第7話

 部長が指定した森林公園はその名前にふさわしく、全体面積の約半分が樹林帯で形成されている。その残り半分には芝生の広場や大型遊具コーナー、少し離れた位置にバーベキュー場や管理事務所、多目的球技場が設置されており、市内でもかなり大きな公園だ。佳果も昔は家族とよく遊びに来ていたものである。

 今日は休日の午後ということで人が多いが、夏休みシーズンの混み具合に比べれば、まだ少ない方である。写真部は他の利用者の邪魔にならないよう、一旦隅に集まった。

「じゃ、十七時になったら、ここに集合。何かあったら、私に連絡。以上。散開」

 部長は待ちきれないように早口で言って、さっさと芝生の広場へ向かっていく。そのいつも通り身勝手な背中を見送って、佳果は残されたみんなの顔を見た。

「……どうしようか?」

 予定通り、一年生と二年生でペアを作るつもりではあるが、その班分けについて一応お伺いを立ててみたのだ。組みやすい二年生を選んでもらった方がいいだろうという、佳果なりの配慮である。

「では、私が浦星先輩に、水無川さんは相沢先輩について頂くというのはどうでしょうか?」

「えっ」

 しかし、その思惑とは裏腹に華は佳果を指名してきた。驚いて夏樹を見たが、彼女は特に気にした様子もなく、にこにこと笑っている。

「いいんじゃない? 水無川さんはそれで大丈夫?」

 はい、と水無川が同意する。いつの間に仲良くなったんだ、このふたり……。

「じゃあ、それで……」

 意見を差し挟む余地のなくなった佳果は渋々と頷く。

 夏樹は水無川に声をかけると、球技場へと向かって歩いていった。

「……じゃ、あたし達も行こっか」

「はい」

 華は明るく頷いた。

 佳果達は大型遊具コーナーへと足を運んだ。何組かの親子連れが遊具で遊んでいるところだった。

 しかし佳果は、華が初心者であり、いきなり人物を被写体にするのは許可を取ることも含めてハードルが高いと考え、今回は風景や植物などの撮影に挑戦してもらうことにした。

 本日持ってきたのはコンデジこと、コンパクトデジタルカメラ。手振れ補正機能付きで素人でもきれいに撮りやすいところを佳果は気に入っている。

 まずは撮影に慣れてもらうために、レンズ一体型のモデルを使用し、オートモードでひたすら撮ってもらう。華は隅に咲く小さな黄色い花を撮ることにしたらしく、色々な角度から撮影を試み始めた。

 彼女は集中力が高いらしい。最初に色々アドバイスしたら、後はそれを活かしながら自由に撮り続けている。呑み込みも早いようだ。

 手持ち無沙汰になった佳果は、その透き通るような白磁の横顔を眺めながら、絵になるなあとぼんやり眺めていた。正直、かなり気が抜けていたのだと思う。

「でも、顔じゃないんだよなあ」

「……え?」

「えっ?」

 突然、振り返った華に、佳果は慌てて口元を手で押さえる。

「あたし、今声に出してた?」

「ええ、はい……」

 ごめん、と佳果は頭を下げる。考えていることが時々口から洩れてしまう。自覚している悪い癖だ。

「何が顔じゃないんですか?」

「ええっと……」

 佳果は困って話を逸らそうかとも思ったが、華があまりにも不安そうな顔をして訊いてくるので、観念してもう一度、ごめん、と謝った。

「気を悪くしないでほしいんだけど、夏樹ちゃんが、あなたに興味持っているみたいだから。それで……」

「つまり、興味を持っている理由が顔じゃない、という意味ですか? どうしてそう思うんです?」

 夏樹、という名前に華は明らかに反応を示した。相変わらず分かりやすい子である。

 そう言ったらどんな顔をするだろう。──佳果はちょっと意地の悪いことを考えながら、問いに答える。

「夏樹ちゃんは人の顔を覚えられないから。ちゃんと認識できない、って言った方が正しいかな」

「認識できない?」

 そう、と佳果は頷く。

 看護師として勤めている従姉に聞いた話である。人の顔を識別できない認知障害のひとつで、人によって程度の違いがあり、根本的な解決方法は存在しない、相貌失認や失顔症と呼ばれるものがあるらしい。夏樹の場合、全く知らない他人だけではなく、親しい佳果や自分の母親の顔ですら識別できていないので、そうではないかと従姉は言っていた。

