方でしたが、義母上様には逆らえませんでしたから。私にとっては無害な方でしたよ」
「辛辣ね。無理もないけど」
ペルペトゥアとしては辛辣なつもりなどなく、事実を述べただけだったのだが。
それはともかく疑問があった。
「しかし、なぜこのような薬を?」
真祖を人に戻すなどという、人の技を超越した薬。
そのようなものを作り出すのにどれほどの時間と資金が必要か。
そしてその効果には真祖を打倒するのではなく、救うという意思が明らかだ。
エリザベートは以前からレオン王国に真祖の影を見出していたようだが、それが誰なのかまでは分かっていなかったはずだ。そしてそれが誰にせよ、エリザベートがその者を気に掛ける理由などなかった。
ただ一人を除いて。
ペルペトゥアは自らの心が疼くのを感じた。期待と恐れ、喜びと悲しみ、失われた感情の平坦な水面がかすかに泡立つ。
「決まっているでしょう。真祖があなただった時のためよ」
その時、内面に沸きあがったのは歓喜。
ペルペトゥアはゆっくりと瞬きをして、飲み込んでいた息を吐き出す。
彼女にとってエリザベート――聖女サーリェとは、憧れであり、姉であり、世話の焼ける友人であり――家族の仇であり――もう一つの家族の仇を討った恩人でもあり――
そして……
かつてその胸を焦がし、掻き乱し、深い爪痕を残した相手。
その全てが時の彼方に去ったはずの今もなお、心を泡立てる人。
「あなたは……」
そもそも義務などと言い訳して、その名を追ってこのような所まで来たという事実が、ペルペトゥアに己の真の望みを自覚させる。
ゆえに、一言、恨み言くらいは吐き出しても良いのではないだろうか?
「あなたはひどい方ですね。あの時、私を止めてはくれなかったくせに」
「だからこそ今ここに居るのよ」
その美しく自信に満ちた顔を見返す。
あのころのエリザベートとは随分と変わった。
当時どこか俗世を厭うような雰囲気を持っていた彼女が、今は自信をもって生きているように見える。あの時、多くの友人を失ったことで、さらに厭世観を深めてもおかしくなかったはずなのに。
取り繕っている? それとも良い出会いでもあったのだろうか? そんな気がする。彼女を変えたのが自分でないことにわずかな不満を覚える。
ため息をついてその思いを隠し、あえて別のことを指摘する。
「感情の摩滅した今の私が人に戻ってどうなるというのです」
「……少なくとも人として死ねるわ。あなたが永遠を彷徨う必要はない。永遠の命などに何の価値もないことは、あなたもこの百五十年で十分理解しているでしょう?」
「そうだとしても、それを厭う気持ちも後悔する感情も、とうに枯れ果てましたよ。それに……」
そこまで言ったところで、唐突に馬鹿らしくなる。
ああ、なぜ自分は最期にこんなつまらないことをこの人と話しているのだろう。
違う。違うのだ。
今この人と話したいことは……
人は歳をとると自分を偽るのが上手になる。
そして後悔を残して死んでいく。
そんなものを無数に見てきたではないか。
何も長々と話をする必要はない。
一言だけで良いのだ。
私の望みは……
唐突に黙り込んだペルペトゥア。その雰囲気が変わったことを訝しむエリザベート。
それに気づいたペルペトゥアが静かにほほ笑む。
「……私はただ、一目あなたに会いたかっただけなのです」
「……」
かつて取り返しのつかないほど断絶した両者の関係。それが僅かなりとも修復されるとすれば、長い時間を置くしかない。憎しみが歴史として昇華されるほどの途方もない時間を。
ペルペトゥアがその望みを叶えるためには、人族の寿命ではあまりにも短すぎた。
それこそが彼女自身今の今まで自覚していなかった、血を飲むことを承知した真の理由。そして今ここにいる理由。和解には程遠くとも、言葉を交わす。ただそれだけのため。
それが望外にもそれ以上の答えを得た。
エリザベートに言葉はなかった。
だがその表情をみて、その心に一筋の爪痕を残したことを確信し、ペルペトゥアは満足の笑みを浮かべる。
