たそはかれ
空閑夜半
第1話
砂利道から舗装された道路に出ると、緩やかな下り坂が続いている。寒さの和らいだ空気の中、若葉のトンネルを抜けて自転車を漕いでいると、年季の入った木造の駅舎が見えた。
そのまま道なりに下って行き、駅舎の正面を通り過ぎる。
奥のスペースに自転車を止めて中に入ると、見覚えのある中肉中背の駅員が、改札横の通路からホームの奥を覗いていた。
「おはようございまーす」
いつも通り声をかけると、駅員の肩が跳ねた。おそるおそるといった様子で彼は振り返ったが、相手が顔見知りだと気づいたのだろう。一瞬動きを止めると、ゆっくりと息を吐き出した。
「ああ、夏樹ちゃんか。ちょうどよかった」
額を拭う仕草をしながら、初老の駅員は夏樹に向き直る。
「何かあったんですか?」
直前の不審な行動について尋ねると、駅員は周囲を少し見回して手招きをする。促されるまま改札横の通路に入ると、彼はホームの奥を指さした。
夏樹は内心首を傾げつつ、そっと示された方を覗いてみる。
屋根も壁もない吹き曝しのホーム。その最奥に、見覚えのある制服を着た少女がひとり立っていた。特に目を引いたのはこの辺では見かけない髪色で、春の日差しを受けてキラキラと輝く金糸に夏樹は、おお、と小さく声を上げる。
「見事な金髪ですねえ」
「見事な金髪だよなあ」
「ギャルとかヤンキーとかですかね?」
振り返ってみると、駅員はあごを擦っている。
「いやあ、そんな感じじゃないなあ。ほら、遠目で見ても、身だしなみはきっちりしてるし。外人だろうよ」
「外人って……。まあいいや。それで、あの子がどうかしたんですか?」
「たいしたことじゃないんだが、あの子、さっき出た下りの電車に乗ってきたんだよ。それで、あの制服、青嵐女子のだろ? 多分、乗り過ごしたんじゃないかと思ってな」
「まあ、そうでしょうねえ」
夏樹は再び少女の様子を窺う。
ホームに佇み、熱心にスマホを操作している彼女の制服は、市街地にある青嵐女子高校のものだ。創設から七十年超のそこそこ歴史のある学校で、学区内では進学校のひとつとして数えられている。昔はお嬢様学校だったらしいが、今は勉強さえ真面目にやっていれば、それなりに緩い校風だ。
そんな学校の制服に身を包んだ彼女は、ジャケットのボタンをきっちり留め、靴やカバンも真新しい。多分、新入生なのだろう。
それには駅員も気づいていたらしく、
「あの子、夏樹ちゃんの後輩だろ? ついでだから学校まで連れてってやんなよ」
と無責任なことを言ってくる。自分はこそこそ隠れていたのに。
この辺には特に珍しいものもないので、観光客が来ることはない。ただ、それでも年に二、三人くらい電車を乗り過ごした海外からの渡航者がこの駅に降り立つことがある。
夏樹は以前、この駅員が対応している場面に遭遇したのだが、相手から聞き取った駅名を頼りに路線図と「ヒアー」「チェンジ」で乗り切っていた。その時は何とか伝わったみたいだが、対応の仕方から考えて彼は英語がかなり苦手なようだ。あの少女の様子を窺っていたのも、こっちに来たらどうしよう、という不安の表れだったのだろう。
夏樹は少し悩む。
おそらく、制服を見れば同じ学校だと分かってくれるだろうし、翻訳アプリを使えば、学校へ連れて行くくらいどうにかなるだろう。だから、言葉のことはそれほど心配していない。
ただ。
「……まあ、いいか」
考えても仕方ない。夏樹は自分を納得させるように頷く。
「頼んだよ」
駅員に見送られながら、夏樹は改札を通ってホームへ入った。それから真っ直ぐ少女に向かっていく。一歩近づくごとに色々な発見があった。
身長は夏樹とあまり変わらないくらいだが、腰の位置が高い。均整のとれた体型に、痛みのない金色の髪と、透き通るような白磁の肌。──いや、よく見ると、顔色は白いを通り越して青い。余裕のないオーラを発しつつ、一心にスマホを弄っている。
この子、大丈夫だろうか。
鬼気迫る様子の彼女に、何と声をかけようか。夏樹がしばらく迷っていると、スマホに向けられていた顔がふいにこちらを向いた。
青い瞳と目が合い、ぎょっとしつつも夏樹はぎこちなく笑みを作る。
「は、はろー?」
「突然すみません。もしかして、青嵐女子の方ですか?」
「あ、はい。そうです。はい」
「ああ、よかった……」
少女は安堵の息を吐く。夏樹はこっそり頬を掻いた。
