第29話
この湖には、複数の川から水が流れこんできている。
そのうちの一本はこの国の西に広がる森から、王都を通って。
別の一本はもっと北側の草原をまわって。
そしてこの国と東の隣国との境となっている川からも。
このうち国境となっている川は、その上流が未開の山脈である。
この国も隣国も、この山脈にはほとんど手をつけていない。
ただでさえ険しい山々であるが……。
その上さらに、凶悪な獣人の支配域だからだ。
念のため、国境からこちら側の川の水をすべて検査してみた。
国境沿いの川からだけ、同じ未知の成分の反応が、しかも湖よりも高い濃度で検出された。
「未知の成分を含んだ水は、この川の上流から流れてきている、ということでしょうか」
「現在、集めたデータからは、その可能性が高いと申し上げます」
「これ以上のデータを集めるには、どのような方法が?」
「隣国に協力を打診し、向こう側のデータと突き合せる必要があります」
姫さまは大きなため息をつく。
たいへんお困りらしい。
この件で隣国と交渉する場合、これは立派な外交となってしまう。
いま彼女に与えられた権限を越える、と言うことだ。
そもそも、王族が国境沿いでアレコレしていたら、隣国を刺激する可能性もある。
そのうえ、くだんの上流の山脈はヒトの領域ではない。
虎獣人と呼ばれる亜人たちが縄張りとしていて、彼らは侵入者を許さないという。
まあ、だったらここは、おれがちょっくら……。
「ひとまず、別働隊の偵察兵を山脈に派遣いたします。くれぐれも、あなたは動かぬように」
「えっ!?」
「行くつもりでしたね? 駄目です、認められません。専門家にお任せください」
えー、おれだって現役を退いたとはいえ、まだまだやれるんだぜ?
こう見えても昔はちったぁ……。
「あなたが優れた力の持ち主であり、独力で状況を打開できる人物であることはよく承知しております。だからこそ、ここはどっしりと控えていただきたい」
釘を刺された。
こう、ぶすっと、ちから強く。
「幸いにして、別働隊の仕事は概ね終わりました。湖の周辺に隠し港は存在せず、しかし密猟者は数組、摘発できました」
「あ、密猟者、いたんですね」
「野盗と変わらぬような、村の外の輩です。村人の船が湖に入る前、深夜の時間帯に密漁していた様子」
「深夜にその程度じゃ、たいして魚を捕れないんじゃ?」
「ええ、せいぜい小銭稼ぎがいいところ。ですから、王都の市に流れている魚はまた別の出所と考えられます」
こちらの問題も、どうやら振り出しに戻ってしまったようだ。
まあ、おれには関係のないことである。
仕方がないので、川の上流のについては姫さまと別働隊に任せることにする。
おれは研究者の本分であるデータ採集に専念だ。
未知の成分がどこから、どうやって出てきているか、もっと調べたかったんだけどな……。
虎獣人の言葉は分からないけど、あいつらとやりあったことは、ちょっとだけあるんだけどな……。
とクルンカに愚痴ったところ。
「先生は冒険者に戻りたいんですか?」
と首をかしげられてしまった。
違うんだ、そうじゃないんだ、ただおれは未知のわくわくがあの山々にあると知って、我慢ができないんだ。
「まるで、うちのちいさな子たちみたいです」
くすくす笑われた。
プライドが砕ける音が聞こえる。
「でも、姫さまが心配するのもわかります。先生がいないと、今回の研究に協力する他の先生方も困ちゃうでしょう?」
「そんなことは……ああ、でもいくつか仕切ってることはあるか。だからそろそろ、学院に帰らなきゃいけないんだけど」
「ですよね。共同研究なんですから、いまはそっちを優先しましょうよ。未知の成分について調べるのは、また後でいくらでもできるんですから」
うう、そうですね、はい……と肩を落とす。
十二歳に、冷静に諭されてしまった。
仕方がないので、これまでに取得したデータをまとめる作業に戻る。
