16.被害者の夜

「どうしてこうなった」


 ローズは寝室のベッドの上で小さくつぶやく。

 視線を足元へ向けると、その向こう、カーテンの隙間から差し込む一条の月明かりが、淡く壁の一角を照らしていた。その微かな明かりを頼りに壁掛け時計を確認する。時計の針は午前一時三十分を指していた。九時に就寝したことを考えると、もう四時間以上もこうして悶々と過ごしていることになる。

 その原因がローズの両腕に抱き着いて微かな寝息を立てて眠っている。

 左腕を抱え込んで眠っているのはノイアだ。

 正直に言えばこのような状況も初めてというわけではない。ただし、それはノイアが十歳にもならない子供の頃の話だ。シルトの家で呑んだ流れで泊まった時に寝床に潜り込まれたもので、やましいことなど何もなかった。朝起きたときにシルトに首を絞められたが。

 ローズにとってノイアは親戚の娘のような存在であり、半ば家族であった。ゆえにこれまで女性として意識したことはなかったのだが……

 知らない間にすっかり成長し、存在感を主張するようになった部位が、まるで意識しろと訴えかけるかのように、ローズの左腕を挟み込んで圧迫していた。


(着やせするタイプだったんだな)


 一瞬意識がそこに向いてしまい、慌てて気を逸らせる。

 うす布二枚隔てただけのその柔らかに過ぎる感触は、未だ男性としての意識の強いローズにとって凶器以外の何物でもなかった。

 ローズはノイアから意識を逸らせようとし、ついうっかりと右腕の感触に意識を向けてしまう。

 こちらはこちらで、ある意味さらに凶悪だった。

 何しろローズの思い人であったクロエが抱き付いているのだ。


(意外と……あるよな)


 スレンダーなクロエの主張しない胸であるが、いざ接触すると意外なほどのボリュームを感じた。もっともローズにはこのような状況で女性と接触する経験がなかったため、『意外』と言えるほどの比較対象もないのだが。


(それより……)


 非常に始末が悪いのは右の手のひらがクロエの太ももに挟まれていることだ。

 寝ぼけたクロエに挟まれ、抜くに抜けずそのままになっていたのだ。

 挟まれた瞬間に引き抜いてしまえばよかったのかもしれない。しかし、クロエを起こしてしまうかもしれないという躊躇、クロエの太ももを手で刺激してしまうという恐れ、そして何よりその感触を出来るだけ長く感じていたいという欲望に暫時屈服していた結果、そのままになってしまったのだ。

 一度タイミングを失うともはや現状維持を続けるしかなかった。ローズの心の中は羞恥と罪悪感とそれを上回る多好感で一杯だった。

 それでますます悶々として寝付くことが難しくなっているのが現状だった。


(二人はすぐに眠ったのに)