それから彼女は、自分が同じ学校の新入生であること、うっかり乗り過ごしてしまい、この駅にたどり着いたことを説明してくれた。
「次の駅で引き返そうと思ったんですが、全然停まらなくて……。あの、どうにか九時半までに学校に着きたいんですけど、今からでも間に合いますか?」
「あー……。どうだろ?」
夏樹は自分のスマホで時間を確認する。現在、八時三十一分。
次の上り電車に乗り、一度乗り換えて学校の最寄り駅まで行くとして、四十分近くかかる。
「ただ、駅からはバスに乗るんだよね。丁度いいのがあれば、そこから十分くらいで着くけど、乗り継ぎが微妙だったら、ちょっと厳しいかも……」
「そんな……」
少女はこの世の終わりでも聞いたかのように落胆した。
たかが遅刻でそこまで落ち込まなくても。夏樹はそう思うのだが、彼女にとっては「たかが」ではないのだろう。
かける言葉が見つからず困っていると、上り電車がまもなく到着するというアナウンスが流れてきた。
「とりあえず、次の電車に乗ろ? もしかしたら、バスもタイミングよく来るかもしれないし」
「はい……」
「それにしても、九時半って微妙な時間だけど、何かあるの?」
確か、ホームルームは八時半で、一限目の授業は八時五十分からのはずだ。
そう思って何気なく尋ねたら、彼女は心底驚いたように顔を上げた。
「何って、入学式です」
「えっ」
目を瞠る夏樹に、少女は唖然としている。
「……ご存知なかったんですね」
夏樹の、面目ない、という声は、滑り込んでくる電車の音にかき消された。
微妙な空気のまま電車に揺られた後、乗り換えた夏樹たちは、車内の隅に腰を下ろした。
さすがに中高生の姿はなかったが、座席は半数ほど埋まっている。その内の数人が振り返ったのに気づき、夏樹は少女を壁側に座らせた。
「いやあ、この時間は結構空いてるねえ。今度からこの時間にしようかなー」
暢気な夏樹とは対照的に、少女は緊張した様子で鞄を抱えている。
ネット上ではそのまま乗り継げそうなバスがあることは分かっている。ただ、その時の交通状況に左右されるので、正確に運行できているとは限らない。まだ油断ができない状況だった。
「大丈夫だって。体育館は正門入ってすぐだから、五分遅れくらいなら全然間に合うよ」
夏樹は努めて明るく励ました。正直なところ、それくらいしか声のかけようもない。常習犯とまではいかないながら、遅刻が珍しくない夏樹にとって、彼女の心情は察するに余りあった。
どうしたものか。
内心頭を悩ませていると、隣から、すみません、と沈んだ声が聞こえた。
「ご迷惑をおかけしている上に、気まで遣わせてしまって。元はといえば、私が乗り過ごしてしまったのが悪いのに」
「いや、迷惑ってほどじゃないよ。わたしも学校行くところだったし」
手をひらひらと振るが、少女は憂鬱そうに鞄を抱きしめている。
「もっと早く家を出ていれば……。いえ、今更言っても仕方のないことなんですけど」
「ちなみに、何時に家出たの?」
「七時です」
「七時?」
夏樹は怪訝な顔をする。七時に出て、どうして一時間半後にあの駅にいたのだろう。
「家って、結構遠いの?」
少女は力なく首を振る。
「いいえ。……家からさっきの乗り換えの駅まで三十分くらいです」
夏樹はますます混乱した。
七時に家を出て、乗換駅まで約三十分。ということは、夏樹と会った駅までは彼女の家から五十分程度で着くはずだが、実際に会ったのは八時半頃だった。四十分ほど空白の時間がある。
首を傾げている夏樹には気づいていない様子で、本当は、と少女は続ける。
「九時までに教室に集合して、それから体育館に入場する流れだったんですけど……どう考えても時間が足りなかったので、先生へ連絡して、入学式には間に合うように行きます、と」
「言っちゃったんだ」
「言っちゃいました……」
項垂れる金色の髪を眺めながら、夏樹はひとつだけ納得した。あれほど必死にスマホを操作していたのは、乗り換えについて調べていたからなのだろう。駅で会った時点で、彼女はもうミスの許されない状況だったのだ。
とはいえ、である。
「けど、九時集合にしても、七時はずいぶん早いね? 一時間前くらいには学校着くでしょ」
それほど深く気になったわけではない。かなり余裕をもって行動する人はいるし、話を聞く限り、少女は随分と生真面目な性格らしい。念のために早く家を出たと言われたら本当にそうなのだろうし、実際、こうしてトラブルに直面していることを考えれば、妥当な判断である。夏樹はただ、せっかく続いている会話を引き延ばしたかっただけだった。
