第2話

 あ。

 思わず口から出そうになった言葉を、染井華は寸でのところで飲み込んだ。学校長の長い挨拶の最中、今朝の上級生にお礼を言いそびれたことに気がついたのである。

 結局、華は自分のクラスメイトと一緒に入場することができた。担任はほっとしていたし、間に合わなかった時のことも考えて代理を頼んでいた子も、複雑そうではあったものの、肩の荷が下りたように安堵の笑みを浮かべていた。

 送ってくれた上級生とは、職員や他の生徒に見られたら不味いということで、正門から少し離れた脇道で別れた。

「そこの角を左に曲がって、ちょっと行ったら左手に正門が見えるから。入って右側の建物が体育館だから、そこまでダッシュね。……大丈夫そう?」

「は、はい!」

「じゃ、わたしはバイク置きに行くから。あとは頑張ってね~」

 和やかに言って彼女は走り去ってしまった。華も急いでいたし、引き留める余裕はなかったのだが、よく考えると一度もちゃんとお礼を言っていない気がする。

 そして華は愕然とした。そもそも、自分はあの人の名前すら訊いてない。

 彼女は華の話に耳を傾けてくれていたが、自分のことはほとんど話さなかった。そのため、彼女が上級生ということ以外、華は何も知らなかったのである。

 もう一度会って、ちゃんとお礼を言いたいのに。

 探そうにも、ひとつの学年が八クラス、二、三年が合わせて合計十六クラスある。教室を回ること自体はそこまで大変ではないが、何と言って彼女を探り当てればいいのだろう。まさか、バイクに乗る生徒を知らないか、なんて聞いて回るわけにもいかない。

 だとしたら、外見的特徴で探すしかないが、果たして、自分と同じくらいの身長の、黒髪でショートヘアの生徒が学内に何人いるだろう。考えるだけで頭が痛くなってきた。

 なぜ、と思う。なぜ自分はこんなにも要領が悪いのだろうか。

 思えば、子供の頃からそうだ。決められたことを、決められた習慣やルールの中で行うのは得意だったが、そこから少しでもはみ出すと途端に混乱してしまう。特に、時間に迫られていると簡単に冷静さを欠き、どんどんミスを重ねてしまう。

 その点、勉強はまだいい。テストは制限時間があるのであまり好きではないが、勉強そのものは自分のペースで黙々と続けられるし、規則や法則が実生活よりはっきりしている。基礎を積み重ねて理解を深めていけば、応用問題もそれほど慌てず取り組むことができた。重要なのは平常心なのだ。

 華は静かに深呼吸をした。

 騒めいた心を落ち着けて、そしてゆっくりと考える。

 上級生とはいえ、同じ学舎に通う生徒同士だ。その内、どこかで顔を合わせることもあるだろうから、その時にお礼を言えばいい。委員会や学校行事で、これから上級生と関わる場面もきっとあるに違いない。まだ諦めるには早すぎる。

 ひとつ頷いて、華は居住まいを正した。今は入学式に専念しなくては。

 そう気持ちを切り替えたところで、長々と続いていた校長の挨拶が終わった。

 起立、礼、着席。

 司会の号令に合わせて教職員と生徒が立ち上がり、頭を下げ、座る。華もそれに倣う。

「続きまして、新入生代表挨拶。──新入生代表、染井華」

「はい」

 明朗な返事をし、華はその場に立ち上がった。



 入学式では気持ちを切り替えたものの、翌日、教室で数名の生徒と昼食を摂りながら、華は悩んでいた。今朝行われた実力テストのことではない。昨日の上級生をどうやって見つければいいのか、一晩考えてみたが、これといった解決策が思い浮かばなかったのである。

 昨日は、どこかで出会えたら、と楽天的に考えていたが、上手くいかなかった場合のことを全く考慮していなかった。しかも相手が三年生だった場合、十二月くらいから自由登校となるので、ますます遭遇する機会が減ってしまう。

 いっそ、待ち伏せでもしようかと考えたが、華は自分が必要以上に衆目を集めてしまうことを自覚していた。上級生の下駄箱や校門に立っていたら、妙な噂が立って彼女にも迷惑をかけてしまうかもしれない。彼女と出会った駅で待つことも考えたが、ちゃんとたどり着けるか、そこから自宅まで帰りつけるか自信がない。また、そんな風に待ち伏せてストーカーのように思われるのも嫌だった。