 ローズだけが眠れない夜を必死にやり過ごそうとしていた。




 事の始まりは各自が風呂からあがり、自室に下がって就寝の準備を始めたころの事だ。

 ローズが就寝のための用意に悪戦苦闘(主に髪のため)していると、扉がコンコンとノックされる。


「はい?」

「ノイアです」


 一人暮らしの習慣で部屋の鍵を閉めていたことに気づいたローズは、髪をまとめる作業を中断して扉を開けるために椅子から立ち上がる。


「今鍵を開ける。どうかしたか?」


 言いながら開錠して扉を引くと、夜衣姿のノイアが立っていた。

 体形から考えてクロエではなくエリザベートから借りたものだろう。大人びたデザインの夜衣はノイアの魅力を十二分に引き出すものだった。

 その普段見ない姿に一瞬どきりとしたローズだったが、それを表に出さないように心を落ち着ける。


「少しお話しませんか?」

「ああ、いいよ」


 ノイアは部屋に入りながら、ローズが小脇に抱えた手入れ中の髪とそれを収めた網籠を目に留める。


「手伝いましょうか?」

「いや、一応自分で何とかする訓練中なんだ」


 そう言いながらノイアに椅子を勧め、自分はその対面に座る。

 網籠をどうしたものか悩みつつ、結局床に置いて手入れを後回しにする。


「切ってしまって、ある程度短くした方が良いのでは?」

「うん、俺……私もそう思ってるんだが、エルフ的にはあり得ないらしくてな」


 遠い目で語るローズをノイアは不思議そうに見返す。


「クロエさんに言われたんですか?」

「うん? まぁそうだな」

「でもクロエさんの髪は、太ももくらいまででしたよね」

「それくらいだったかな?」

「冒険者ですし、せめてそれくらいにした方が良いですよね?」

「ん? まぁそうなんだけど、クロエがな」

「クロエさんが言うから切らないんですか?」

「んん?」


 普段穏やかなノイアが少しづつ語調を強めてくることに困惑するローズ。


「ローズさんが必要と判断すれば、ローズさんの判断で切って良いと思います。ローズさん自身の体の事なんですから」

「いや、でもエルフの常識が……」

「そんなもの、人族国家に出てきているエルフには関係ないですよね」

「えーと? そう……、なのか?」


 エルフは一般的に高慢とされているが、エルフの領域――エルフ国家であるエーリカ王国や帝国内のエルフ自治領――ならともかく、そこを出た他種族の領域で、相手の習慣を踏みつけにしてまで、自分達の習慣を押し通すほどは傲慢ではない。

 エルフの常識と言われて思考停止していたが、確かにこの国で生きていく限りは髪を短く切ってしまっても問題ないはずではあった。実際にそうやって暮らしているエルフのほうが多いのだ。

 問題ないはずなのだが……

 ローズは自分を見つめるノイアを見返す。良く分からないが、常のノイアとは思えない圧力を感じる。そして妙な予感があった。ここで安易に流されると大変なことになると。


「あー、ところで何か要件があったんじゃないのか?」


 なので、話を逸らして逃げを打つ。

 これもまた正解ではないと感じるが、そもそも何が問題なのかも分かっていないので、逃げるしかない。少しでもベターと感じる方へと……


「……」


 ローズの逃げに不満顔になるノイアであったが、ため息をついて本来の要件を口にする。


「今晩、一緒に寝てもいいですか?」

「えっ!?」

「突然あんなことがあって、ひとりになるのが怖くて……」


 ノイアはそう言うと、自らの肩を抱いて微かに震える。


「……そうか」


 一瞬動揺したローズであったが、続いたノイアの言葉に納得する。

 ノイアは多少の戦闘訓練は受けているものの、実戦経験などない普通の街娘だ。それが犯罪組織にさらわれて危ない目にあったのだ。ショックを受けていないわけがなかったのだ。ローズとしては配慮が足りなかったと反省せざるを得ない。


「そう言うことならクロエかエリザベートの部屋で」

「ここでお願いします」

「え」


 先ほどまでの頼りなげな雰囲気から一転、絶対にひかないという強固な意志のこもった瞳。その急変に困惑するローズ。


「ここで?」

「ここで」


 ううむ、と唸りつつもかつての子供だった頃のノイアと、一緒の寝床で眠ったことを思い出す。ノイアの方もかつての思い出に縋っているのかもしれない。ここで無碍にするのも酷であろうと思いなおすローズ。