しかし、俯いていた頭がピクリと反応し、少女はそろそろと顔を上げる。
「実は私、ちょっと方向音痴で」
「あら、そうなんだ」
「……いえ、見栄を張りました。本当はかなりの方向音痴なんです」
なぜ、わざわざ言い直したのか。
不思議に思いながら続きを待っていると、彼女は躊躇いがちに口を開く。
「あの、本当に大袈裟に言っているわけじゃなくて。私、家から駅までの道が覚えられてないんです。だから今朝も、他の人なら十分で着くところを、何十分もかかってしまって……」
「あー……、なるほどねえ」
眉根を寄せて話す少女に、夏樹は乗り換えの時のことを思い出していた。彼女は電車を降りた直後、案内とは逆の方向へ行こうとしていた。よほど気が動転しているのだろうと思っていたが、あれも方向感覚のせいだったのか。
だとしたら、夏樹と出会った時、彼女はずいぶん不安だっただろう。来たこともない駅から無事学校までたどり着けるのか、大海原に舟を漕ぎ出すような心地だったかもしれない。
ただ、それだけ苦手を自覚していながら、シビアな約束を交わしてしまうのは、かなり迂闊と言わざるを得ないが。
そんなことを考えていたら、少女と目が合った。
「どうかした?」
青く透き通った瞳に内心を見透かされているような気がしてぎくりとしたが、それは杞憂だったらしい。
少女は、いえ、と小さく首を振る。
「思っていた反応と違ったので、その、意外だったというか……」
「ええ~、そんな大袈裟な~、みたいな感じ?」
芝居がかった物言いに、少女は少し目を見開きながら頷く。
夏樹は苦く笑った。
「そりゃ、そんな風に言われたら、ひとに話すの嫌になっちゃうよねえ」
あまりにも聞き慣れたフレーズだった。誰かの「当たり前」から外れた途端に始まる、否定とレッテル貼り。自分の物差しで他人を測って、何かを分かったつもりになっているひとたちは決まって、どうして、と訊く。どうして。そんなのこっちが訊きたい。
他者が問題なくできていることが、なぜ自分にはできないのか。その焦燥と落胆、そして失望を夏樹は知っている。
電車が緩やかに減速を始め、窓の外を見る。車内アナウンスがまもなく目的の駅へ到着することを報せた。
ドアが開くと、夏樹たちは出口の外にあるバス乗り場へと急いだ。
乗り場に到着した時点でバスの姿はなかった。ほっとしたのも束の間、設置された電光掲示板を見て、少女が驚愕の声を上げる。
「どうしたの?」
夏樹も倣って表示を見上げると、前の前のバスのところに「二十三分の遅れ」と記載がある。
これはどういうことだろう。
「事故だよ」
二人並んで呆然としていると、待合の椅子に腰かけた老人が声をかけてきた。
「北通りの方で玉突き事故が遭って、渋滞にはまっとるんだと」
ほれ、と老人は持っていた杖でタクシー乗り場の方を指した。杖の先では十数人がスマホを片手に自分の番を待っている。
「いつ来るか分からんから、急ぎ連中はあっちに並んでおる。わしは急いどらんし、金もないからバスを待っとる」
「そうなんですね。ありがとうございました」
夏樹はお辞儀をし、まだ電光掲示板を見上げている少女の手を取って歩き出した。
「え、ちょっと、どこに行くんですか?」
「どこって……ここで待ってても間に合うか分からないでしょ? タクシー乗るにしてもあの列じゃ時間かかるし」
「それはそうですけど」
少女は名残惜しそうに振り返っている。夏樹は歩調を緩めず、それにしても、と笑う。
「あなた、すごい持ってるね」
「持ってる? どういう意味ですか?」
「うーん、低い確率をここぞという時に引き当てる、みたいな感じかな」
「少しも嬉しくないです……」
沈む少女の声に、夏樹はからから笑う。
「でも実際、運は良い方だと思うよ。偶然会ったのが、わたしだったんだし」
「それは……。確かに、親切な方に会えたのは幸運だったと思いますけど」
「別にそういうことじゃないんだけどな」
高架下の駐輪場の入口を潜り抜け、夏樹はさらに奥にある一角へと足を向ける。
「訊くの忘れてたけど、口は堅い方だよね?」
「え? ええ……」
「そっか、そっか。ならよかった」
数えるのも苦労しそうな大量の自転車の列の間を通り抜け、さらに奥に進むと、原付バイクの並ぶ区画に入って行く。
