第8話

 撮影が終わり、みんなで集合した時、華は夏樹の顔を直視できなかった。

「みんなご苦労さん。今日はあくまで練習だし、上手く撮れなかったとかそんなん全然気にしなくていいから。あ、ただ、一応今日撮った写真がどんな感じだったかは確認させてもらうから、月曜にカメラは忘れず持ってくるように。以上。解散」

 天川の号令で、写真部はそれぞれ家路についた。天川は自転車でやってきていたらしく駅の駐輪場へ、夏樹と佳果は下り線のホームへ、華と水無川は上り線のホームへと向かった。

 ほとんど会話がないまま、水無川は二駅先の駅で降りてしまう。別れの挨拶は一応交わしたはずだが、今の華にはその記憶さえ曖昧だった。

 華は電車の扉に手をつき、小さくため息をついた。

 佳果に言われたことを自覚していなかったわけではない。ただ自分でも、そうかもしれない、と思っていた程度だったので、他者から指摘されたことで完全に動揺してしまったのだ。

 今にして思えば、華にとって夏樹への想いは初めての感情ばかりだった。

 会えると嬉しいのに、話そうとするといつものように話せない。つまらない人間だと思われるんじゃないかと少し怖くなる。なのに、ちょっと笑ってもらっただけで恐怖心なんてどこかへ飛んで行って、そのまま身体が浮くんじゃないかと思うくらい舞い上がってしまう。

 ──そう、舞い上がっているのだ、自分は。最近知り合ったばかりの一学年上の女の子に。

 ここ最近は、自分の感情のスピードについて行けず、振り回されてばかりだった。ただでさえ、焦ると変なミスをしてしまうのに。

「どうしよう……」

 まだ家に着いてすらいないのに、華はすでに月曜日の放課後について考えていた。休日が終われば、学校が始まる。学校が始まれば放課後、また写真部に集まることになる。それまでに自分は夏樹を意識せずにいられるだろうか。

 電車のドアに凭れかかると、トンネルを走る列車の黒い窓に華の白い顔が写り込む。自分がこんな顔をする日が来るなんて、まだずっと先のことだと思っていたのに。

 そう思いながらも、早く月曜日にならないかと心待ちにしている自分に、華はただ困惑した。



 そして無情にも日曜日はあっという間に過ぎ、再び月曜日がやってきた。

 結局、何の心構えも出来ず、朝起きて身だしなみを整え、朝食を済ませて家を出ると、空は青々と晴れ渡っていた。華はその眩しい蒼穹を見上げながら、今日のことを考える。

 よし、いつも通り。いつも通りに過ごそう。

 佳果は夏樹にはきっと何も伝わっていないと言っていたし、今まで夏樹が自分に気づいている態度を取ったこともなかった。だからいつも通りに過ごせばきっと大丈夫だ。

 胸の中で魔法のように、いつも通りにすれば大丈夫、そう繰り返す。

 電車をいつもの駅で乗り換え、学校最寄りの駅で降り、いつものバスを待つ。その手順は最初あれだけ迷ったのが嘘のようにしっかり身に付き、方向音痴の自分でも、一度覚えてしまえばこんなに上手にやれるのだと、華に自信を与えてくれる。

 そう。いつも通りなら何も心配することはない。きっと登校の手順のように何の問題もなく、今日の放課後も過ごすことができる。

 そう思っていた矢先に、

「あ、染井さんだ」

 今まさに考えないようにしていた人の声が聞こえて、華はほとんど反射的に振り返った。

「朝早いんだねえ」

「あ、相沢先輩……」

 夏樹が眠そうにのんびりと話しかけてきた。少し大雑把な人なのだろう。髪に寝癖がついており、前髪の右端がぴょんと跳ねている。

 あ、かわいい。──なんて、思ってしまうのは「あばたもえくぼ」というやつなのか。

 華はそんなことを考えながら、なんとか挨拶を返そうと、言葉を捻り出す。

「あ、あの、本日はお日柄もよく……」

「あはは、なんかお見合いみたいなこと言うね?」

「え⁉ そ、そんなつもりは……‼」

 冗談だよ、と夏樹は穏やかに笑っている。

「あ、相沢先輩は、きょ、今日は、お早いんですね」

 言ってから、しまった、と思った。まるで夏樹がいつも遅刻しているみたいな物言いをしてしまった。

 そう思って慌てたが、夏樹は別段気を悪くした様子はなく、

「そう、今日は日直でね。珍しく早起きしちゃった。……ねえ、学校まで一緒に行っていい? 誰か付いててくれないとそのまま寝過ごしそう」

「も、もちろんです!」

 華は力強く何度も頷いた。夏樹は、助かるう、と半分欠伸をかみ殺して眠そうにしている。

 全然、いつも通りじゃない。

 バスに乗っている間、隣に立つ夏樹の気配に心臓は早鐘を打っていた。息苦しくて仕方ないのに、胸は幸福感で溢れていて、いっそ、バスが学校に着かなければいいのに、なんてバカなことまで考えてしまった。