ポーション瓶に手を伸ばす様子はない。
その明確な拒絶にエリザベートは顔をゆがめる。
腰から細剣を引き抜く。
白く光り輝く刀身は尋常の剣ではあり得ないものだった。
「人の天敵、真祖ペルペトゥア。我が女王エーリカの代行者として、私はあなたを討たねばならない」
「……」
「最後の警告よ。それを飲みなさい」
ペルペトゥアはその言葉に従う様子も見せず、静かに目を瞑る。
「……なぜ、そこまで頑ななの」
そんなもの、決まっている。
「私には、もはやこれ以上の望みはありません」
エリザベートの心に消えない傷跡として残る。例え今この時が歴史の彼方に過ぎ去ろうとも、決して消えぬ傷を。それ以上の望みなどありえない。
なんと愚かで、なんと利己的な望みだろうか。
―――――
どれほどの時間、躊躇ったのだろうか。
古い知己とはいえ百五十年もの間音信不通であった相手に、これほど動揺するとは。
それはエリザベート自身にとっても全く予想外のことだった。
(さっさと斬り捨てて戻るはずだったのに)
だが、そもそもなぜ自分はあのような薬を用意していたのだろうか? 厳重な保存処理を施しても劣化を免れず、十年おきに莫大な資金と時間をかけて作り直さねばならないようなものを。
ここ百年ほど惰性で作り置きを繰り返していた、そもそもの初めの動機は何だっただろうか?
罪悪感? 哀れみ? 郷愁?
分からない。
そこまで考えて自嘲する。
分からなくなっても当然か。そもそも今の自分は一度壊れ、継ぎ接ぎで人間の振りをした人形のようなものなのだ。
目の前にいるペルペトゥアと同じではないか。
「そうね、人として老いさらばえるよりは、今死んだほうが幸せなのかもね」
躊躇いを振り切り、その白い刀身を向けて心臓に狙いを定める。
ペルペトゥアは目を瞑ったまま動かない。
そのまま一気に剣を突き入れ……
それが途中で止められたことに愕然とする。
「なんだか随分と楽しいことになっているね」
何の前触れもなく目の前に男が立っていた。
みすぼらしい服装はまるで農村の貧民のようだが、ぼさぼさに伸び放題の枯れ葉色の前髪に隠されていない顔の下半分は思いのほか整っている。ただしその下半分も覆い隠す髭によりその印象は台無しになっていた。
その男は左手でエリザベートの細剣を摘まんで、その進みを完全に阻止していた。
「ヴェスパ!」
「やあ、久しぶり」
エリザベートは飛び退いて間合いを取ると、油断なく細剣を構えなおす。
それを気にした風もなく、ヴェスパと呼ばれた男が首を傾げる。
その動きに合わせて、枯れ葉色のぼさぼさの前髪から、隠れていた青い瞳が僅かにのぞく。その瞳には高い知性を窺わせた。
「君の物語に積極的に介入するつもりはなかったんだけどね。よく見たら契約違反じゃないか」
「なにを……言っている?」
「僕の血を君に渡した時、約束しただろう? それを他人に与えてはならないよって」
「私はそんなこと」
「んー、過程は関係ないんだ。結果としてそうなったことが重要なんだよ。分かっているだろう?」
一方、突然の成り行きに目を見開いたペルペトゥアは、目の前に立った男の後姿を呆然と見上げる。
「ヴェスパ? 悪龍……」
「そうだよ。そして君の血の親ということになるね」
ペルペトゥアの声に振り返ってにこりと笑いかけると、再びエリザベートを見つめる。
「だからペナルティだ。彼女は貰っていくよ」
「……! 待ちなさい!」
「あ、あとその剣だけど、ちゃんとしかるべき者に渡した方が良い。君には似合わないよ」
そう言い捨てて、ヴェスパは身につけていなかったはずの闇色のマントをばさりと翻し、空間を切り取る。
一瞬の後、ヴェスパとペルペトゥアの姿はその場から消えていた。
ギリリという不快な音と共に、エリザベートの食いしばった口から血がにじむ。
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