第5話

 仮入部の一件があった翌週。

 放課後のチャイムが鳴って暫く経った昇降口は、多くの生徒で賑わっていた。

「染井さん」

 夏樹は見覚えのある後姿を見かけて声をかけた。声が届いたのだろう、部室棟へ向かっていた華が振り返る。

 二人の間にいた数人の少女たちが驚いて一瞬立ち止まり、それから華の横を通り抜けていく。夏樹の位置からははっきりとではないが、華の容姿を称賛する言葉がかすかに聞き取れた。

 ──そういえば、部長が美少女だって言ってたな。

 そんなことを考えながら少女たちを見送っていると、華が夏樹に歩み寄ってきた。

「相沢先輩。お疲れ様です」

「おつかれー。今から部室?」

 はい、と華は頷く。その青い瞳が僅かに細められて、彼女が微笑んでいることが何となく分かった。

「そっか。わたしも丁度行くところだったんだけど、ご一緒してもいい?」

「もちろんです」

 華は夏樹が並ぶのを待って歩き始める。ふと、石鹸の香りが鼻腔を掠め、夏樹は内心どきりとした。美少女は匂いまで良いものらしい。

 夏樹は当たり障りのない話をしながら、部室棟の階段へと足を向けた。

 部室棟は四階建てになっており、外観はちょっとしたマンションのように見える建物だ。ただ、マンションと違ってエントランスやオートロックはなく、エレベーターもない。なので、夏樹達は毎度、外階段を上って四階の最奥にある部室へと向かわなければならなかった。

 ただでさえ、外靴に履き替えるのが手間だというのに、写真部があまり人気のない、少人数の部のせいなのか、随分利便性の悪い場所に部室をもらってしまったものである。だが、四階は空き部屋が多いので、一、二階の運動部の部室に比べれば、かなり静かなのは有り難かった。

 階段を上っていると、額にじんわりと汗が浮かんでくる。部室に着けばエアコンがあるので快適なのだが、これからどんどん暑くなっていくことを考えると、この階段は本当に気が滅入る。去年のことを思い出して、夏樹は少しげんなりとしながら、惰性で口を開く。

「ところで、染井さんさ、写真部に仮入部してみてどう? 退屈してない?」

「はい。知らないことだらけで毎日新鮮です。それに……」

「それに?」

「みなさん、とてもいい人ばかりで、何だか申し訳なくなります」

 振り返ると、華の表情が少し曇っているような気がした。その理由に思い至り、夏樹はあえて明るく話す。

「申し訳ないのはこっちの方だよ。でも、楽しんでくれてるならよかった。今日もよろしく」

「はい。よろしくお願いします」

 華の声のトーンが少し上がった。夏樹はそれに応えるように笑う。

 華が気にしているのは、仮入部した時の約束のことだろう。最初に言い出したのは、部長だった。

「じゃあさー、仮入部してる間だけでいいから、名前貸してくれない? 一応、入部届出しておかないと六月の総会で同好会扱いされちゃうんだよぉー……」

「ええっと……」

 華は少し悩むように口元に手を当てた。正直かなりせこい手だ。

 けれど、華はそれを了承してくれた。一つ条件を追加して。

「私が入部届を出した後も、新入部員の勧誘は続けてください。……不正は良くありませんから」

 華の目は真剣だった。部長がそれに頷かざるを得なかったことは言うまでもない。

 こうして華は写真部の、仮入部という名の有期契約部員となったわけだが、彼女は名前を貸すだけではなく、部員には違いないからと毎日部室に顔を出している。その真面目さゆえだろうか。良くないことをしているような罪悪感を抱いているようだった。

 ──別に名前貸しなんて、他の部でも普通にやっているんだけどな。

 かといって、そのことに関して華を元気づけるような言葉は思いつかない。

夏樹は若干もやもやとしながら階段を上りきった。首筋から背中へ流れ落ちる汗のせいで、シャツが貼りついて気持ちが悪い。

「もうすっかり暑くなってきましたね」

 遅れて上ってきた華が、ふう、とため息をつく。夏樹が振り返ると、ハンカチを額に当て、それから首筋を押さえている。仕草が上品で様になっている。それなのに少し色っぽく見えるのは、どういうことなのだろう。

「……早く部室行こっか」

 夏樹は見てはいけないものを見てしまったような気がして、視線を逸らし最奥の部屋へと向かう。鍵を開けて中に入ると、籠った生ぬるい空気が二人を出迎えた。



 部室棟の部室は一般的な間取りでいうと、二DKの形をしている。住宅ではないのでお風呂はないのだが、トイレや流しはあって、冷蔵庫も各部屋に最低ひとつはある。

 また、ボンベ式のガスコンロも設置してあるので、薬缶や鍋でお湯を沸かすことくらいはでき、部室でお茶やコーヒーを飲んだり、カップ麺を食べたりすることもできる。部屋は和室と洋室があり、写真部は洋室の半分以上を暗室として使っているため、みんなで話し合う時はもっぱら和室に集まるようになっていた。