「ここ、一二五までなら停めていいんだって。駐車場代高いから助かっちゃった」
その中のひとつ、黒いスクーターの前で立ち止まり、夏樹は少女の手を離す。鞄の中から鍵を取り出したところで、ようやく意味が理解できたのか、少女はぽかんと口を開けた。
「はい、これ着けてね」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「うん?」
夏樹は手渡そうとしたヘルメットを引っ込めた。少女は額に手を当てて考え込んでいる。
「あ、免許ならちゃんと持ってるよ。見る?」
「いえ、そこではなくて……。青嵐女子って、バイク通学は容認されてるんですか?」
夏樹は事も無げに首を振る。
「されてないです。見つかったら、怒られるだけじゃすまないと思う」
「ダメじゃないですか!」
「ダメじゃないよー。見つからなければ大丈夫だし」
「それは大丈夫と言わないと思いますけど……」
少女は困惑している。夏樹にも彼女が言いたいことは分かっていた。入学早々、校則違反で処罰されるようなリスクを負いたくはないだろう。夏樹だって無理強いをするつもりはない。ただ、遅刻を回避する手段は限られている。
夏樹は上着のポケットからスマホを取り出すと、じゃあ、と少女に画面を示す。
「今、九時十六分。バスを待つか、タクシー乗り場に並ぶか、走っていくか、バイクに乗るか、遅刻するか。どれにするか、ここで選んで。わたしはどれでもいいから」
「え……」
「ただ、走るのはお勧めできないね。絶対間に合わないし、疲れるだけだから」
どうする、と少女に再び問う。彼女は迷うように足元に視線を落とした。
夏樹はポケットにスマホを仕舞う。
こうしている内にも時間は刻一刻と過ぎていくが、特に気にはならない。実際、少女がどの選択をしようと、夏樹にとっては大した問題ではなかった。彼女にとって入学式がどれほど大事なものなのか分からないし、決めてもらった方が押し問答を続けるよりは建設的だと思ったのだ。その結果、時間切れになったとしても。
しばらく手持ち無沙汰にヘルメットを弄んでいると、少女が意を決したように顔を上げた。
「……ヘルメットを貸してください」
「はい」
言われるがまま、ヘルメットを差し出す。受け取った少女は躊躇うことなく、頭にすっぽりと被った。
「これ以上、ひとに迷惑はかけられません。学校まで乗せて頂けますか?」
「うん、いいよー」
夏樹は快諾すると、少女のあご紐を調整し、バイクを駐輪場の外へと運び出す。無駄口を叩いている時間はない。ヘルメットが収まっていたシートの中に二人分の鞄をなんとか押し込むと、少女に先に乗るよう促す。
「スカート、気をつけてね。足はそこ。乗っている間はわたしの腰にしっかり捕まって、絶対に身体を離さないで。重心が安定しないと危ないから」
少女は頷く。フルフェイスで表情は分かりづらいが、緊張しているのだろう。動きがぎこちない。
若干心配しつつも、夏樹もヘルメットを被る。手を腰に回すようジェスチャーすると、おずおずと手が伸びてきた。その両手を引き寄せ、しっかりと自分の腰を抱えさせる。
ヘルメットが当たり、ぬくもりが背中を覆った。少女の早鐘が制服越しに伝わってくる。
大丈夫。
巻ついている手を軽く叩き、夏樹はエンジンをかける。異音がしていないことを確かめると、いつもより慎重にスロットルをひねった。
廊下で立ち話をしている生徒たちの間を縫って教室に入ると、ドア側の列、前から二番目の席で、柔和な笑顔を浮かべている少女と目が合った。
「おそよー」
「そよそよー」
返事をしながら、夏樹はその生徒──
「夏樹大先生は今日も重役出勤ですなあ」
「うむ。ちょっと野暮用があったものでね」
おどけながら横向きに座ると、佳果は両肘を机について身を乗り出してきた。
「野暮用? 寝坊じゃなくて?」
「安心なさい。もちろん寝坊もしたとも」
「ダメじゃん」
佳果は軽く笑ったが、ふと心配する目つきになって、
「やっぱり、朝迎えに行こうか? 新学期始まったばかりだからまだいいけど、このペースだと後半単位やばくなるよ?」
「うーん……」
夏樹は首をひねる。実は去年、その単位がギリギリだったことを、別のクラスだった佳果は知らない。