「お、夏樹大先生にしては珍しくお早いご登校ですな」

 佳果は教室の戸をくぐりつつ、一番前の席に座っている夏樹の姿を認めた。今日は日直だと金曜日に話していたので分かっていたことだが、きちんと遅刻せず登校できたらしい。

 感心感心、と褒めていると夏樹もまんざらではない顔をしている。

「まあ、わたしが本気を出せばこんなものだよ、佳果くん」

「寝癖ついてますよ、大先生」

「え、ほんと?」

 佳果はポーチから手鏡を取り出し、夏樹に手渡す。夏樹は色々な角度で頭を映しながら、

「染井さんはそんなこと言ってなかったけどなー」

 と言った。

 佳果は思わぬ人物の名前に目を丸くする。

「なに? 染井さんに会ったの?」

「うん。今朝乗ったバスが一緒でね……あー、ここか。全然気づかなかった」

 跳ねた前髪を撫でつけるが、簡単には直らない。撫でつけては跳ね、撫でつけては跳ねを繰り返し、諦めたのか手鏡が返却される。

 動揺を隠してそれを受け取りつつ、

「先輩相手で言い出し難かったんじゃない?」

「多分ね。あー、情けないとこみられちゃったなあ」

 夏樹は椅子の背もたれに凭れかかりながら、そうぼやいた。

 佳果は内心驚嘆していた。夏樹は母親に似て整った顔立ちをしている。ただ本人は人の顔が分からないせいか自分の容姿にも無頓着で、人からどう見られているか気にするような性質ではなかった。

 その夏樹が後輩に寝癖のついた髪を見られて落ち込むなんて……。

「もしかして、今朝、何かあった?」

「いや? もう登校も慣れたみたいで、別に迷子になったりとかはなかったみたいだけど?」

 佳果は脱力する。違う、そっちじゃない。

 そう言いたかったが、迂闊に深堀すると夏樹が華の気持ちに気がつきかねない。本人が伝えるならまだしも、外野の自分がばらすなんて野暮を通り過ぎて最低すぎる。夏樹は鈍いくせに変に頭が回ることもあるので、佳果からそれ以上質問することは躊躇われた。

 佳果は歯がゆい思いをしながら、黙って机に突っ伏した。慌てるな、落ち着け。これは当人たちの問題で自分が首を突っ込んでいい内容じゃない。

 それにしても恋愛か、と佳果はしみじみと考えていた。あのぼんやりしていた夏樹が美少女に好意を持たれたことにも驚きだが、他人に興味を持つようになったのはさらに驚きである。

 しかし、とも思う。夏樹は幼少期こそ茫洋としていたが、高校に入る前から段々と自分で色々考えるようになっていた。

 確か、中学二年生の冬だったと思う。進路について悩んでいた佳果は、雑談の感覚で夏樹に話題を振ったことがある。

「わたしは青嵐女子を受けるよ」

 大したことではないような顔で、彼女はそう言った。

「まあ、青嵐の方が夏樹ちゃんにはいいかもね」

 うん、と夏樹は少し笑って頷いた。青嵐女子は緩い校風でマイペースな夏樹には合っているだろう。そう思っていたのだが、

「調べてみたら設備とか環境とか整ってて、進学率もいいみたいなんだよね」

 佳果はぽかんと夏樹を見た。

「夏樹ちゃん、大学行くの?」

「そのつもり。今のところ、看護師の資格を取ろうかなって思ってる。需要があるし、少なくとも食い扶持に困ることはないだろうから。受ける大学によっては、付属の病院に数年勤務すれば、奨学金を返さなくていいところもあるみたい」

 そこまで言って、彼女は茶化すみたいに手を振った。

「まあ、まだ確定じゃないけどね。そのうち気が変わるかもしれないし、入学できてもわたしのことだから単位不足で卒業できないかもしれないし」

「そうなんだ……」

 その時の佳果は、そう返すだけで精一杯だった。

 夏樹が大学へ行くことに驚いたわけではない。ただ、彼女がそんな先のことや資金のことまで考えて自分で調べていたなんて、想像すらしていなかったのだ。夏樹の家は父親が早くに亡くなったこともあり、母親が家計を支えている。そのことも関係しているのかもしれない。

 思えばそれまで、佳果達は進路について話したことがなかった。何となく夏樹はこれからもぼんやりしていて、高校を卒業した後もふらふらしていそうな気がしていたのだが。

 よく知っているはずの彼女の横顔が、その時はずっと大人びて見えた。

 だから夏樹が色恋に目覚めたとしても、何もおかしくはないのだ。彼女は佳果の知らないところで日々変化している。

 高校に入学した後もいつの間にか写真部に入部していたし、新入生のオリエンテーションでもあんなに人前で堂々と喋れるようになっていた。佳果の知っているぼんやりしている女の子はもうどこにもいないのかもしれない。

 そう思うと佳果は少し寂しい気持ちになった。

 佳果は夏樹のことが好きだ。自分に懐いてくれた時は可愛くて仕方なかったし、彼女が母親に冷たい仕打ちを受けていると不憫でならなかった。けれどそれは姉や妹といった家族に近い感覚で、彼女と恋人になりたいとか、抱き合ったりキスがしたいといった感情ではない。

 佳果にとって夏樹が一番であることには違いない。ただ、これからもずっと仲良しでいたいという親友と形容するのが最も近い感情だった。

 これからも夏樹自身や彼女を取り巻く環境は変わっていくだろう。佳果はそれを一番近い席で眺めていられればそれで十分だった。

 そんなことを考えていた、その時である。

『一年八組、染井華さん。一年八組、染井華さん。今すぐ進路指導室へ来てください。繰り返します──』

 華の呼び出しを告げる放送が聞こえてきた。どうしたのだろう。夏樹ならともかく、華は緊急で呼び出されるような生徒ではないはずだが……。

「……やっぱりあれかな」

 前の席に座る夏樹からそんな呟きが聞こえてきて、佳果は首を傾げる。

「あれって、何か知ってるの?」

「うん。……わたし、ちょっと行ってくるね」

 え、と呼び止める間もなく夏樹は立ち上がり、教室を身一つで出て行く。

 佳果は何が起こったのか分からないまま、彼女が出て行った出入り口をしばらく呆然と見つめていた。



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