「ごめーん。おまたせー」

 夏樹達が部室に到着して、約三十分後。佳果が汗だくでやってきたところで、ようやく全員が揃った。座布団を持って座卓にみんなが集まる。

「遅かったね。何かあった?」

 夏樹の隣に座った佳果は、HRホームルームが長引いちゃって、とハンカチで額を拭いている。

「球技大会の種目分けで白熱しちゃってね」

 ああ、と夏樹は納得した。

 来月予定されている球技大会は、クラス別で全学年が参加する小規模な体育祭みたいなものだ。新しいクラスになって初めて開催される大きな行事であり、運動部が盛り上がるイベントのひとつである。

 なので、運動部員の数によって、クラスの熱量が変わってくる。HRホームルームの長短はそれを端的に表していた。

「うち運動部少ないから、秒で決まったなー」

「夏樹ちゃんは何にしたの?」

「卓球。よっちゃんは?」

「あたしも卓球」

 ふっと吹き出す。長年一緒にいると大体考え方は分かる。きっと、団体競技はミスをした時の周囲の反応が怖いからとか、そういう理由だろう。とはいえ、夏樹も似たような理由なので人のことは言えない。

「はい、雑談はその辺にしてー。活動始めるぞー」

 部長が手を軽く打ち鳴らす。新入部員が入ってくれてからというもの、部長の機嫌はすこぶる良い。少なくとも、自分で率先して話し合いの場を取り仕切るタイプではなかったはずだ。みんなが部室に集まって一番喜んでいるのは、案外、部長かもしれない。

 写真部は基本的には個別活動がメインである。一応、学校行事の時は撮った写真を新聞部に提供したり、コンクールに出したりするので、そこは参加必須なのだが、それ以外は各々好きにしていいことになっている。だから部室に毎日来る必要はなく、これまで部員が全員集まることは稀だった。

 それが今年から、やる気のある一年生が入ってしまったので、何となく集まるようになってしまった。華ともうひとり、正規新入部員、水無川の影響である。

「はい」

 部長が話し始めるより先に、夏樹の向かいに座った水無川が、まっすぐ手を挙げる。表情の変化が乏しいので感情が分かりづらい。

 部長は特に気分を害した様子もなく、どこから持ってきたのか、指示棒で水無川を指す。

「はい、メルメル」

「芽瑠です。──来月の球技大会、写真部は撮影するんですか?」

 タイムリーな話題に一同の視線が集まる。

 これに部長は頷いた。

「もちろん出る。そして、一年生には初陣ということで、事前に練習をしてもらおうと思う」

 部長の言葉に一年生ふたりが反応する。華も参加するつもりらしい。

 ふたりに見つめられ、部長は面倒くさそうに手を振る。

「いや、そんなに緊張しなくていいから。初めてでいきなり上手く撮れなんて言うつもりないし。ただ、カメラの使い方はある程度分かっといた方がいいから、実地研修をしようって話」

「実地研修って、今年も運動部を撮るんですか?」

 佳果が申し訳程度に手を挙げると、それでもいいけど、と部長は自分の頬を指揮棒で軽く突く。

「正直、各部に了承取るのが若干だるい」

「出た、コミュ障」

「うるせー!」

 部長が指示棒で夏樹の頬をぐりぐりと突く。

 天川は非常に人見知りで、ある程度仲良くなるとよく喋るのだが、知らない人が相手だと口数が極端に減る。時には気配すら消し、気づけば本当にいなくなっていることすらある。

 そんな調子なので、先日行われた部活動紹介についても、部長が全く戦力にならないのを見越して喋りは夏樹に全部回って来ていたわけだが。そのおかげで華は、壇上に立つ夏樹に気づくことができたらしい。何にせよ部員にとっては迷惑な話である。

 そう考えると、華に自分から勧誘をかけたのは部長としては快挙だったのだ、と夏樹は今更のように感心した。

 しかし現在、その部長は悩ましそうに指示棒をくるくる回している。

「かといって、勝手に撮るのはまずいんだよな。何年か前の先輩たちがそれで揉めて、乱闘になったあげく、停部になりかけたらしいし」

「やばいやつじゃないですか」

 初めて聞く話だ。文化部のくせに血の気が多い先輩たちである。

 ということは、去年天川達が問題なく運動部を相手に練習ができたのは、前任の部長たちが話を通しておいてくれたおかげだったのか。そんな素振りはまったく見せていなかったが、彼女たちが上級生として動いていてくれたことに、夏樹は素直に感動した。

 だが、問題は今だ。

 学校行事なら先生たちがついているし、毎年のことだから、本番や予行練習では特に文句は言われないだろう。ただ、部活生相手の撮影は少し面倒かもしれない。先方からしたら、練習中に部外者がいるのは邪魔だろうし、そもそも、写真部に協力するメリットもない。だとしたら、部長があてにならない以上、学内で活動したい時は二年生が事前に根回ししなければいけないことになる。まあ、主に佳果が動くことになるのだろうが。