 その話をすると、華は目を丸くしていた。

「そんなことがあるんですね……。知りませんでした」

 佳果は、だよね、と同意する。

「あたしもそう。従姉に言われるまで、あんまり人の顔に興味ないんだろうな、くらいにしか思ってなかったから。そういう障害があるって言われてびっくりしたんだよね」

 ただ、そう説明されて納得したのも事実だった。

 確かに夏樹の人の顔に対する記憶力の悪さは、度を越えて酷かった。佳果だけでなく、自分の母親まで他人と間違えるなんて。他の子達からはあり得ないと言われていた。周りの声だけではなく、その度にため息をつく夏樹の母親の冷たい態度は見ていて気の毒だった。

 時々思う。従姉に教えてもらった今でこそ、夏樹の人違いをフォローしているものの、それ以前の自分は彼女に何と言っていただろう。彼女が傷つくような言葉を口にしてはいなかっただろうか。……思い出したくても、うまく思い出せない。

 佳果がそんなことを考えていたように、華も何か思うことがあったのだろう。ぽつりと、

「だから、相沢先輩は私のことを信じてくれたんですね」

 それはほとんど独り言のような声量だったが、佳果の耳には確かに届いた。きっと彼女自身の欠点のことを言っているのだとすぐに分かった。

 極度の方向音痴だという彼女──染井華の言うことを、夏樹は一度たりとも否定しなかった。華の言葉を信じ、手助けさえした。入学式の時も、今日の待ち合わせもそうだ。

 華は青い瞳を少し潤ませて、コンデジを宝物のように抱えている。そんな彼女の姿を見ていると自然、言葉が浮かんできた。

「やっぱり、夏樹ちゃんのこと、好きなんだ」

「えっ」

「え?」

 また口から出ていたらしい。初めは虚を突かれた様子だった華の顔がみるみる紅潮していくのを、佳果はしまったなと思いながら眺めていた。

「ど、ど、ど、どうして、そう、思ったんです、か……?」

 普段は落ち着きのある華が明らかに動揺している。しかも惚けているわけではなく、純粋に佳果に気づかれた理由が分からないらしい。

 どうしてって、と佳果は半ば呆れた。

「だって染井さん、めっちゃ顔に出てるんだもん」

「えっ? ええ⁉ そうなんですかっ⁉」

「そうですぅー。……まあ、絶対本人にだけは伝わってないと思うけど」

 そう付け加えたが、華は驚愕と羞恥でいっぱいいっぱいなようで、もう聞こえていないらしかった。



 幼馴染にして親友の夏樹は、昔はちょっとぼんやりした女の子だった。

 佳果達の母親は中学時代からの親友で、ふたりとも地元で結婚して出産。色々とタイミングが近かったこともあり、よくお互いの家を行き来していたらしい。

 だから、最初の出会いがいつだったのか、ふたりは覚えていない。当然、第一印象など記憶にないし、物心ついた時には傍にいるのが当たり前の存在となっていた。

 そしてお互い、お受験とは無縁な家庭環境だったので、通う学校は同じ学区の公立の小学校。まさかクラスまで一緒になるとは思っていなかったが、そういう運命なのか、佳果達は同じ教室で机を並べることになった。

 相沢と相沢と浦星で席が前後だったこともあり、入学して間もない頃は習慣というか惰性というか、何となくで一緒に過ごしたが、ある日を境に、佳果は夏樹のお世話係として傍にいることになった。