佳果とは幼馴染で小中高同じ学校に通っている。中学までは地元の学校だったこともあり、合流地点でよく待ち合わせていたのだが、高校からは別々に通学するようにしている。夏樹に合わせていると、佳果まで電車に乗り遅れてしまうからだ。
しかも、夏樹の家と佳果の住む商店街は、駅を挟んで真逆の方角にある。いくら気の置けない仲とはいえ、朝の貴重な時間を割いてもらうのはさすがに気が引けた。
「お気持ちは嬉しいのですが、もうちょっと自分で頑張ってみようと思います……」
「そう? まあ、気が変わったらいつでもお声かけくだされ」
「かたじけない」
佳果はのんびりと笑って、
「それで、野暮用って?」
「ああ、うん。実はさー」
夏樹は今朝の出来事について大まかに説明した。もちろん、バスが遅れてバイクに乗ったくだりは省略して、である。佳果は夏樹がバイクに乗っていることを知ってはいるのだが、教室では誰が聞いているか分かったものではない。
「金髪の新入生かー。すっごい目立つだろうな」
話を聞き終わった佳果は、自分の髪を指でいじっている。栗色のふわふわのくせ毛は、毎朝セットするのに苦労するという。特に雨の日は全て剃り落としたくなるほどらしい。
青嵐女子高校では染髪や脱色などは禁止されていない。しかし、不思議なことに学校の許可があっても髪色を変えている生徒は少なかった。その少ない生徒たちも色の濃い薄いはあれど大抵は茶髪で、奇抜な色にしている生徒は学年に二、三人程度である。
ちなみに、佳果の髪は地毛である。幼少期に比べれば色味がだいぶ濃くなったが、それでも染めているのではないかと、中学では何度も訊かれていた。
「多分、二、三日もあれば学校中に知れ渡るんじゃないかな」
「そうだね。それにしても、極度の方向音痴かあ……。方向音痴の人って結構いるけど、家の近所でそんなに迷うなら普通に生活するだけでも大変そうだね。移動教室とかやばそう……」
これには夏樹も強く頷く。
ちゃんと調べたわけではないが、青嵐女子の敷地は体感で夏樹たちが通っていた中学校の倍以上ある。それぞれのクラスがある教室棟の他にも、職員室や美術室、化学実験室などがある管理棟、部活生が利用する部室棟、PC室や視聴覚室のある図書館棟、体育館に講堂、武道場なんかもある。グラウンドも陸上部とサッカー部がいっしょに使える広さがあり、購買部は品揃えが豊富で、食堂も多くの生徒が利用することを考慮した広さと席数だ。
そんなこれまでと規模の違う学校に通うことになってしまったので、入学当初、佳果は移動教室や体育の時はクラスメイトに混ざって移動していたらしい。
一方の夏樹はというと、早々に諦めてしまったので授業を欠席しまくり、担任に呼び出された。怒られるのかと思ったら、何か体調に不具合やクラスに問題でもあるのかと真剣に心配されてしまったので、以降はそれなりに努力するようになったのである。
夏樹がそんな苦い思い出に浸っていると、それで、と佳果がさらに身を乗り出してくる。
「その子、名前は何ていうの?」
「え? 名前?」
「そう。訊いたんでしょ?」
「いや?」
夏樹は首を振る。
「ええー……」
「いやだって、こっちから訊くのも威圧的じゃない? 入学早々、『キミ、名前は?』なんて」
「それは訊き方にもよるんじゃないかな?」
それに、と夏樹は肩を竦める。
「訊いても、顔覚えらんないし。広い学校だもん。ちらっとお互い見かけることはあっても、もう関わることはないって」
「そうかもしれないけど……」
佳果は呆れている。
それはそうだろうと思う。同じ学校の先輩後輩で、道中、それなりに会話があったにも関わらず、どちらも名乗らないなんて。もっとも、あちらは状況的に余裕がなくて、そこまで考えが回らなかったのかもしれないが。
しかし、夏樹としてはそれで別に構わなかった。もう会話する機会もないかもしれない相手。それくらいの方が気兼ねなくお節介ができる。
「でもさー」
佳果が何か言おうとしたところで、始業を報せるチャイムが鳴り、廊下にいたクラスメイト達が慌てて戻って来る。
「まあ、そういうことだから。あ、後で数学のノート貸してね」
「……うん……」
渋々頷く佳果に礼を言うと、夏樹は前に向き直って次の授業の教科書やノートを取り出し始める。その間、何か言いたげな視線が背中に注がれていたが、夏樹はあえて気づかないふりをしていた。
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