 ただ、お礼を言いたいだけなのに。それがこんなに難しいなんて。

 華は小さくため息をついた。

「染井さんはもう決めてるの?」

「え?」

 隣に座っていたクラスメイトから問いかけられ、華は慌てて顔を上げる。

「ごめんなさい、少し考え事をしていて。何の話だった?」

 彼女は気を悪くした様子もなく、

「部活の話。もうどこに入るか決めてる?」

「いいえ。どこにというか、まだ入るかどうかも決めてなくて」

「そうなの? 私は演劇部に入るつもりなんだけど、染井さんも特に入りたい部がなかったら、一緒にどう? 絶対舞台映えすると思うよ」

 はあ、と華は曖昧に微笑む。自分が舞台の上に立つなんて想像すらできない。母親似のこの容姿を褒められているのだろうとは思うのだが、それはそれで複雑な気分である。

「演劇が好きなの?」

 華は話の方向を逸らそうと、相手に水を向けてみた。すると彼女は屈託なく、うん、と頷く。

「でも、興味があるのは脚本とか演出の方。ここの演劇部って結構有名で、毎年文化祭で公演やってるんだけど、脚本は全部生徒が作ったものでやってるんだって。あたしも二年か三年で自分が書いた脚本を公演してほしいと思って、これから売り込む気」

「そうなの」

 華は感心した。同時に、自分のやりたいことがはっきりしている彼女が羨ましくもあった。特に何の目標もなく、無為に日々を過ごしている自分とは全然違う。

 そんな華の羨望の眼差しには気づかず、彼女は隣に座る少女にも話を振る。

「水無川さんは? 部活、もう決めてる?」

 向かいに座った水無川と呼ばれたクラスメイトは、うん、と短く答える。ツインテールの似合う小柄な少女だが、顔は無表情だ。

「何部?」

「写真部」

「写真好きなの?」

 うん、と水無川は答える。簡潔に尋ねられたことだけを答えている。あっさりしているようにも、会話を拒んでいるようにも捉えられる態度だ。

「そうなんだ」

 そこで会話が終わってしまった。微妙な空気が三人の間に流れたが、水無川は気にした様子がない。

 華は演劇部志望の彼女に振り返る。

「えっと……実は今日のオリエンテーションで部活動紹介があるから、そこで気になる部があったら、見学に行ってみようと考えているの」

「ああ、らしいね。演劇部は何するんだろ? 楽しみだなー」

 そんな他愛もない会話を交わしながら、華は水無川を見る。彼女は周りに関心がないようで、黙々と箸を動かしていた。



 新入生オリエンテーションは、新入生と生徒会執行部の顔合わせと、学校生活のレクチャーが主な目的だ。生徒会の主要メンバーがそれぞれ簡単に自己紹介をすると、年間行事や施設の紹介・利用方法などをスライドも使って説明していく。

 その後、休憩を挟み、予定通り部活動紹介が始まる。

 運動部から順に紹介があり、続いて文化部が舞台に上がっていく。どの部も限られた時間の中で、所属する部の魅力をアピールしようと工夫を凝らしていた。

 だが、紹介という題目はどの部も同じなため、見ている側としては三十分も続けばだんだん飽きてくる。講堂内の空気が弛緩していくのを感じながら、それでも華は姿勢を正して壇上に集中するよう努めていた。

 そして、部活動紹介が始まって一時間くらい経っただろうか。華もさすがに疲労を感じ始めた頃、壇上に三人の生徒が上ってきた。

「こんにちはー、写真部でーす」

 聞き覚えのある声に驚いて、俯きかけていた顔を上げる。マイクを持って右端に立つ上級生に目が釘付けになった。

 間違いない。昨日の上級生だ。

「えー、写真部は現在、わたしたち三名で活動をしており……え? 人数言わない方がいいの?ごめん、言っちゃった。まあそんなわけで、廃部寸前です。あ、廃部じゃなかった。同好会に格下げ寸前です」

