第2話 先生の使命

 Side—良太


 ふっふ、はっは、ふっふ、はっは。

 桃地先生は、丁寧に呼吸を整えながら俺に後れを取らないよう走っている。

 いつもより少しペースダウンするか。


「もうすぐ、はぁはぁ、体育祭ですね、ふぅふぅ」

 うちの学園の体育祭は春に行われる。


「そういえば、後1ヶ月足らずですね」


「良太君は、はぁはぁ、何の競技に、ふぅふぅ、出るのですか?」


「俺はー、男子100メートル走と、二人三脚」

 花形はもちろんクラス対抗リレーだが、俺が選ばれるわけもなく、繋ぎともいえる競技だ。


「はわ! 二人三脚は確か、男女の……ペア」


「そうそう、それも体育祭の見どころですよね。」

 誰と誰がペアになるのか、みんな興味津々である。

 願わくば、白川さんと――。


「ペアはまだ決まってないんですよねー」

 

「誰とペアになるのか、ドキドキです」


「先生がドキドキしてどうするの?」


「ほわわー、おかしな話なのです」

 先生に振り返ると、頬を赤く染めて恥ずかしそうに笑った。


 男子100メートル走と言えば、男子全員上半身裸で走るのがうちの学園の習わしみたいになっている。

 何故かその背中に彼女の名前を書いて走ると言う……。

 俺は当然、美惑の名前を書くことになるのだろう。


「ドキドキします」


「先生、大丈夫? 少し休む?」

 先生に振り返った。

 その瞬間。


「はわ!!!!!! 良太君、あぶなーーーーーい」


 おっとりした口調は、突如機敏になり、俺に飛びついて来た。


 ドン!


 キュキュキューーー


「あっぶねぇな」

 舌打ちと共に、そんな言葉が降って来る。


 一瞬の事で、何があったのか分からない。

 分かっている事は、桃地先生が俺の下敷きになって転んでいると言う事。

 そして、その脇を、自転車が暴言吐きながら通り過ぎたと言う事。


 俺は仰向けになっている先生に覆いかぶさるようにして、間近に先生の顔を見降ろしている状態だ。


「危なかったのです。路地から自転車がノーブレーキで飛び出して来て、良太君にぶつかる所だったのです」


「もしかして、先生、俺を助けてくれたの?」


「間に合って、よかったのです」


 先生はぎゅっと目と閉じたり、何かに耐えている様子で顔を歪める。


「先生、大丈夫?」


「大丈夫なのです。少し足をひねっただけなのです」


「見せて!」


 目立った外傷はないが。

 そうか、俺の体を後ろに引く途中で足首をひねったのだ。


 俺は起き上がり、先生を抱き起した。


「先生、俺のせいで」


「違います。先生は大丈夫なのです。良太君は大事な体。体育祭をめいっぱい楽しんで欲しいのです。怪我なんてさせられません。私は……保健室の先生だから。それが私の使命なのです」


「先生……」


 こんな、凛とした顔の桃地先生を見たのは初めてだ。

 俺は先生を立ち上がらせ、その前に背を向け屈んだ。


「ほえ?」


「乗って。おんぶ」


「はわ! はわ! はわわわわーーー。いいのです! 大丈夫なのです。歩けるのです」


「俺は走りたいから。先生負荷になってよ」


「負荷……ですか?」


「そう。俺、今体鍛えてるの。だから、協力してください」


「そういう事なら、仕方ないのです。協力、するのです」


 先生は少しモジモジしてから、ゆっくりと俺の背中に乗ってくれた。


「重くは、ないですか?」


「全然重くないですよ。激かる」


 いつものランニングコースはおよそ4キロ。

 その距離を、俺は桃地先生をおぶったまま走った。


 背中にかかる重さと温もりが、じわじわと体温を上げる。

 背中から香る甘いレモンみたいな匂いが鼻腔をくすぐる。

 先生の小さい体は、走る度にひょこひょこと上下に飛び跳ねて、時々、唇が耳に当たる。

 ムズムズと体の内側がむずがゆい。

 変に暴れる心臓を胡麻化そうと、力いっぱい走った。


 この気持ちはなんなんだ?



 アパートにたどり着き、階段を上る。


「良太君、ありがとうなのです」


「いえいえ、こちらこそ。俺うっかりしてたけど、手当しなきゃ。そっちの方が先でしたね。気が利かなくてごめんなさい」


 背中で先生が首を横に振るのを感じた。


「ここでいいのです」


「手当は?」


「自分でできるのです。保健の先生ですから」


「そっか。じゃあ、俺はこれで」


「はい。じゃあ、また後で、学校で」


「はい。学校で」


 負荷がなくなり、やけに軽くなった体で階段を駆け下りる。


「良太君!」

 先生の声に、立ち止まり振り返る。

 腰壁越しに先生が顔を出し、手を振っている。

 

 俺は、深く頭を下げた。


「体育祭、楽しみにしてるのです。良太君の事、たくさん応援したいのです。かっこいい所、たくさん見せて欲しいのです」


 そう伝える先生は、なんだか不器用で、とても一生懸命で、眩しい。


 心臓がドクドクと、のぼせ上がる。


 俺はなんて返していいのか分からず、そのまま先生に背を向けた。

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