 あれは忘れもしない、小学一年生の下校途中。

 佳果は夏樹と当時のクラスメイトだった女の子と三人で家路についていた。佳果はその子と並んでお喋りをしていて、その後ろを夏樹がついてくるような形だった。

 お喋りでこしゃまくれていた佳果と違って、夏樹は良く言えば大人しく、悪く言えば自我があいまいで、存在感が空気な子供だった。なので、クラスの子と別れた時、すぐ後ろにいたはずの夏樹が、振り返ったらいなくなっていたことに佳果は驚いた。慌てて来た道を戻ったら、最後に曲がった角のところで、彼女は知らない中年の男性に道を訊かれていた。

 男性はいたって普通の人だった。背丈はそれほど高くなく、髪は短く髭は剃られ、清潔感のある白いポロシャツとちょっと色が抜けたジーンズを着ていた。そんな出で立ちだから一瞬、佳果はほっとしてしまった。

「うーん、それじゃあ、ちょっと分からないなあ」

 男性は困ったように笑っていた。いや、笑っているように見えた。

「悪いんだけど、おじさんをそこまで連れてってくれないかな。お礼にお菓子を買ってあげるから。ね?」

 男性は優しそうな声でそう言った。なのに、佳果の心は不安でいっぱいになっていた。

 浦星家は商店街で精肉店を営んでおり、客には愛想良くするよう口酸っぱく言われていたのだが、同時に店は子ども一一〇番の家でもあったので、わざわざ子供に道を訊いてくる大人には注意するよう、佳果は躾けられていた。

「もし、道を訊かれても絶対に近くに寄っちゃだめ。よく分からないから、商店街にある交番で訊いてくださいって言いなさい。それでも、しつこく訊いてきたり、こっちに近づいてくるようなら迷わず逃げなさい。捕まったら、あんた達の力じゃ敵わないからね。これを引っ張って相手に投げつけて、大声出しながら逃げなさい」

 そう教わっていたので、男が夏樹に触れようとした時、佳果は反射的に角から飛び出して、持っていた防犯ブザーを鳴らした。男が驚いて動けなくなっている隙に、ぽかんとしている夏樹の腕を取り、ありったけの力で「助けて―‼」と叫びながらその場から逃げ出した。幸い、男は追ってこなかった。

 そのままの勢いで家に帰ると、店番をしていた母親が並々ならぬ佳果の様子に驚いていた。興奮しながら事情を説明すると、母親は血相を変えて交番に電話をかけた。

「佳果、言われたこと、ちゃんと覚えてたんだね。えらい、えらいよ」

 普段怒ってばっかりの母親が──まあ、怒られるようなことばかりしていたのだが──珍しく褒めてくれた。夏樹の母親からもすごく感謝をされ、

「この子、ぼーっとしてるから、佳果ちゃんがついててくれて本当に助かったわ。ありがとう」

 涙ながらにそう言われて、佳果は有頂天になった。夏樹の母親がすごく美人なことも増長する原因となった。

 そのようなことがあり、佳果はその日から夏樹の見守り役として、傍をついて回るようになった。「この子はあたしが守ってあげないと」という強い使命感で幼い佳果の胸は満たされていた。

 そしてついでに、あれこれ世話を焼くようにもなった。それまであまり気にしていなかったが、夏樹は忘れ物も朝寝坊も多く、授業中もぼんやりしていて、教員達を困らせていたからだ。見守り役はかくしてお世話係になったわけだが、思ったより嫌ではなかった。

 夏樹はぼんやりしてはいても素直で、何かしてあげる度にお礼をちゃんと言うこだったし、だんだん「よっちゃん、よっちゃん」と佳果の後をついて回るようになったのが可愛かった。あとは、彼女が母親似だったことも要因のひとつであった。

 そんな佳果の甲斐甲斐しい努力もあって、マイペースの塊だった夏樹は忘れ物も朝寝坊もだいぶ減っていった。佳果もお世話係として、やれやれという心境だったのである。

 そんな夏樹が、だ。こんな美少女に好意を寄せられるようになるなんて。

「何が起こるか分かんないもんだねえ、夏樹ちゃん」

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