 内心、他人事のように考えていると、頼りにならない部長が意気揚々と指示棒を高く掲げる。

「というわけだから、今年は西区にある森林公園へ野外活動に出かけまーす!」

 目下の問題からの堂々とした逃亡宣言。しかし、その代替案にも同じ問題がつきまとう。

「いや、撮影許可取らないといけないことは変わらないじゃないですか。じゃなきゃ不審者扱いされて、最悪、警察呼ばれますよ?」

 佳果のもっともな意見に、部長は頷く。

「そこは各自で頑張れ」

「えぇ……丸投げって……」

「二年はマンツーマンで一年に教えてあげないといけないから、トラブルにならないよう、その辺もちゃんとしてあげるように」

「やっぱり丸投げじゃないですか……」

 しかも、自分はひとりで回るつもりらしい。

 そこでふと疑問が浮かぶ。夏樹は軽く手を挙げながら、

「そういえば、部長は普段どうしてるんですか? 何か秘策があるなら教えてくださいよ」

 部長は休日もあちこちで撮影しているらしい。コンテストに出す作品も校内のものより野外のことが多いし、人が映り込んでいることも多々ある。こんな同学年の生徒とも交渉できないような人が、見知らぬ人に何と言って撮影許可をもらっているのだろう。

 部長は、ふん、と鼻を鳴らす。

「私だぞ。知らない人から許可なんて取れるわけないだろ」

 やっぱりか。いや、想像はしていたけど。

 佳果が呆れたような声を出す。

「あの、肖像権って知ってます? というか、コンクールとかに出してる人物写真、バレたらやばいんじゃないんですか? 訴えられますよ?」

「あれは全部身内だから大丈夫。みんな、私が撮ってること知ってるし。顔はなるべく映らないようにしてるから」

「そういうところだけは、ちゃんとしてるんですね。そういうところだけは」

 部長はふふん、と鼻を鳴らしている。いや、褒められてはいないのだが。

「はい。他に質問あるひとぉー」

 再び水無川が手を挙げる。

「これまでの先輩たちの作品が見たいです」

「それ質問じゃないだろ」

 部長はため息をつくと、隣の洋室を指さした。

「一応あっちのスチール棚に、これまでの先輩たちの分もファイリングしてあるから。後で好きに見なさい」

「はい」

「分かってると思うけど、暗室のカーテンは開けるなよ。今現像してるやつ、全部パアになるからな」

 はい、と歯切れよく水無川は頷く。

「ちなみに去年、部長が応募した写真は、特別賞をもらったんだよー」

 夏樹が横から口を挟むと、驚いたように水無川と華が天川を見る。……いや、新入生オリエンテーションでも言ったことなのだが。まあ、あの時は部長が誰か分かっていなかったからか、本人を知った後では反応が大きくなるのは当然かもしれない。

 天川が余計なことを喋るなと言いたげに睨みつけてくる。しかし、夏樹はまったく気にしないどころか、代わりに言ってあげましたよ、と爽やかな笑みを浮かべ返した。

 忌々しそうに舌打ちをして天川はそっぽを向いたが、それが照れからくることを夏樹と佳果は理解していた。実際、天川は不遜でずるいところがあるが、写真に関してはかなりの実力者である。正直、うちのような弱小写真部には勿体ない人材だった。

 天川が露骨にため息をつく。

「もういいや。……他に質問ある人」

「はい」

 ここで初めて、佳果の向かいに座った華が手を挙げた。

「はい、フルール」

 なぜフランス語……。しかし、華は気にした様子もなく、

「野外活動の日程ですが、いつのご予定でしょうか?」

 言われて一瞬部内が静まり返り、あー、と一同が声を揃える。水無川はともかく、上級生が誰もそこに思い至らなかったのは情けないを通り越して少々まずい。

「来週の土曜とか……でいいんじゃね? 予定ある人いる?」

 天川が見回すが、手を挙げる者はいない。

「じゃ、土曜ってことで。時間は……そうだな。いきなり丸一日はきついだろうし、十三時に現地に集合して、三、四時間くらい撮る感じかな」

「そうですね」

 佳果が相槌を打つ。すると、視界の隅で華が何か思案するように少し俯いた。

 どうかしたのだろうか。疑問に思って声をかけようとしたが、あ、と理由に思い当たった。

 夏樹は手を挙げる。

「今回はやっぱり待ち合わせにしません? 中央駅とかで。新入生も入ったばっかだし、親睦を深める意味でも一緒にお昼食べたりとか。ほら、時間も時間ですし」

 中央駅は学校に来る途中に乗り換えで使う駅である。あそこなら、華にも分かりやすいだろう。

 突然の提案に天川はやや片眉を上げたが、すぐに思い直したように頷く。

「まあ、それもいいか。中央駅の改札出た柱時計らへんとかどう? あそこからなら近くにファミレスあったし、公園までなら歩いて二十分くらいのはずだ」

「そうですね。それが良いと思います」

 すぐに理由に思い至っただろう佳果もそれに賛同した。水無川は特に反応なく、振り返ると華が何か言いたそうに夏樹を見返していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る