「ふむ、分かった。一緒に寝るか」

「……よし!」

「よし?」

「はい? なにか?」


 ノイアが小さく呟いた声を聞きとがめたローズであったが、首を傾げるノイアをみて聞き違いかと思いなおす。


「いや、何でもない。なら、俺……私はソファーでn」

「ベッドで一緒ですね」

「えぇ?」


 今度こそ本気で困惑するローズ。


「ローズさんはもう女性じゃないですか。何も問題ないと思いますが?」

「……確かに」


 倫理的には問題ない。そもそもノイアに何かするつもりなどローズには毛頭ない。

 物理的にもこの部屋のベッドのサイズは三~四人並んで眠れるほどなので問題ない。

 ノイアも問題ないと言っている。

 問題を感じているのはローズのみだった。

 ローズの躊躇を補強するものは何もなく、むしろ突き崩す材料ばかりが揃っている。


「まぁ……いい……のか?」

「はい!」


 いまいち腑に落ちないローズであったが、追い出すのもあり得ない。


「うーん、それじゃあ……」


 言いかけたところで、部屋の扉が勢いよく開く。


「話は聞かせてもらった! 私も同衾しよう!」

「クロエ!?」


 突然の闖入者はクロエだった。

 灰色のだぼだぼの寝間着にナイトキャップ。左の小脇には大きな枕まで抱えている。完全に就寝準備完了状態だった。ちなみに寝間着はローズと色違いのお揃いである。

 断りもなく部屋の中にずかずかと進んでくるクロエの姿に、唖然とするローズとノイア。


「お、おい。何を言ってるんだ? というか盗み聞きしていたのか!?」

「そこは心配しなくて良い。この建物の個室の防音は完璧だ。扉や窓を締め切っている場合、ノックと用件、その返答以外の声は通らないようになっている。ちなみに叫び声や何等か事件や事故が起きたような大きな音は通すよ。治安的配慮だ」

「なんだその無駄に高性能なシステムは」

「なので話は聞かせてもらった、とは言ったが実は聞いていない。

 密かにこの部屋を訪ねたノイアの要件を想像し、タイミングを計って突入しただけなので安心したまえ。

 もっとも話の内容は大体想定通りのようだがね!」

「……」


 得意げに解説するクロエに対し、不服そうなノイア。

 クロエはつかつかと歩いてノイアのそばまで来ると、その肩を抱くようにして顔を寄せる。


「敵地でこうも堂々と抜け駆けとは、なかなかやるじゃないか」

「同居のアドバンテージを譲ってしまっている分、この好機を逃すわけにはいきませんからね」

「ふむ、なるほどな。はっはっは」

「うふふふふ」


 ローズに聞こえない小声で喋りながら、不気味に微笑みあう二人。それを見て本能的に『怖い』と思ってしまったローズを、誰も責められはしないだろう。


「とにかく、二人きりで同じベッドなんて認められないね。間違いが起きたらどうするんだい?」

「ん? 女同士で間違いなんて起きるわけないだろう」

「え?」

「え?」

「ん?」


 驚いたクロエとノイアに見つめられて困惑するローズ。


「ローズ、キミひょっとして……?」

「……なんだ?」

「えーとだな、女性同士でもやろうと思えば出来るんだよ?」

「な、なにをだ……?」


 半ば回答を想像できていながら、まさかと思いつつ聞き返すローズ。


「もちろん夜のお作法さ。要するにだ、世間の同性カップル達も必ずしもプラトニックな関係というわけではないんだよ。まぁ、プラトニックな人たちも居ないわけではないけど」