村から借りた家で、机に向かってひたすらに細かいデータと格闘した。
クルンカもこの作業を精一杯、手伝ってくれた。
専門的なところはちんぷんかんぷんとのことだが、単純な検算と校正では、実に頼りになった。
数日が経った。
姫さまが帰宅した。
彼女はこのところ忙しくあちこちに出向いていたのである。
「川の上流に偵察隊を送ってから、もう五日。何の頼りもないため、追加の人員を送るべき、という意見が強いのです。あなたはどう考えますか」
「冒険者を雇った方がいいのでは? あるいはおれが……」
「冒険者を雇いますね」
即決だった。
また、すぐに出ていく。
クルンカが「あっ、晩ご飯は……」と追いかけていった。
やれやれ、向こうも大変そうである。
本来、姫さまが管理している別働隊は、この村に隠れ港があるのではないか、そこで余分に魚を捕っているのではないかという疑惑のもと連れてきた人員なのだが……。
そちらの調査はどうなっているのだろう。
おれには関係ないこと、と言われればその通りなんだけど。
こっちの仕事はほぼ終わってしまったので、後は帰るだけなんだけどなあ。
ちなみに行きは王都からこの村まで川を下って一日だったが、帰りは魔道具の櫂を動かす定期便を使って二日である。
人力で櫂をこぐ船も現役で使われてはいるのだが、そこに安い金を払うよりは、最新式の船に乗って速度を優先したいところである。
戻ってきたクルンカに「姫さまは、王都に戻ることについて何か言っていただろうか」と訊ねる。
「お忙しいご様子でしたので、そのあたりは……。でも先生が向こうに帰るなら、わたしも一緒に戻ることになると思います」
「姫さまはおひとりで、この村に滞在を? ああ、そうか、別働隊に合流すればいいのか」
「はい、たぶん……。わたし、あちら側にどれだけの人がいるのか知らないんですけど」
そのあたりは、別に知る必要もないからってことでおれも詳しくは聞いてなかったなあ。
まあ、いいか。
◇ ※ ◇
結局、それ以上事態は進展しないまま、おれとクルンカは姫さまと別れ、ふたりで学院に戻った。
更に数日が経過した。
その間にまとめたデータを共同研究者たちに提出した結果。
彼らの反応からも、やはり魔力を帯びた未知の成分についての追加資料が欲しいということになった。
追試により判明したのだが、この魔力を帯びた未知の成分――仮にクルカニウムとした――は水溶性で、これを吸収した生き物の魔力を活性化させる副反応を持つ。
湖の魚は基本的に魔力を持っていないから何の意味もないが、たとえばクルンカがこのクルカニウムを大量に飲むと、常時発光する可能性が高い、ということだ。
実際に試してはいないが、理論上はそうなる。
ちなみにクルカニウムとは発見者の助手の名前を勝手に拝借してつけたもので、これを知ったクルンカは「何でわたしなんですかーっ!」とぴかぴか輝いて抗議してきた。
抗議は却下した。
発見したものに自分の名前なんてつけたくないし、その場にいた助手のもうひとりは姫さまだからね、仕方ないね。
「学院に、いやこの大陸に名を残したぞ。すごいな、クルンカ!」
「ぜんっぜんっ! すごくないですっ! わたし、ちょっとお手伝いしただけじゃないですか! 先生はもう少し真面目に学問してください!」
「過去には、新発見したものに飼っていた猫の名前をつけた奴だっていたんだ。助手の名前でもいいだろう」
「わたしは猫と同じですか!?」
言い方がまずかったかもしれない。
「発見者の奥さんの名前を冠したものもあるな」
「あの、それってどういう意味……あ、はい、先生が言外の意味なんて考えてるはずないですね」
「ちょっと待って、いまおれ馬鹿にされた?」
クルンカは「知りませーん」とそっぽを向いた。
「先生なんて、ひとりで経費の精算をすればいいんです」
「あれ、もう経費の書類は提出したって言ってなかったっけ」