 華の座っている席から、何人かの苦笑が聞こえた。話の内容の割にあっけらかんとした彼女の物言いが、倦怠感を抱いていた生徒たちの間に、そよ風として吹き抜けていく。

「そんなわけで、部室は広々と使わせてもらってます。えー、活動についてですが、学校行事の時とかに写真撮って、それを新聞部に提供したり、どこかのコンクールに出したりしてます。まあ、それ以外は各々好きに撮ってる感じですかね。たまに野外活動でちょっと離れたとこにある大きな公園とか、山とか海に出かけてたりもしてます。学内ばかりだと飽きちゃうんで。あと、実績としては去年、部長がコンテストで特別賞をもらいました」

 すると、彼女の隣にいた背の高い黒髪のポニーテールの生徒が持っていた大型パネルを裏返し、さらにその隣の背の低いくせ毛の茶髪の生徒と高く持ち上げる。華の位置からでは細部はよく見えないが、公園で撮ったと思しき親子連れの写真がパネルに大きく張り付けられている。おそらく、それが受賞した写真なのだろう。

「後方のみなさんはよく見えないと思いますんで、この写真と他の部員が撮った写真をいくつか部室の外に掲示しておきますね」

 それから彼女は、ポニーテールの生徒と何事か小声で話すと、あらら、と困ったような声を上げる。

「今ので言いたいことは大体終わっちゃったんですけど、三分って意外と長いですねえ……。えー、じゃ、スマホが普及して、誰でも手軽に高画質な写真が撮れるようになったのに、一眼レフだのコンデジだので写真を撮る意味はあるのかってぼちぼち言われるんで、その辺の話でもしましょうか」

 一旦言葉を区切り、彼女は空いている方の手でポケットからスマホを取り出した。

「スマホの良いところは、すごく手軽に撮影ができるという点です。自分が撮りたい時にこうしてポケットから取り出して、カメラアプリを起動すればもう撮れます。その点では、一眼レフもコンデジも嵩張るし、持ってない人も多いので手軽とは言い難いです。あと、SNSをやっている人は、スマホで撮った写真を加工してそのままアップできるので、そういう手軽さはスマホにしかない利点ですね」

 ただ、と彼女はスマホをポケットに戻し、隣のパネルを手で示す。

「スマホで撮った写真では、このパネルのサイズまで引き延ばすとピンボケしてしまう、という問題があります」

 華の周囲から、へえ、と感心する声が聞こえた。少し見回してみると、それまで項垂れていた生徒たちが壇上の彼女を見ている。

「スマホに内蔵されているカメラにはズーム域がないことが大半ですので、撮った写真を拡大しようとすると、無理に引き延ばす形になるんですね。これに関連して、望遠撮影もスマホは不向きです。あとは……そうだな。星空とか打ち上げ花火とか、夜の撮影は一眼カメラの方が得意ですね。けどまあ、ナイトモードがある機種だとかなり綺麗に撮れるので、絶対一眼じゃないと無理ってわけでもないです」

 つまり、と彼女は人差し指を立てる。

「一眼カメラやコンデジで撮る意味は、あまりありません」

「ええっ⁉」

 ポニーテールの生徒が驚愕の声を上げる。予想外の発言だったのか、演技などではなく本当に驚いているらしかった。

 マイクを持った彼女は慌てて手を振る。

「あー、いや、全くないってことはないですよ? レンズ変えたり設定変えたりして、色々な写真が撮れるのは一眼カメラの利点ですし……。けど、写真にそこまで拘りない人とか、スマホ以外で写真見ない人には意味らしい意味はないと思うんですよね。ある程度の水準さえクリアしてればいいって言うなら、どっちで撮っても同じようなもんですし」

 彼女は正面に向き直り、

「どんな写真を撮りたいのか──残したいのが記録なのか、記憶なのか。結局、その人自身の中にしか意味はないってことです。十年後、あるいは二十年後。撮った写真を見た時に、その瞬間のことを鮮やかに思い出せるような、そんな写真が撮りたい方は、部室棟四階の一番奥、我々写真部をお訪ねください。──以上」

 彼女は歯切れよく言って、お辞儀をした。パネルを持っていたふたりも遅れて頭を下げる。

「三分経ちました。降壇してください」

 進行の声に従い、彼女たちはステージ横の階段をそそくさと降りていく。

「部室棟四階の一番奥……」

 華は口の中で繰り返す。今までそんな風に思ったことはなかったけれど、もしかして自分は本当に運がいいのかもしれない。

 講堂から出て行く彼女を見送りながら、華はそう思った。

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