「は?」

「つまり大抵は普通の男女カップルと同じように、あーんなことしたり、こーんなことしたりしてるわけで……。出来るんだよねぇ」

「え、一体どうやって?」


 ローズももちろん男女の夜の作法について知識はある。あんなことこんなことと言われて何のことかわからない程初心ではない。

 しかし同性同士ではそのようなことは出来ないものと思い込んでいた。友人関係の少なさと根本的な経験のなさによるもの、そして単純に思い込みのせいだろう。


「えぇ、それ私に聞く? 私だって知識はあっても経験はないんだよ? 説明するのはちょっと恥ずかしいんだけど」


 ほんのり頬を染めて、左右の人差し指をくにくにするクロエの様子を見て、自らの失言を悟るローズ。


「え、あ、う、すまん、いや、そういうつもりでは」

「何だったら実践してみるかい? 私もちょっと興味あるし」

「え!?」


 思わず『実践』を想像してしまうローズ。当然相手はクロエであり……


「ダメに決まってるでしょう!」

「そんなに怒んないでよ、冗談だよぉ」


 慌てて怒鳴るように割り込んできたノイアにカラカラと笑いを返すクロエ。実のところ一割くらいは本気が混じっていたが、当然それは黙っておく。


「しかし、普段つんとお澄まし無表情なローズがここまで動揺して……って、うわ、本当に茹でダコみたいになってる」


 クロエが横目で確認したローズは、両手で顔を覆って俯いている。元が色白なだけに、指の隙間から見える顔色が真っ赤なのが良く目立っていた。特に耳がひどい。


「乙女かな? 乙女か」

「誰のせいだと!」

「あははは」


 恨みがましい目でクロエを睨むローズ。


「まぁそれはともかく、その髪の手入れやっちゃおう。君が自分でやってると日が暮れそうだし。もう暮れてるけど」




 結局、クロエとノイアが二人掛かりでローズの髪の手入れをすることになった。

 ローズは腑に落ちないという顔でされるがままになっていた。


「思うんだがやはりこの部屋で三人で寝るのは……」

「二人は問題あっても三人なら問題ないだろう?」

「そう……かもしれないが」


 基本的にローズは女子同士の距離感が分からない。そのためクロエの言うことを鵜呑みにせざるを得ない。クロエだけなら疑うところだがノイエが否定しないのだ。

 実際この国では若い女性の友人同士がお互いの家に泊まって遊ぶことはよくあることなので、普通なら問題ないのも事実である。


「正直なところ、私としては先走りすぎたかなとも思ってますが」


 香油をつけたローズの髪に櫛を通しながら、ノイアがクロエに囁くような声で若干後悔している内心を吐露する。


「今更なんだよぉ、ここまで来たら一蓮托生だろう?」

「まぁ、引き下がる選択肢もないですね」

「うむ。それに二人がかりならローズに意識してもらえる可能性が高くなるというものじゃないかね?

 私は顔には自信があるが体はちょっとメリハリに欠けるところがあるからね。

 君の方は容貌では若干私に劣るかもしれないが、体は結構けしからん感じで、二人揃えばバランス良いと思うんだよね」

「……」


 クロエの傲慢なのか正当なのか判断に困る評価に無言を返すノイア。


「今現在のローズに私たちに対する恋愛感情がないとしても、まだまだ男としての意識が強く残っているだろう? そこで美女二人に挟まれれば、自然と緊張して心拍数が上がるはずだ。吊り橋効果の応用で恋愛感情に錯覚させるという作戦だ。どちらが吊り橋役で、どちらが恋人役になるのかは、天龍のみぞ知るってところだね」

「あの、クロエさんって……、大分抜けてますね」

「え!? 何が!? どういうこと!?」

「いえ、分からないならその方がこちらとしては都合が」

「えぇ?」


 自分の完璧な作戦にケチをつけられ不満げなクロエ。


(十年の付き合いで気づいていないなんて)


 実のところノイアはローズのクロエへの対する気持ちに薄々気づいていた。だからこそ焦っていたのだが、当のクロエには気づいた様子が全くないことに拍子抜けする。焦る必要はなかったかと肩透かしされた気分だった。

 そして、クロエのロイズ=ローズへの気持ちについては、それが十年来のものであることなど、ノイアには知る由もない。そのため、クロエがここ数日で急にローズへ接近し始めたように見え、それについては思うところが大きかった。

 結果として、いささかならず引っかかっていたローズとの性別問題、それが気にならなくなるほど対抗心が燃え上がるノイアだった。


「負けません」

「お? こっちこそ負けないよ」




 そしてなんだかんだあって就寝。

 アピール合戦のはずが、いざとなると緊張で固まって、かろうじて腕に抱き付くだけになったクロエと、それに呆れて同じように抱き付くだけにとどめたノイア。二人ともがローズの気持ちなど知らぬかのようにあっさり眠りに落ち……


「どうしてこうなった」


 眠れぬ夜、ローズひとりだけが何度目かもわからないその言葉を紡ぐ。

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