「……言いましたね。昨日、出しました」
こちらを向いて、ぷう、と膨れっつらで睨んでくる。
その全身はぴかぴか輝いていた。
「研究室の中で何の魔法を使ってるんだよ……」
「使ってませーん。ただちょっと気合いを入れて魔力を流してるだけでーす」
「もしかして反抗期か?」
「勝手に親にならないでください!」
その日のクルンカは、めちゃくちゃ輝いていた。
これが若さというヤツか、ちょっとまぶしかった。
◇ ※ ◇
更にしばしの後、王宮の一室にて。
いつものように、おれと姫さま、それから側付きの女性ふたりだけで話をする。
あれから結局、村での捜査には進展がなかったようだ。
別働隊は、野盗まがいの密猟者を十人ほど捕まえただけで王都に帰還したとのことである。
「無駄足でしたか」
「ええ。ですが無駄足でもよろしいのです。村人には何の落ち度もなかったとわかれば、問題なく別の方面に目を向けることができます」
と姫さまは平然としていた。
まあこれは、実験と同じだな。
何かが間違っている、と判明するのは、けっして失敗ではなく、立派な一歩前進なのだ。
真実に繋がる道を明らかにするには、ひとつひとつ、間違った道を潰していく方法もあるのだから。
「ところで姫さま、ここに、おそらくあの村以外で獲ったと思われる魚があります」
そこでおれは、姫さまに一匹の魚とそれに関する実験資料を提供する。
資料は、この魚に高濃度のクルカニウムが残留していることを示していた。
姫さまの顔が険しいものとなる。
「あなたがこの魚を手に入れた業者は?」
「こちらの資料に。明らかに安かったんで、ピンと来たんですよね。ちなみにあの村の魚よりもクルカニウム濃度が高い。例の川の上流で獲られたものなのでしょう」
「そこが余分な魚の産地であると、あなたはおっしゃりたいのですね」
話が早い。
いやー、こういうときは頼りになる上司である。
「いまのところ、我々は水に溶けたクルカニウムしか発見できていません。溶ける前のクルカニウムがどういうものなのか、研究者一同、それを知りたいと強く願っております」
これは本当のことだ。
血気に逸る研究者の一部は、くだんの山脈が供給地であるという推測をおれが語ったとたん、「じゃあ行くか」と装備をまとめ出したほどである。
さすがに、慌てて止めた。
だって絶対に姫さまが激怒するし……。
そういったことを、簡単に語ってみせる。
姫さまは額に手を当てて低く呻いた。
「そうでしたね。あなたみたいなのが大勢いるのですからね、
「いま、失礼なこと言われてますよね、おれ」
「自覚があるようで何よりです」
はっはっは、これだけさんざん当てこすられてりゃね。
でも聞いてよ姫さま、おれちゃんとあいつらの暴走を止めたんですよ。
偉いでしょ、褒めて褒めて。
「頭でも撫でて、よしよし、とすればよろしいのですか?」
「側付きの方々がめちゃくちゃおれを睨んでるんですが?」
「まあ、きっと羨ましがられているのですね」
そうかな? どっちかというと、この不埒者って感じじゃないかな?
ちなみに今日はクルンカが一緒ではない。
彼女は学院に残って、真面目に講義を受けているのだ。
学生が彼女の本分で、助手はあくまでバイトだからね。
「で、例の山脈の方はどんな進捗なんですか」
「腕の立つ冒険者を雇い、向かわせました。間もなく帰還の予定です。使い魔の鳥が簡単なメモを運んできましたが、偵察兵の行方は不明、しかし虎獣人たちは山奥で何か得体の知れぬ動きをしている、と」
「得体の知れない動き……ですか」
「詳細は彼らが戻ってきてから、聞き取りいたします。同席いたしますか」
少し考えたが、おれは同席を希望しなかった。
新しい素材については興味津々だが、かといってこれ以上、政治的なことに巻き込まれるのは御免なのだ。
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