16.抜け駆け

「ふぅ……」


 クランハウス三階のプライベートエリアの風呂場。

 ローズは湯舟の縁にもたれかけながら、全身を伸ばして湯につかる。長すぎるほど長い黒髪は湯舟の外に垂らして、頭髪用の湯薬を入れた専用の桶にまとめている。

 ちなみに今の髪の長さは踵ほどである。半月ほど前に切ったのだが、そのときにはクロエに泣きながら止められた。しかし流石に身長の三倍は長すぎたのだ。ぎりぎりの妥協の結果だった。

 魔導人形による襲撃が行われた翌朝、クロエは早速レオン王国に会談の実施日の申し入れを行った。それも翌日を指定して。

 高位の貴族ほど勿体ぶるのが文化であるこの国では異例のテンポの速さであるが、相手方は少なくとも表面上は特に動揺もなく、にこやかに受け入れたらしい。手紙を届けたベルの主観であるが。

 その日一日、クロエは明日のために忙しそうに資料をまとめ、ノイアはその手伝いを行った。

 ローズも手伝おうとしたのだが、ゆっくり休むようにと執務室から追い出された。結局は中庭で自主鍛錬で時間を過ごすしたので、休んだのかと言われると微妙ではあったのだが。


「ちょっと気を使われているのかな」


 魔導人形に負けたことは確かにショックだったが、そこまで気を使われるほどではないとローズ自身は思っていた。そのため、気を使わせてかえって申し訳ない気分になる。


「しかし、考えてみれば毎日自宅で風呂に入れるってすごい贅沢だな……」


 ローズが【水晶宮殿】のクランハウスに引っ越してきて一番良かったと思っていることが、この風呂だった。

 男の頃も公衆浴場には良く通っていたが、雑多で騒がしい浴場はローズにとってはあまりくつろぐことが出来る環境とは言えなかった。それと比べると天国のような環境だ。

 なお一階にはメンバー用の広い風呂場もあるのだが、女性との裸の付き合いはローズにはハードルが高すぎて利用していない。

 三階の風呂場は共用ながら基本的には一人用である。クロエやノイアも毎日入るので順番によって前に入った者の……とか自分が入った後の湯に……とかあるのだが、ローズはそれについては考えないようにしていた。

 時々思わず考えそうになってしまうが、その度に目をつぶって「考えるな、考えるな……」と呟いて耐えている。


「……平常心……」


 幸い今日は一番風呂であるため精神的抵抗は小さい。精神的抵抗の大小などと言っている時点で、考えてしまっているのだが、それには気づかないものとする。それくらいの精神コントロールができなければ、クロエやノイアとひとつ屋根の下で暮らしていけないのだ。

 などと心を落ち着けていられたのはそこまでだった。


「お邪魔します」

「!?」


 浴室と更衣室を隔てる扉が開く音と同時に、見知った声が聞こえて思わず振り返る。

 そこにはバスタオルで裸身を包んだノイアが、すらりとした肢体を晒して、静かにローズを見下ろしていた。

 一見、堂々とした佇まいであるが、その表情を見ると少し頬を染めているのがわかる。大胆な行動をとりながらも、やはり平常心ではいられないということなのだろう。ローズはその姿をまじまじと見つめてしまう。

 惜しげもなく晒された肌色の手足は、一種の芸術的と言えるほど煽情的な色気を放っている。バスタオルに隠された部分も、その輪郭は隠しようもなく、腰から太腿に至る曲線は隠されているにもかかわらず、ローズの視線を捉えて離さない。そして何より、バスタオルと両腕によって厳重に防御された上半身。隠しきれないそのふくらみは、かつてローズを昏倒させた凶器が今なお健在であることを示していた。


「で」


 思わず口を突いて出そうになった言葉にローズはハッと正気に返ると、姿勢を正して顔と視線を正面に戻す。


「違、じゃなくて! え? 鍵は?」

「開けました」

「???」


 浴室は内側から鍵をかけることが出来る。当然ローズも事故防止のため入浴中は鍵をかけている。しかしノイアはそれをあっさり開錠して突破してきていた。

 実は浴室内での事故等に備え、その鍵は外側からでも比較的容易に開錠可能な構造になっており、ノイアでも簡単に開錠できたのだ。


「あ、閉めた方が良いですか?」

「いや! そうじゃなくて! えぇっ!?」


 そんな事情を知らないローズはただひたすら混乱するだけだった。ノイアの事前のリサーチの勝利と言える。


「お背中流しますよ。あと髪の手入れも大変でしょう?」

「いや、それはまぁ大変なんだけど……、駄目だろう未婚の女の子が人前に肌をさらすとか!」

「クロエさんとは一度一緒に入ったんですよね、お風呂」

「な!?」


 一か月前の某事件を思い出し、激しく動揺するローズ。


「やっぱり……。なら問題ありませんね」

「う……」


 動揺のあまり反論する言葉が見つからず、湯船に頭を半分沈めて逃げるローズ。湯舟の水面がローズの動きに合わせてゆらゆらと前後に波打つ。その波を顔面から被るが、無色透明な湯を頭に被ったところで当然逃げられはしない。

 ばかなことをしたせいでかえって冷静になったローズは、ひとまず姿勢を元に戻してノイアにこの行動の理由を問い質す。視線は正面。後頭部方向のノイアはできるだけ意識しないように努める。


「どうしたんだ、いきなり」

「ローズさんの事ですから、自分では気にしてないと思ってそうですけど」

「何のことだ?」

「魔導人形に負けた件です」

「ん」


 半ば予想していた返答に(やはりそれか)とため息をつくローズ。


「それより、寒いので一緒に入っていいですか?」

「え!? いや、それは流石に……」


 湯舟は一人用であるが、入ろうと思えば二人くらいは入れるだろう。ただし、並んで密着するか、全身を晒して正面から向かい合うか、いずれかを覚悟する必要がある。


「冗談ですよ。今日のところはお背中流すだけにしておきますから、上がってください」

「あ、ああ……」


 今日のところ、と言う言葉にいささか引っかかるが、ひとまず素直に従う。

 体はさっき自分で洗ったんだけどなぁと思いながらも、椅子に座っておとなしく背中をノイアに任せる。

 その背中に石鹸を泡立てたタオルを当てるノイア。


「ん……」


 かつてクロエに触れられて醜態を晒した敏感肌であるが、気合を入れれば他人に触れられても何とか耐えられる程度には慣れてきている。


「……」

「んん……」

「……」

「ふっ……」


 あまり耐えられてなかった。

 ローズ本人はそれなりに耐えられているつもりであるものの、客観的に見て艶めかしい反応に、ノイアの方が赤面してしまう。


「小さくなっちゃいましたね」

「う……なにがだ?」


 細身のローズの背中は肩甲骨や背骨が浮き出て、それだけ見れば一流冒険者の背中だとは思えない。

 日に焼けてない白い肌を傷つけぬよう丁寧に拭っていく。


「昔もこうやって背中を拭いたことがあります。覚えてますか?」

「……あー、随分と前のことだな」


 シルト邸の客室に泊まったロイズが就寝前に体を拭いていたのを、当時少女であったノイアが突撃して、面白がって背中を『拭いてあげた』ことがあった。

 乱暴にごしごしと擦られたのだが、所詮幼い少女のやることで、ロイズは苦笑しつつ甘んじてそれを受けた。

 満足したノイアが『今度は交代。私の背中もやって』と言うのを宥めるのに苦労した覚えがある。まだ子供とはいえ流石に当時のロイズが少女の肌を触るのは問題だ。何とかシルトに押し付けて逃げたのだが。


「あの頃の背中は、ものすごく大きく見えました」

「ん……、まぁ今は物理的に小さくなったからなぁ……」


 湯をかけて泡を洗い流すと、次は頭髪の手入れを始める。

 こちらはその長さゆえにかなりの手間だ。

 頭頂部から丁寧に洗う。洗いながら頭皮マッサージを施す。


「う……」


 だんだんと、ローズの体幹が目に見えて怪しくなっていく。マッサージが奏功して眠気を誘っているようだった。


「ローズさんはあんまり負けた経験がないんじゃないですか?」

「……そんなことは……ないぞ」

「ならなんで目に見えて落ち込んでいるんですか?」

「……落ち込んでなんか……そう見えるのか?」

「あからさまなくらいです」

「……そうだったのか」


 半ば寝ぼけながらもノイアの問いに律義に答える。


「悔しいなら、貯めこまずに表に出した方が良いです」

「……悔しいのかな? 私は」

「多分ですけどね」

「そうか」


 ノイアが髪を手入れする動きに合わせ、かすかに揺らめくローズの背中。このまま夢心地のままにしてあげても良かったのだが。

 ノイアは余計なことだと思いつつ、引っかかっていた思いを口にする。


「ごめんなさい」

「どうした?」


 唐突な謝罪の言葉にローズの背の揺れが止まる。


(律儀な人だ)


 寝ぼけながら聞くことではないと、ノイアの声色から思ったのだろう。


「婚約の事です。強引に頷かせてしまって」

「いや、謝ることじゃないよ。ノイアのような綺麗な子に、その、思われるってのは、とても光栄だ。純粋に嬉しかったよ」

「……そう言ってもらえると」


 嬉しいと言っても、きっと二番目なのだろう。少し嫉妬の心が顔を覗かせる。

 でも今はそれで良いのだ。


「ひょっとして……?」

「はい、ここで暮らしていると、多少強引なことをしないと二人きりになれませんからね」


 どうやらこれを言うために強引に風呂場に入ってきたらしい。それを悟ってローズは苦笑する。


「私の方こそ済まない。私の腰が定まってなかったばかりに不安にさせた。女の子に謝らせることじゃなかった」

「ローズさんも今は女の子ですよ」

「うーん、まぁ気分的にね」


 横顔を見せて苦笑するローズ。


「幸せにする、って臆面もなく言える性格じゃないが、みんなで幸せになる努力はするつもりだ。……これからもよろしく」


 姿かたちは変わっても、やはりローズはロイズだった。

 かつて自分が好きだったロイズ。

 今自分が好きなローズ。

 心が満たされた気分になったノイアは、ローズの横顔に、その長い耳にキスをして、浴室を後にした。




 一方、取り残されたローズ。


「……」


 耳に感じた柔らかな感触が何であるかを悟る。


「……あう」


 冷静になろうとする心に反して、顔が赤くなるのを止められないでいた。

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